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人間ドック  

 私は人間ドックに入った経験はあるが、それは何年前のことだったか覚えていない。私の癌はこのようなドックに入って発見されたのではない。平成3年の初夏のある朝、身体の症状が普段と何か違うことを感じ、それを医者の弟に話したところ、念のために診察を受けろとのことで、河北病院で診察をうけた。6ケ月にわたって消化器中心の検査であったが、これは通院しての検査だから、ドックには当たらない。その結果胃癌が見つかって、東京医大病院に入院、手術を受けたのである。しかしその手術の前に実に精密な検査があったが、その時これが人間ドックなのだろうかと思った。入院してからであったから、1日に幾つかの検査ということはなかったけれど、血液検査、内視鏡検査、CT検査、そして肺、肝臓、腎臓、心臓などの機能検査が行われたと思うが、いま憶えていることは、それらの検査のお蔭で疲れ果てたことだけである。  

 ロータリーの何かの会合であったと思うが、偶々同年輩の者が同じ席に集った。こうなると不思議なもので、健康や病気の話に花が咲くが、そのうちに、自分の血糖値とか肝臓機能の数値とかが披露されて、それがよいとか、よくないとかの話になった。その席にいた殆どの会員が定期的に検診を受けていて、自分の検査結果の数値を詳しく承知されているのに吃驚してしまった。私のようにドックにも入らず、検診を受けていないのは全く仲間はずれであった。  

 何故検診を受けているのか、と訊ねると「それは当然」との答えが返ってくる。それでは私が当然のことをしていないことになるが、それが私には納得ができない。検診を受けていれば病気が早く発見される、つまり手遅れになることが防げるということなのだろう。若い時にはその心構えもいいが、80歳を超えてもその気持ちは矢張り大切なのだろうか。ドックに入っても病気になるときはなるし、あと10年を保障してくれるドックではないのだから、何もわざわざドックに入って病気を探すことはないのではないか。既に平均寿命を過ぎていると割り切ってもよいのではないか。  

 言い訳に聞こえるかも知れないが、これがドックに入らないとする私の考えであるけれど、一方病気とは別に老衰という症状がある。白内障、前立腺、疲労感などという老人症状もあるが、もう一つ私には胃がないというハンディキャップがある。これについて矢張り知っておく必要があるのではないか。こんなことを考えるようになったのも、年齢の所為だろうが、こんな考えから自分の身体の現状を知ることを、今考え始めている。
(2005.7.24)

 9月の27日28日の2日間にわたって私は人間ドックに入った。入った先は高円寺にある河北病院検診センター、正直行ってみて驚いた。検査は2日コースと1日コースがあるのだが私は2日を選んだ。行ったら病室のような部屋に入ってと予想していたのに、受付が済むと「検査衣に着替える」ためにロッカー室に行き、それを着てロビーで待機する。横になって待っているのではなく、ソファーで話をしたり、雑誌を読んだりしていると、私の番号が呼び出され、その看護婦さんの指示に従うことになる。 

 検診の項目は全部で15項目もあるのだが、次から次へと呼び出されて、てきぱきと検査ば続けられる。前述したように1日検査の人も含めば100人はいると思うのだが、待たされているといる気持ちにはならなかった。どのように受診者をコントロールしているのだろうか。お昼には食事といっても弁当だが用意されていた。そして午後の検査があり、3時半頃に終り、検診センターで準備された近くのホテルに入った。ここに来れば医師も看護婦もいないのだが、それが意外と開放感になった。ベッドに横たわって本も読めるし、テレビも見ることができるし居眠りもOK、私はこれは合理的なやり方だと思う。

 翌日の朝は食事しないで8時すぎにセンターにはいり、検査衣に着替えて待機する。この時間には検査に時間の掛かる超音波とかレントゲンがあって、10時半にはすべてが終った。さて、その結果はということになるが、詳しい報告は自宅に送られてくるという。何か新しい病気が発見されればその処置はしなければならないだろうが、とにかく結果を待つしかない。
(2005.9.29)