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癌を患う

 80歳になろうとしている今、会社、ロータリーそして青山の関係者からは「全く元気ですね」とよく言われる。そう言って下さる方は私が胃癌の手術を受けたことを知っている方たちである。しかし自分自身は快適な毎日を送っているとは思っていない。体調は日によって違うし、それに合わせて食べるものには注意しなければならないし、疲れの回復は侭ならない。一面年齢の所為かと考えるが、同年齢の人と比べると劣っていることがあり、これが後遺症のためかと思ったりする。

 だがいろいろな会合には顔を出しているし、ゴルフにも出掛けているというと、とても胃のない人には見えない、との言葉が返ってくる。はじめはそれがお世辞とか嫌味に聞こえたが、近頃はそれが励ましの言葉として聞けるようになった。振り返ると手術を受けて10年以上の歳月が流れている。

 この手術を受け退院してから、病床日記を参考にしながら、「私は生き返って」の題で一文を1993年6月に纏めた。その一部をここに記すが、癌の発見は早かったし、その治療も早かったが、回復は必ずしも順調ではなかった。その体験記を、出来るだけ当時の原文を活かしてここに書き留めておく。

(発見から手術まで)

 「自分で可笑しいと思ったのは1991年の4月頃であったろうか。何時もの通り朝食のあとに便所に入り、用を達したあと何気なく便器を覗くと、その色が真っ黒なのである。以前十二指腸潰瘍を患ったときにも同じ経験があったが、その時と違って痛みもないし、その他にも思いあたる自覚症状もなかった。だからその日も何時ものように会社に出掛け、お昼も何時も通りに摂ったが何も起きなかった。

 それで半分くらい忘れてしまっていたが、偶々ゴルフ倶楽部で医者の弟に会ったので、こんなことがあったと話をした。

 数日後にその弟から電話があり、河北病院に話しておいたから、念のため診て貰ってくれとのこと、その言葉に従って病院を訪れたのは5月14日であった。そして検査のためしばらく1ヶ月に1回病院に来るようにとのことになった。その5ヶ月目の9月10日に行った時、今日の検査の結果がよければこれで無罪放免にする、と言われこの時は全くほっとした。しかし10月8日に伺うと先生は開口一番「手術をして頂きます」、この時先生からいろいろと説明があったがそれは殆ど憶えていない。

 何処で手術を受けるのか、弟の判断で新宿の東京医科大学病院に決まり、早速手続きをしてくれ、10月24日に入院となった。河北で宣告されて16日、自分の気持ちも整理できないままに815号室に入った。会社、青山、霞ヶ関、ロータリーなどに連絡して極端な言い方をすればまな板の鯉になるより仕方がなかった。

 担当は第3外科の鈴木和信先生になり、その翌日から本格的な検査が始まった。時には朝早く起こされて採血されたり、レントゲンはその部屋まで出掛けたり、の日々であったが、意外だったのは肺活量が少ないこと、これは昭和25年ころに患った肺結核のためであったようだ。この肺活量を人並みにする訓練が手術の直前までおこなわれたが、この訓練は結構苦しかった。手術についての先生の説明によると、胃は全摘、十二指腸も可なり悪いので一部取る、胆石もあるのでこれも取る、とのことであったが、それは困るということが言えるわけでなし、お任せする他はなかった。

 手術は11月7日午前と決まった。ここまで来ると流石に落ち着かなくなり、外泊をお願いし2日午後から2日間家に帰ったのであるが、3日が素晴らしい好天であったので、霞ヶ関に出掛けた。見納めになるかも知れないという気持ちも少しはあったのたろう。倶楽部では仲間から吃驚されたが、私にとっては気晴らしになった。

 7日は朝から看護婦さんの出入りが激しく、そのうちに麻酔が効いてきたのか、次第に朦朧とし、運搬車に移され手術室に横たえられたことはかすかに覚えている。そして麻酔が効いてきたかなと思った次の瞬間「鈴木さん無事に終わりましたよ」の看護婦さんの声が聞こえた。どのくらいの時間が過ぎたのかまったく判らず、また集中管理室にその後いた記憶もない。8日には自分の病室に戻ったが痛みもなく、ひたすら安静にしていた。

(その後の経過)

痛みはないし、ベッドからは起き上がれるし、この具合ならば退院もそう遠くないと思ったりした。とにかく手術が無事に終わったことで家族も周囲の方たちも安心はして頂けたと思った。ところが手術から9日目に突然傷口から体液みたいなものが洩れ始めた。何が原因かが判る筈もないが、翌日から早速検査が始まりお腹に管が入れられたが、それとともに午後になると発熱するようになり、ひどい時には39度にもなった。外からのお見舞いは午後、なのにその時間になる頃発熱するのだから、重症になったと驚かれた方もあったようである。連日検査は続いた。レントゲン、CT、そして病室もナースセンターに近い856号室に移された。これはいい気持ちのものではない。検査で肺に水が溜まっていることが見つかり、更にそれを抜くための管が入れられ、また身動きが出来ない状態になってしまった。その頃のある朝、まだ熱の上がらない時間に、看護婦さんが病室で足を洗ってくれた。ベッドに腰掛けて膝から下を石鹸とぬるま湯で洗ってくれることだけなのだが、これが大変気持ちがよかったのであろう、「ただもう感謝」とノートしてある。
 午後になると39度の体温になる状態はは12月に入っても続いた。何がその原因なのかの話しもないが、まあ病院にいるのだから何とか治して貰えるだろう、と半ば居直った心境になった。しかし少しずつでもよくなっているのだろう。肺の水を抜く管が外され、日によっては午後に高熱になることもなくなってきた。こういう日には口から飲むジュースが欲しくなったりするのだが、飲んでも期待したほど美味しくなかった。口から飲んだり食べたりする日を待ち望んでいたのだろう、これはショックであった。
 20日が過ぎた頃から午後の発熱が止まり始め、俄かに気分がよくなり、「一つの峠を越した」と実感した。病は気からとはよく言ったもので、医師もそれを認めてくれたのか、23日に全く久しぶりに流動食が運ばれてきた。しかしどうしてか食欲が沸かないのである。お腹に何も入っていないのに、出された食物に手がでない、これは今までの人生でなかった経験であった。
 クリスマスを病室で迎えることになった。もう熱は出ないし気持ちも落ち着いて来ていた。この日青山学院の羽坂理事長と深町院長が揃ってお見舞いにいらして下さり、院長が私のために素晴らしいお祈りをして下さった。この間わたしは流れてくる涙をどうすることも出来なかった。大変な感激であったし、大いに勇気づけられた。全く感謝であった。そして夕方には病院の看護学校の学生さん数人が病室で讃美歌を歌ってイブを祝って下さった。この心遣いは心から嬉しかった。入院していたお陰で思いがけないクリスマスであった。
 1991年は不本意ながら病室で送ることになった。しかしこれから先どのようになるのか、回復するのか、は一向に判っていなかった。これは私自身でどうなるものでなし観念するより仕方がなかった。問題は手術をした傷跡から出ている体液で、これが何時になったら完治するのか、どうも医師にも見当がつかないらしい。といってこのことのために手術することもなかったのであろう。そんなことからこの完治を待って退院することが考えられなくなったのだろう、俄かに退院の話しになった。傷口に、ばんそこうの親分みたいなものを貼れば入浴もできるし、自宅に帰れば食欲も回復するとの配慮もあったと思う、そしてその日は1月11日に決まった。家内の誕生日である。
 退院が決まったとなったらまた沢山の方がお祝いにいらして下さった。嬉しいことであったが、その顔を見ると、元気にならなければ、の気持ちが湧いてきた。こうして私の80日に及ぶ入院生活は終わった。

(その後のこと)

この記録はまだ続いているが、問題の傷跡から出ていた体液は、退院後毎週診察に通って約1年後に完全に治った。体力回復によったのがどうかは判らないが、これで元通りに社会復帰ができた。
  手術からもう10年以上の時が流れているが、この経験で今度はガンになった人からの相談を時々受けることになった。自分の経験が少しでもお役に立つならとお話をしている。それらの人の経過をみていると、胃癌、前立腺癌、最近は肺癌も余り怖くない、しかし食道癌と膵臓癌は要注意であるように思える。但し癌には転移ということがあり、油断は禁物であろうが、私は「その時はその時」と考えて、くよくよしないことにしている。
(2004.02.07)