第1 問題提起
 
 
成務天皇の宮はなぜヤマトにないのか

 成務天皇の宮は,いきなり「近(つ)淡海の志賀(しが)の高穴穗(たかあなほの)宮」である。すなわち,滋賀県大津市である。琵琶湖の湖畔である。後代,天智天皇が遷都する地方である。その前の景行天皇は,「纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮」であるから,いわゆるヤマトである。

 ここからして,すでに問題がある。

 息長帶比賣命(おきながたらしひめのみこと),すなわち後の神功皇后の実家の本拠地は近江だ。しかし今は,おいておこう。とにかく成務天皇の御陵は,「沙紀(さき)の多他那美(たたなみ)」,すなわち奈良県生駒郡にあるというのだから,ヤマトに戻ったようでもある。


仲哀天皇の宮はなぜヤマトにないのか

 神功皇后の夫が,仲哀天皇である。その仲哀天皇の宮は,これまたいきなり,「穴門(あなど)の豐浦(とよらの)宮,及(また)筑紫(つくし)の訶志比(かしひの)宮」である。

 宮は,下関市長府と福岡市香椎である。
 近江なら,まだわかる。しかし,いきなり筑紫=北九州方面ときては,首をひねってしまう。

 ここで,「天の下治らしめしき」というのだが,信じられるだろうか。なぜヤマトじゃないのか。これでは,継体天皇の時代に反乱したとされる,筑紫の君磐井(つくしのきみ,いわい)と同じじゃないか? 学者さんはたちは,継体記あたりから,歴史上の史実だと信じているようだが,筑紫で「天の下治らしめしき」とは,これいかに。

 仲哀紀を読むと,ヤマトにいたようでもあるが,宮の地名をはっきり書かないので,わからない。そして,仲哀天皇2年3月には,南海道巡狩に出てしまい,そのままヤマトに戻らず,仲哀天皇9年2月には,(たぶん)橿日宮(かしひのみや)で死んでしまう。だから,やはりヤマトとは縁が薄かったのだ。

 この天皇は,ヤマトに宮をもてなかったのだろう。古事記ライターがそう言っているではないか。

 下関市長府と福岡市香椎。畿内を遠く離れた九州地方に,なぜ宮を持ったのか。
 その時,畿内はどうなっていたのか。
 誰に任せていたのか。
 いや,任せていたというより,居られなかったのではないか。
 ヤマトには,「大江王(おおえのおう)の女,大中津比賣命(おおなかつひめのみこと)を娶して,生みませる御子,香坂王(かごさかのおう)。忍熊王(おしくまのおう)」がいたのではないか。
 皇統は,仲哀天皇の時代に,すでに分裂していたのではないか。
 皇統の正当性を巡って,何らかの内紛があったのではないか。

 それは,おいおい明らかになっていくだろう。


仲哀天皇の配偶者2人の地位

 古事記ライターが次に明らかにするのは,後宮の血縁関係である。

 「大江王の女,大中津比賣命を娶して,生みませる御子,香坂王。忍熊王」。また「息長帶比賣の命(是は大后なり。)を娶して,生みませる御子,品夜和氣命(ほむやわけのみこと)。次に大鞆和氣命(おほともわけのみこと)。亦の名は品陀和氣命(ほむだわけのみこと)」。

 そして,息長帶比賣,すなわち神功皇后の子供「品陀和氣命」が,「太子(ひつぎのみこ)」であり,応神天皇になったというのである。


大中津比賣命の血筋の良さ

 ところで,古代天皇の配偶者として地位が高いのは,天皇の血を受けた女である。この血が,濃ければ濃いほどよい。その女の子供も,皇位継承者として,立場が強い。

 これに対し,地方豪族が差し出した娘は地位が低く,その女の子供も,皇位継承において,立場が弱かった。

 大江王は,景行天皇の息子である。血が濃いことに関しては,第1級である。「大帶日子(おおたらしひこ)の天皇(景行天皇),此の迦具漏比賣命(かぐるひめのみこと)を娶して,生みませる子,大江王(おおえのおう)。」

 そして,この大江王の娘が,大中津比賣命(おおなかつひめのみこと)である。「此の王,庶妹(ままいも)銀王(しろがねのおう)を娶して,生める子,大名方王(おほながたのおう)。次に大中比賣命(おおなかつひめのみこと)」

 だから,その子供である香坂王(かごさかのおう)や忍熊王(おしくまのおう)は,古事記の叙述からすると,皇位継承で,最も優位に立つはずである。


息長帶比賣命の血筋の悪さ

 これに対し,神功皇后,すなわち息長帶比賣命(おきながたらしひめのみこと)の母は,応神記に系図がある。

 これによれば,新羅からやってきた天之日矛(あめのひぼこ)の子孫,葛城の高額比賣命(たかぬかひめのみこと)である。葛城というけれど,但馬の国が本拠であったらしい。
 新羅からの渡来人の出であり,しかも,地方豪族の子でしかない。身分は低い。

 父方はどうか。

 開化記に系図がある。父は,息長宿禰王(おきながのすくねのおう)であり,開化天皇から出ている血筋だ。しかし,息長宿禰王(おきながのすくねのおう)まで5世代。息長帶比賣命(おきながたらしひめのみこと)は,6世代目だ。その間,天皇は出していない。

 いずれにせよ,天皇の血筋から,はるか昔に,はずれてしまった血である。「王」とは言っているが,現代でも,皇統からはずれてしまった,世が世なれば「王」と呼ばれた人は,たくさんいる。

 5世,6世ともなると,天皇とは縁がなくなっていたと言う方が,あたっているだろう。

 大中津比賣命(おおなかつひめのみこと)に対する血筋の悪さは,決定的である。


息長帶比賣命は本当に「大后」だったか

 だから,古事記ライターは,息長帶比賣命のことを,「是は大后(おおきさき)なり」と言うけれども,本来は,「大后」になれない身分である。かなり無理がある叙述だ。

 その子,品陀和気命(応神天皇)も,本来,天皇になれる生まれではない。

 さて,従来の学者さんや研究者は,息長帶比賣命が「大后」だったことは確かであるから,なぜそうなったかと考え,実家の息長氏の系図や勢力関係を探り,近江の大豪族だったからだと論証して,納得して終わるのが常だった。

 古事記の叙述に,何の疑問ももたないのである。

 しかし,本当に「大后」だったのか。または,「大后」だったという伝承が本当にあったのか。


「大后」ならなぜヤマトに宮をもてなかったのか

 もし「大后」であれば,その夫,仲哀天皇が,ヤマトに宮を持てなかったことがおかしい。

 近江の大豪族の娘を「大后」として迎えたのならば,仲哀天皇が「大后」と共に,本拠地ヤマトに宮を構えなければならない。
 
ところが,そうなっていない。

 本当は,何らかの理由で,穴門の豐浦宮と,筑紫の訶志比の宮で,「天の下治らしめしき」とせざるを得なかったのだ。古事記ライターはそう言っている。

 こうなると,「大后」という称号自体,古事記の叙述自体に,疑問を持たなければならない。系図など,後代のライターにより,何とでもなる。
 息長帶比賣命は,「大后」でもなんでもなかった。ただ,応神天皇の正当性を言うためには,その母を「大后」にして,いかにも皇位継承第1順位だったかのような叙述をしなければならなかった,のではないか。

 「大后」であるはずの息長帶比賣命が,なぜ,ヤマトを目指して,香坂王,忍熊王と戦わなければならなかったのか。これもまた,信じられない展開である。叙述に無理がある。
 そもそも,伝統ある王都ヤマトに,なぜ,香坂王,忍熊王がいるのか。
 なぜ,息長帶比賣命とその夫仲哀天皇は,初めから畿内に宮を設けられなかったのか。
 応神天皇は,本当に正統な天皇だったのか。
 神功皇后=息長帶比賣命(おきながたらしひめのみこと)は,実際には,身分の低い,天皇が所有する一人の女にすぎなかったのではないだろうか。


品陀和氣命は本当に「太子」だったか

 さて,品陀和氣命(ほむだわけのみこと,のちの応神天皇)は,「太子(ひつぎのみこ)」とされている。

 古事記だけを読んでいると,あたかも初めから「太子」だったかのごとく騙されてしまう。叙述の冒頭から,「太子」だと断定しているからだ。

 これもおかしな叙述だ。

 しかし,日本書紀によれば,「太子」となったのは,畿内にいる香坂王や忍熊王を破った後のことである(神功皇后摂政3年)。すなわち,クーデター成功の後のことである。
 これひとつとってみても,神功皇后は,畿内の政権に対する反逆者であったと言えよう。

 初めから,品陀和氣命(ほむだわけのみこと)を「太子(ひつぎのみこ)」と決めつける古事記の叙述は,おかしいのではないか。


品陀和氣命が「太子」である理由は神懸かり的

 ところが,古事記ライターは,言うに事欠いて,神懸かり的叙述をし始める。しかも,まったく筋が通っていない。

 「初めて生(あ)れましし時,鞆(とも)の如き宍(しし),御腕(みただむき)に生(あ)りき。故(かれ),其の御名に著(つ)けき。是を以(も)ちて腹に坐して國に中(あた)りたまひしを知りぬ」。

 意味は,以下のとおり。

@ 生まれたとき,鞆(とも)のような肉が腕に付いていた。
A だから,大鞆和氣命(おほともわけのみこと),すなわち品陀和氣命(ほむだわけのみこと)と名付けた。
B これによって,胎中にいたときから国を平定したのだとわかった。

 @,Aはよいが,だからなぜBなのか,さっぱりわからない。意味が通じていない。

 @だからAというのはわかる。鞆(とも)にちなんで名付けたということだ。しかし,神功皇后が勝利して応神天皇が即位するのは,後々のことである。生まれた時には,まだ,将来,国を平定するかどうか,明らかでない。@だからBとなるのは,その前提として,鞆(とも)のような肉を付けて生まれた子は,母の身体の中にいるときから国を平定しているようなもんだ,という伝承がなければならない。しかし,そんなややこしい伝承はない。

 とにかく,こんなもの,信じる方がおかしい。

 鞆(とも)のような肉が腕に付いていたから,生まれた当時の乳母たちが,将来,国を支配するのね,とささやきあった,というのならわかる。
 しかし,だからといって自動的に,「太子」になれるわけではない。あくまでも,可能性の問題だ。

Bだから「太子」になれたとは,当然にはそうならない。要するに,ここのところ,後付けの屁理屈なのだ。

 それだけではない。胎児のときから国を支配したのだそうだ。胎中天皇という名の源である。
 これも,お笑いだ。胎児が国を支配するということ,それ自体が破綻している。

 要するに,@,A,Bの部分は,応神天皇が天の下を支配するようになってから,その出産当時を回顧した叙述にすぎない。勝てば官軍的な回顧にすぎず,応神天皇の,皇統としての正統性を根拠付ける理由にはならないのだ。

 
 
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