A09

豊島二五会

  これは私の小学校クラス会の名で、学校は当時の府立豊島師範付属小学校、卒業は昭和11年(1936年)3月、第25回卒業生であったことから、この名がついた。クラスは男2組、女1組で当時だから当然男女共学ではない。師範の付属というのは当時では名門校、入学試験を受けた覚えがあり、合格発表のとき母は泣いて喜んでくれた。この学校は既に無いが池袋駅の西口から5分、現在では芸術劇場になっているところで、その前の公園の一隅に「豊島師範ここに在りき」の石碑がある。

 この会名は戦後に付けられたもので、卒業後はお互いに同窓生としての付き合いはあったが、クラス会は別々で、男のクラスは「早苗会」「村山会」そして女のクラスは「大喜久会」との名があったが、戦後になって合同クラス会を行おうとの気運になり、その時にこの「二五会」の名が生まれた。今年で卒業以来68年になる。勿論全員が80歳だが、3クラスで150人の卒業生であったのが、今日では81人になり、男47人、女37人とその差は縮まっている。ここにも女性の長寿が表れているが、男では亡くなった者の中に戦死者も含まれている。
 ここで私のクラス仲間を何人か紹介しよう。まず塚本太郎君。彼は太平洋戦争の最初で最後の人間魚雷になって散華した男。私は滋賀海軍航空隊で教育を受けていた時、壁に張り出された新聞に彼の名前を見つけ、わが目を疑った。慶応大学の水球の選手、小学校時代は元気な子供であったが、決して無鉄砲のところはなかった。彼は学徒出陣で海軍に入り、その出発に先立って灯火管制の中でささやかな送別会で会ったのが最後であった。
 次は法務大臣になった松浦功君を挙げることになる。小学校時代の彼は典型的なガキ大将、しかも負けず嫌いであったから勉強はできたし、サッカーの選手でもあった。卒業して東京高校に進み東大に入ったまさに秀才コース、内務省に入り、北九州市の助役を経て本省に戻り、次官で退任して参議院議員になった。その彼も議員を辞めて間もなく亡くなってしまった。
 よくわがクラスの秀才は誰だったかの話になるが、今でも長谷川明雄君に落ち着く。勿論勉強は出来たし、級長に選ばれるのは当たり前だった。颯爽としていた彼の姿が目に浮かぶ。豊島の2年後輩の室岡さんと結婚したが、惜しいことに彼は戦後本当に早く亡くなってしまった。
 松尾努君、彼とは小学校時代は一緒のことが多く、彼の父親は文部官僚だったと記憶する。彼は健在で今でも付き合っているが、彼の不死身なことには驚く他はない。まず昭和20年8月6日に彼は広島にいた。そして原爆の洗礼を受けたのだが、柱の後にいたお陰で原爆症は免れた。しかし彼は被爆手帳を持っている。戦後彼の消息を探し、同盟通信の松江支局長であることがわかり直ぐに電話した。お互いの声を聞くのは二十年振りくらいのことだったと思うが、一言ですぐ彼は私が判った。嬉しかった。その後のことになるのだが、実によく病気する。それも手術をする大病、交通事故にあって腰骨を折ったりしているのだが、命に別条があったという話は聞かない。びっこになっているわけでなし、一見常人と変わらぬ不死身がまだ続いている男なのである。流石に車の運転は止めたが、以前は広島や長崎まで飛ばしていた。ジャーナリストであったから彼は「二五会報」の原稿を書き、それをワープロで編集し、コピーし会員に送ってくれた。これはどのくらい会員に喜ばれその交流を深めたか計りしれない。今でも感謝している。
 志茂哲夫君、出席簿で名前を呼ばれると五十音順だから彼の次が私、それに何故が判らないが彼の母親と私の母が親しくなって、授業参観によく二人できていた。そんなことから彼と親しくなったが、彼の叔母名取さんは照宮様のお世話をされていて、彼は宮中の呉竹寮に住んでいたことがある。お陰でお招きを得て宮城の中に訪ねた。印象はまさに別天地、鳥は鳴き、花が咲き乱れていたのだろうが、どんぐりを一杯拾ったことを何故か覚えている。
 菊池武弘君、彼とは戦後になって親しくなった。それは今コンピュゥタ資格試験があるのかどうか知らないが、彼は何回目かのこの試験で1級に合格、その合格者の最年長者としての名が新聞に報じられた。これにも吃驚したが豊島にはいろんな人がいるものだと思った。会社を退いた後に彼は後輩の指導育成に当たっていた。そして彼も私もこの二五会の世話人になって、親交を深めた。その彼がなんと喉頭癌になり、声帯を失ってしまったが、それから2年、彼は喉にマイクのような機械を当てて言葉を話している。そのような姿で一人で何処にでも出掛けていくそうだが、その勇気と気力には敬服してしまう。彼は昔から頑張り屋であったのだ。
 荻野常弥君。この人の名も忘れられない。もう昔の話になっているのだろうが、丸の内にあった三菱重工の本社ビルで爆破事件があった。彼はその事件に巻き込まれて亡くなった。彼の家は駒込にあり、その前のクラス会のときに、家族でやっている店を使って欲しいとの話があって、利用させてもらった。その日にはお母さんもお見えになって、くつろいだ会に皆な喜んだがその後に事件があり、此処での会はその時だけだった。あとで「荻野君は皆とのお別れを予見していたのだろうか」と話合ったことである。

 最後になったが鈴木義行君。同じ姓であったし背丈も同じくらいであったので、机を並べたこともあったし、体操などで並べば近くだったし、何でも話合える友達だった。彼は小学生の時にクラスでは「お魚博士」と呼ばれていたし、目白駅に近い家に遊びに行けば、幾つもの水槽にはきれいな魚が泳いでいた。私はただ目を見張るばかりであった。中学からは別の学校であったから会うこともなかったし、それに戦争で両方の家が焼かれ、益々疎遠になってしまった。再会したのは何時たったか覚えていないが、学校の先生になって栄養学を教えていると聞いた。お魚博士の片鱗を見た思いがした。

 さて、話しを戻して毎年初夏にクラス会を開くので、各組2人づつの世話人会を今年も青学会館で行ったが、その日その係りの人から「何の会合ですか」と問われて、「小学校のクラス会の世話人会」と答えたら吃驚していた。そうだこの年齢になって小学校時代の友に会って一目で判ることが信じられないらしい。「毎年集まっている」といったらまた驚いていた。言われてみれば尤ものことであるが、これは学校に我々は恵まれたお陰だと思う。入学試験をしたのだから、大体家庭のレベルが同じであったこと、そう気がつくと、お店を経営している方の子女はいなかった。だから家族ぐるみの付き合いの中で友達になったこと、一つの例を挙げれば同級生佐藤君の姉が結婚の時、私の両親がその仲人を勤めたが、これは子供同士だけの付き合いでないことが理解して頂けると思う。そういう友達関係であったから、何時までたっても豊島のクラス会が続いていのである。我々は生きている限り続けようとしているだけのことなのだが、周囲をびっくりさせている。今年も6月11日に池袋東武デパートで開催するが、池袋が母校のあったところからこの数年はここで行われている。さて何人集まるのか、最低15名は間違いないと思っている。

(2004.4.8.)

 今年もこの二五会は6月に開かれる。この春松尾君、不死身の男と思っていたが、とうとうなくなった。また一人この会に貢献してくれた人を失った・。

(2005.5.15.)