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3月10日  

 今年は終戦から60年という一つの節目の所為か、この3月10日も東京大空襲から60年ということで、亡くなった林家三平氏夫人の海老名香葉子さんが、私財を投じて上野寛永寺境内に慰霊碑を建立した。この人は三平夫人として承知していたが、この大空襲による戦災孤児だとは全く知らなかった。両親ら家族6人を失った由、10歳くらいの彼女は空爆直後どのようにして生きてきたのか、想像に余りある。  
 それはこの大空襲からあと未だ5ヶ月は戦争が続いたのだし、さらに東京には5月10日と25日に山の手方面を中心に空襲があり、青山学院も我が家もこの時に焼けている。 私は前年9月に海軍に入って東京にいなかったから、この空襲の凄さは知らないが、東京の焼野原の状態はこの目に焼き付いている。  
 海軍に入って滋賀県大津に近い航空隊で6ヶ月の基礎教育を受けて少尉に任官し、更に2ヶ月の術科教育があったあと、陸戦の教育を受けるために千葉県の館山砲術学校に行くことになった。はっきりとした日は覚えていないが、6月のはじめであったと思う。大津から東京に着き、中央線で東中野に着いたときは深夜に近かった。駅に降りるまで東京が空襲されたことは知っていたが、我が家が焼けたことは知らなかった。本当に真っ暗な道だったけれど道は判ったが、左右に建物があった筈なのに夜目にそれが感じられない。この道の正面に武蔵屋という酒屋さんがあったのにそれも見えない。そこで初めてわが家も焼けていて、もし誰もいなかったらどうしようか、と気付いた。とにかく行くことだと心に決め焼け跡に辿り付いたら、幸い両親も弟もそこにいて私の突然の帰京に吃驚したが、お互いに暗闇の中で元気なことを確かめあって喜んだ。両親は家の防空壕に、弟は焼け跡に天幕を張って生活していた。この防空壕は父がつくったもので広さは4畳半もあり、そのお蔭で布団も米も着るものも最少のものが入れられていた。その夜、私は父と母とその防空壕で眠った。  
 翌日、私は軍服を着、短剣を吊って館山に行くため両国駅にたった。ご承知のようにこの駅のホームは高いところにあり、そこに立ったとき、東京湾が見えるくらい何もない景色に唖然としたことを今でもはっきり覚えている。東京はこんなに広かったのか、後ろには国技館の屋根だけがあった。 私がそこに立った時は大空襲から2ヶ月後くらい、幼い海老名さんはまだ大変なご苦労をされていた時であったろう。とにかく戦争はまだ終わっていないのだから、国がこのような孤児の面倒をみることはないし、また東京に住んでいる人たちは何時また空襲があるのか、そのころ米軍が房総に上陸するとの噂もあって、自分を守ることが精一杯の毎日であった筈である。 戦争が終わるまでの5ヶ月間、彼女は多くは語らないだろうが、その人が私財を使って慰霊碑を大空襲60年目に改めて建てられたことを、こころから尊敬したい。10万人が亡くなったその中には遺体も遺品も何もなく判らないままの方がきっと多いに違いない。これらの人たちにとってこの慰霊碑は、親族縁者のお墓ができたと同じ気持ちではないだろうか。民間人10万人という犠牲者の数は広島に次ぐのではないだろうか。広島、長崎の惨状をみていないが、私は偶々機会があってこの大空襲の惨状跡を見た一人として、当時の状況を思い、犠牲になった方たちのご冥福を祈りたい。そして海老名さんには本当に有難うございましたと感謝を申し上げたい。
(2005.03.10)