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8月15日のこと

 原爆のことを書くと、終戦の日を思い出す。この日私は米子にあった航空隊にいた。朝から晴れて暑い日であった。前日から正午には重大な玉音放送があると報じられていたので、何事かと噂は飛んでいて、一部にはソ連への宣戦布告ではないか、という者もいた。そんなことで何時ものように朝早くから空港には行かずにいた。
 その時に一人の下士官が私のところに、1通の手紙を届けてきた。それは速達で差出人は父で、差出の日付は8月の11日であったと記憶する。なんと当時は東京から米子まで速達で3日も掛かっていたのである。
 開封して読んで私は驚いた。「戦争は終わった。決して自暴自棄的な行動を取らずに、帰って来い」ということが、簡単に書かれ、読んだ途端に何か身体の力がすっと抜けていくのを感じた。嬉しさとか喜びの気持ちはその時は生まれなかった。数時間後に重大な放送があるというのは、このことかと気づいたが、それを誰にも口にすることは出来なかった。上級の士官はこの情報を知っていたのかも知れないが、周囲の仲間には黙っているより他はなかった。私はその手紙をどうしょうか、と迷ったが焼き捨ててしまった。

 終戦が全国民に玉音によって伝達される僅か数時間前にこれを知ったことに、本当は快哉を叫ばなければならないのに、「死ななくてよかった」「父親の愛情」などを噛み締めながら、その何時間を過ごした。自分がこれからどうなるのか、全く考えなかった。
 刻々と放送の時間が近づいてきたら、空襲警報が解除になった、放送中に空襲されたらどうなるのか、と話し合われていたが、それが全く心配ないことになってきていて、同僚の一人が「これは可笑しい」とぽつんと呟いた。
 「終戦の詔勅」は航空管制室に士官が 集まって聞いたのであるが、広島原爆のお蔭で電波の状態が悪く、天皇が何を言われているのかさっぱり判らなかった。「堪え難きを堪え忍び難きを忍び以って萬世の為に太平を開かんと欲す」の一言があったので、これは戦争に負けたのだ、ということが判った。ソ連への宣戦布告ではなかったのである。

 勿論これで訓練飛行はなくなったけれど、これからどうなるのか、さっぱり判らなかったが、やがて操縦士は艦爆の彗星を九州の基地に移す飛行をすることが決まった。そして我々のような非搭乗員も輸送機で同行すると言われたが、直前になってここから復員しろということになった。事実上の飛行隊の解散は彗星が空港を飛び立った時であった。後で知ったことだが、105飛行隊が所属していた第5航空艦隊の長官が、その後沖縄に突っ込んだ。それに同行した者の中に、米子で一緒に生活した者が含まれていたかどうか、その氏名は発表されなかったから知らないが、もしおられていたらどんな気持ちであっただろうか。

 私は家に帰れることになったので、日取りは忘れたが、米子から夜行で京都につき、昼ごろの東京行きに乗ったが、着くまでに 何時間かかったのか、東京へ着いたのは真夜中、そこで仕方なく中央線のホームに止まっていた電車に乗り込んで夜を明かしたことだけは覚えている。しかしその間なにを食べ、なにを飲んだのかの記憶はない。とにかく東京に帰ってきた。まだ8月であったことは確かで、いま思えば逃げるようにして帰ってきたのである。

 これも父からの手紙のお蔭である。自暴自棄の戒めは兎に角、「何も考えずに真っ直ぐ帰って来い」と当時の私は受け止めたのである。
(2003.08.15)