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出版と私

 出版に私自身が関心や興味を持ったのは何時頃のことだったのだろうか。
 青山学院高等商業学部を昭和19年3月に卒業したとき、殆どの学友は前年の徴兵猶予の特例廃止に伴う学徒動員で、学院を去っており、この時の卒業式は現在の本部礼拝堂で行われ、正確な数は忘れたがそれに列したのは30名ぐらいだったと思う。これらのクラスメイトは、当時若い者がいなかったから、皆んな卒業とともに就職していった。が私は直ぐに軍隊に入ることを覚悟していたから、就職せずにその日を待つことにした。  

 これが幸いしたかどうか判らないが、終戦になって復員しても、家でぶらぶらしているより他はなかった。敗戦直後で世の中がどのようになっていくのか、父も様子をみろというので全く何もしなかった。偶々、我が家は落合で戦災に遭い、当時は祖師谷で借家して住んでいたが、下北沢に新しく家を見つけたので、そこから引っ越したことぐらいしか覚えていない。そして何をすることもない侭に新年を迎えた。

 しかし何時までもぶらぶらもしていられないし、周りの人たちは働いているので、父にどこか就職先を捜して欲しいと頼んだ。父も終戦後、戦争責任問題が朝日新聞社内で起こり、役員総退陣ということで浪人していたが、しばらくして探してくれた就職先は中央公論社であった。私は喜んだ。そして嶋中社長を丸ビルにあった会社にお訪ねし、出社する日も決まった。

 ところがその数日後、父は帰宅するなり私に、「中央公論を断ってきた。お前は大学に行け」という。これには吃驚した。わけを聞くと中央公論社に労働組合ができて、騒然としているし、嶋中社長の進退も判らない、そんな混乱の中で勤めても仕様がない、とのこと。それは判ったけれど、大学への進学と言われてみても、入学試験に合格しなければならないのである。戦時中のことで授業から遠ざかっていたことでもあり、自信がある筈もなかったが、父にそう言われてしまえば、それに従う他はない、と観念して俄か勉強をはじめた。受験校はどうせ受けるなら高望みをして東京商大と慶応義塾に決めた。

 大学も戦争直後のことで、海兵、陸士の出身者にも受験資格を与える特例もあって、大変な受験者の倍率であったと覚えている。しかし幸なことに両校ともに合格できたので、これは迷うことなく「くにたち」に通うことにした。

 こうして戦後の混乱期の3年間を国立まで通うことになった。父の考えていた通りになったのだが、今でもこの考えに従ってよかったと思うし、感謝している。

 4月に講義が始まってみると青山で学んだ科目と同じものが多い。これは当然のことであるのだが、一度習ったことは不思議なくらい頭に入って講義を理解することが出来たし、ゼミについては両親が親しくしていた大学の井藤半弥教授の紹介を頂いて、会計学の岩田助教授のゼミにした。

 大学は3年であるが、この3年の間に卒業に必要な単位を取得すればよいという制度であったから、1年目にはせっせと大学に通い、お蔭で卒業までに必要単位の半分を取った。こうなる2年目からは大学に日参する必要はなくなったが、青山時代の癖が出て、山岳部の部室で寝転んでいる時間が増えてきた。部室といっても青山と違い一軒の立派な山小屋で、そこの二階にいれば誰にも見つからない。当時のことであるから、大抵はここで弁当を食べていた。林間のこの小屋は今でも懐かしく思う。

 大学に行かないので暇ができた。父はそのころリーダースダイジェストの編集長をしており、この雑誌の販売は東日本は日配、西日本は大阪の北尾書店であった。北尾書店の社長は朝日新聞の有力な販売店であったから、父とは親しく、私はその書店に週4日アルバイトをさせてもらうことが出来た。半年ほどのことであったが、この経験は私にとって貴重なものになった。

 もう一つは父がリーダイの招待でアメリカに出かけたが、その印象を纏めて昭和23年に「戦後のアメリカ第一信」の書名で講談社から出版された。その宣伝なのであろう日配が東北、信州で父の講演会を企画したのだが、その旅行に母が同伴する筈が、体調を崩したのか急遽私がついていくことになった。秋田からはじまり、山形、仙台、新潟、長野であった記憶する。

 最初の秋田の講演は座席の隅に座って聴いたが、その次になると同じ話を聞くのをやめて、その土地の書店を歩くことにしたが、ついでにといっては申し訳ないのだが、当時の婦人雑誌の販売調査の真似事をやることにした。当時は主婦の友、婦人倶楽部、主婦と生活、婦人画報、ホームなど、占領政策で女性が俄かにクローズアップされた時だけに、こうした各誌は凌ぎを削っていた。調査といっても誰に頼まれたものでもないし、予め計画し調査項目をつくっているわけでもなし、書店とみれば飛び込んでそこの責任者と雑談する程度のことなのだが、講演会に東京からついてきたというと、よく口を開いてくれた。この調査はやってみると意外に面白かったので、その後講演があった各地すべてで行った。

 帰京してそのメモをもとにして、報告書みたいなものを作って、それを父に見せた。調査していることは、旅行中に話したので知っていたが、報告書については何も言わなかった。ところがその数日あと主婦の友の石川社長から直接電話があり、書店調査について伺いたいと言われ、学生の素人の調査に社長からじきじきに電話があるとは、吃驚した。父が喋ったに違いがないので、指定された時間に行ったことを覚えている。

 昭和24年を迎え卒業も間近になった。同級生の就職がぞくぞくと決まっている中で、父に相談した。その頃では私の希望は出版ということを察してくれていたらしく、引き受けてくれた。そしてしばらく後に、講談社、主婦の友、ホームに話したので何処にするか自分で決めろ、とのことになった。私は躊躇なくホームを選んだ。その理由は一番小さな会社であったからだ。そしてホームの社長本郷保雄氏を会社にお訪ねし、ご挨拶した。私としては大学では会計学のゼミであったし、できれば管理関係の仕事でとお願いした。ところが社長は即座に「編集をやって貰います」と言われた。その時は「何故」との思いがした。その理由を伺うと、「貴君の書店調査を実は読ませて貰ったがこれだけのものが書けるのは、お父様の血でしょう。」とのこと、今このことを振り返ってみると、私のそれからの人生を決定的にした本郷社長の言葉であった。社長は終戦まで主婦の友の編集長であり、この雑誌を他の追随を許さぬ地位に築かれた方で、出版界では名編集長として呼ばれた方だった。当時そんなことは全く知らなかったが、入社させて頂く以上社長のご意向に沿うしかないと思った。「何時から来て頂けますか」との話になり、「最後の授業が終った翌日からで結構ですが、卒業式の日だけは休ませて下さい」で決まった。大学に行ってそのことを友達に話すと、「お前は一番遅く就職が決まったのに、一番早く働くことになったな」と冷やかされた。詳しい日は忘れたが3月15日ころから出社したと記憶する。

 編集の仕事は中尾課長の隣に席が決められ、直接教えて頂くことになったが、小さな新しい会社だったし、社長の方針が社内に行き渡っていたし、割合早く馴染むことができた。4月になると本格的な社員の扱いになり、少ないスタッフだから残業が多くなり、また当直もすることになった。編集だけやっていればよいわけではなく、雑誌が製本屋から届くと、それを社内の一隅に積み重ねる作業にも動員された。結束という言葉も覚え、積み重ねても崩れない積み方も覚えた。これを行えば一山で何冊と簡単にその数が判る。

 このようなことで、この会社に入って本郷社長の薫陶を受け、中尾課長の指導を頂いて編集を覚えるとともに、出版人としての在り方を身につける素地を身につけることが出来たと思う。その年の秋に私は結婚した。しかしそれで勤務が変わる筈もなく、毎月の企画や制作に文字通り追いまくられていた。今のように土曜日は休みではなかったが、まだ若かったからそれを乗り切ることが出来たのだと思う。

 しかし25年の春になるとこのホーム社は経営の危機を迎えた。この対策に一社員の私が関与することは勿論なかったが、恐らく資金繰りが出来なくなったのではないかと思う。本郷社長の強気の経営、今から思うと「良い雑誌は売れる」ではなかったか。他誌に比べて企画もよかったし、執筆人は超一流、洋裁はドレスメーカー、文化服装学苑、田中千代、まさに本郷流の雑誌なのだが、ホームの名称は主婦の友や婦人倶楽部ほどの知名度がないから、社長の思惑通りの部数が売れなかったのであろう。そして倒産になったのだが、同僚の編集の人たちは忽ちにして出版社からお呼びが掛ったし、本郷社長も小学館の招聘を受けた。そのとき私はどうしたかというと、これらの同僚と行動を共にせず、父の参議院議員の選挙を手伝うことになった。有楽町のピルの一室が選挙事務所になり、ここへ通うことになった。しかし全く知らない世界だったから何をしていいのか判らず、右往左往していた。唯一つをあげれば、父は地方遊説に行くのに秘書が欲しいとの話だったので、ホーム社の経理をしていた渡辺君を推薦した。彼とは編集と経理だから机を並べたことはなかったが、よく宿直で一緒になった。たからその人柄はよく判っていたから推薦したのだが、幸い父は受け入れてくれ、選挙運動の期間中渡辺君は父と全く一緒に行動してくれた。

 私は選挙が終って義父の増田顕邦の経営する、日本婦人新聞社に入った。そして渡辺君は当選した父の議員秘書になった。父がこれほど信頼してくれたことに喜び、何が縁になるか判らないものだと思った。彼との縁はその後も続く。父はその翌年に他界し、同時に渡辺君は失職してしまった。それを拾ってくれたのが、増田社長、日刊工業傍系の新日本印刷に入り、その後新聞社工務局に移った。そして間もなく彼は結婚することになったのだが、その媒酌人になって欲しいとの話がきた。年齢的には彼の方が上、しかも私たちは二十歳代の夫婦、彼は「先生の代わりにお願いします」というし、義父に相談しても「それが本人にとって一番」といわれ、引き受けることになった。場所は飯田橋大神宮、式はともかく、披露宴の主賓は社長、それに社内の幹部がずらり、その時どんな挨拶をしたか、全く覚えていない。これが私達夫婦の仲人第1号になった。

 日刊工業新聞にも出版局があった。聞いてみると局という名に相応しくない程の少人数で、当時の通産省関係の印刷物の下請けが主であった。私は義父の社長に機会があったら出版に回して欲しいとお願いをしていた。その機会は意外に早くきた。それは出版局の事実上の責任者が、別な職場への移動を申し出たために、出版局次長のポストが空くことになったのでる。
(2003.9.20)

(このテーマは私にとって人生そのものである。それにも拘わらずそれが中途で終わっているので、記憶を辿って書き加えていくことにした。)

 婦人雑誌の編集をしていたことで、日本婦人新聞の編集に義父は配慮してくれたのだが、この出版のポストが空いたために、その後任をまかされた。勿論私は喜んだが、日刊工業の出版であるのに、日本の工業関係の知識は全くといってよい程ない、それに職名は出版局次長、しかも局長は白井編集局長の兼務であったから、現実は局の責任者とみなされ本社の局長会議の一員になった。これには驚いたし大丈夫かと心配しが、義父は「黙って座っていればその内に馴れる」と励ましてくれた。

 出版局といっても人員は10名、私が考えていた出版本来の仕事をしていたのば、松原俊二君だけであった。勿論工業関係の雑誌や本であったがそれも通産省関連のもの、だから売上は小さいけれど絶対に損をしないことだけを考えていたようだ。私は松原君に状況を教えてもらったが、ここには企画も販売もなかった。がこの出版局の年間の大事業「全国工場通覧」の発行があり、その編集がアルバイトを入れてはじまった。これは通産省の統計調査による、全国の工場名簿ともいうべきもので、私の記憶に間違いなければ、10名以上の従業員のいる工場全てが記載されているから、日刊工業新聞紙上で発売を宣伝すれば、一定の部数の販売が可能であった。しかし出版物を販売する書店との正式な取引は社では行われてなかった。その時私は思いだした。父とともに東北、信州に講演旅行をしたとき、日配の方とご一緒したのだが、その一人の福岡氏が、その後設立された東販の専務に、長野支店長の青木氏が仕入部長になっておられることを知ったのである。そこで早速福岡氏をお尋ねしこの「全国工場通覧」を扱って欲しいとお願いした。このお二人はリーダーズダイジェストに父がいることはご承知であったし、また「全国工場通覧」のこともご承知だったようで、私のお願いはすぐに受け入れて頂けた。これを契機に取次店との取引の道が作れたことは、わが出版局には新しい道が開かれたことで、父のお蔭であったのだが、私は社内で評価を頂くことになった。

 工学書の出版を目指すことで松原君と意見が合ったのだが、肝心の執筆者を探さなくてはならない、東京工大や各大学の工学部をまわったけれど、実績のない悲しさ、簡単に引き受けてくださる先生は少なかった。そうした時に日刊工業は社屋全焼という災難に遭った。しかし「災い転じて福となす」とはこのことなのだろうか。増田社長は率先して復興に当たり、また読売新聞社の協力を得て新聞は1日も休まずに発行された。これが世間の評価を頂き、わが社の名前が知れ渡り、それが金融にも影響して、新しい社屋建設、輪転機などの工場整備も順調に進められることが出来た。