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「飛鳥」での旅  

1.旅の楽しさ
 ある旅行会社から送られてきた案内書をみた家内と私は、飛鳥に乗っての「しまなみ海道・南紀クルーズ」5日4泊の旅に心が動いた。それは、私が「那智の滝」を見たかったこと、家内は「村上水軍」の古跡を訪ねたいと思っていたこと、その両方がこのプランに含まれていたからである。船旅はもう何年前になるか、富士丸で小笠原にホエール・ウォッチッングに行った経験があるだけで、いま日本の客船として一番大きい飛鳥には機会があったら、と思っていたそのチャンスがきたのである。1月5日から9日まで、正月のあとであるが、この時期は風が強い時なので揺れるかもと思った。しかしそこは飛鳥を信頼して申し込んだところ、希望したキャビンが確保されたので、行くことになった。  1月5日11時横浜大桟橋から出航とのことで、この日は家を8時半にでて、渋谷から東横線で横浜へ、タクシーで大桟橋につき船に乗り込んだのは10時少し過ぎ、キャビンには先に自宅から送っておいた荷物が運ばれていた。  5分前にはドラが鳴り、正11時に静かに船は岸壁をはなれた。これから四国の今治まで寄港するこなく進むので29時間走り続ける。先ずベイブリッジをくぐり、東京湾を進む、私たちのキャビンは右舷だったので、横須賀、久里浜を眺めることができた。キャビンはホテルのツイン並みの部屋で、ベッド、応接セット、クロークルーム、バス・洗面のルーム、それにデッキがあり、室温の調節も自由なので快適な船旅が期待できた。おまけにキャビンには果物とワインが届けられていて、これは有り難いことであったが、ワインは飲めないのでご辞退した。  キャビンには「Asuka Daily」1月5日が届けられ、まず夕食の服装はインフォーマル、そして昼食は和食がこどのデッキ、洋食は何処とその利用時間が記るされており、また午後2時から避難訓練が行なわれることが書かれている。また食事時間以外の娯楽のスケジュールも盛り沢山、ご参考までに午後の部を記すと、ピアノタイム、ウォークラリー、映画、カジノ教室・パットゴルフ、スカットボール、輪投げ大会、などである。夜の部になるとダンスタイム、プロダクションショー、スロットマシーン、などが加わる。 またキャビンのテレビを8チャンネルにすると、ナビゲータで現在の船の位置が映される。三浦半島の突端にある城ケ島をお蔭で見ることが出来たし、いよいよ外海に出たかどうか、御前岬の沖を過ぎたかどうか、が判ってこれも楽しかった。太平洋に出ると矢張り波が高くなり、また風も強いらしく、波頭は白くてそれが風に飛ばされている、しかし船は大きく揺れることはなかった。が船内放送では「デッキには出ないで下さい。飛ばされる危険があります」という、向かい風になればそれは相当に強いのだろう。  午後2時から避難訓練、これは義務付けられていることで、船内放送があるとキャビンにある救命具をつけて所定の場所に集る、そこで点呼があるだけのことであったが、いざという時どの通路を通るのか自分で歩くことで確かめておく、矢張りこれが一番大切なことと知った。 下田沖を通過したのは午後3時、速力20ノット、もう横浜から4時間も走ったのにまだ関東、しかしこれが船旅、その頃になるとすっかり晴天になり、遥かに陸地を眺めるのだが、私が密かに期待していた富士山は霞に覆われ見られなかった。御前崎の沖を通るころは真っ暗になった。  昼か和食だったので、夕食は洋食を選んだ。食事は和洋を選択できるし、また席も自由、だから何時も同じ方たちご一緒とはならない。それだけに面白いこともあるが、船客は何故か女性の方が多い、それは我々のように夫婦で参加しているのや、ご家族が主であるが、どうやら女性が団体で参加しておられるようだからである。しかし年齢は可なり高いとみた、それだけに落ち着きがあったのはいいが、私は何となく圧倒された気分になった。しかしそれはともかく、食事は何時も美味かった。それも高齢者を意識したのか、量も程々であったのはよかった。  この旅でのもう一つの期待は瀬戸内海の大橋をくぐることであった。6日の朝6時半ころ目が覚めて窓から外を眺めたら飛行機らしきものが飛んでいる。この近くに関西空港があることを思い出し納得したが、まだ和歌山沖ぐらいだから明石海峡大橋まで2時間はかかる。曇り空で風もないので、これならデッキに出て橋を下から眺めることが出来そうだと楽しみだった。橋に近付くと船内でアナウスがあり、デッキに出て見上げると、船の煙突がぶつかるように見えた。これは勿論錯覚なのだが、この船の高さを感じた。デッキに出れば風は弱くなったけれど、関西も東京に負けずに冷たい風であった。 瀬戸内海に入ると流石に波はない。が島と島の間を縫うように走るのかと思っていたのに、瀬戸内海は意外と広い。漁船が数多く走っているのは、作業をしているのかどうか判らないが、それを避けながら進んでいるようだ。がこのような大きな船が近くを通ったらその波の影響を小さな船は受けることだろう。 瀬戸大橋もくぐり今治沖に着いたのは3時を少し過ぎたころ、早く着きすぎたのではないかと思ったが、それからが大変で狭い港の中で180度の船を回転させなければならないのだが、それはタグボートの仕事、船の側壁に着けて押すのである。ゆっくりとその作業が行われ、着岸したのか丁度午後4時であったのには驚いた、しかも岸壁に今治市民の人たちが沢山迎えてくれた。このような大きな船がこの今治に来ることは滅多にないのだろう。市長まで来て歓迎のセレモニーが岸壁で行われた。これは思いも掛けないことだった。こうして29時間の船旅が終った。ここで下船してこの夜を道後温泉で過ごす方も可なりおられたが、私たちは船で眠る、ここまで来れば暖かくなると予想したが、この今治にも冷めたい風が吹いていた。石鎚山には白いものがみえ、日本への寒波は例外なくこの地にも訪れていた。

2.村上水軍  
 村上水軍とは、村上一族が南北朝から徳川になるまで瀬戸内海の能島、来島、因島の三島を拠点として活躍、海の大名と呼ばれた集団である。この周辺の島々には今7つもの橋が架けられて、本州の尾道と四国の今治が結ばれているのだが、それで判るようにこの辺りには多くの島が点在しているから、瀬戸内を通る船はそのどこかの島の間を通らざるを得ない。そこで水軍はそれらの船を対象に水先案内をしたり、時には襲撃したりしたと推察する。だから当時は諸大名から一目置かれていたのだろう。  7日、我々は岸壁からバスに乗って、5つの橋を渡って1時間ほどで因島に着いた。ここまでくると広島県は目の前と説明されて、ここも本州と四国が近くなったと思ったが、その経済効果は果たしてどうなのであろう、この道を「しまなみ海道」と呼んでいるが、7つの橋は完成したけれど、橋と橋を結ぶ道はまだ一般道を利用していて、全線が高速道路で繋がれているとは言い難い。  まず訪れたのが因島水上軍の城址、可なりの高台にあって急坂でそこまで辿り付くのに思わぬ苦労をしたが、頂上にはお城と博物館があった。博物館には「白紫緋糸段威腹巻」「純金家紋付鉄錆地色具足」(何れも重要文化財)や、古文書、大塔宮令旨の他、太刀、屏風、などがある。このような古い具足や文書を見る機会はそう多くない筈である。でも船から一緒に行った高齢の方たちは、余りにもの坂に諦めざるを得ないようで、お気の毒であった。  驚いたのは時代は判らないが、水軍の人たちの墓があったことだ。お城の下の斜面に整然と並んでいるのを見て、私は何故か水軍の力を感じた。この墓はもう何百年もここに建ち続けているのである。村上水軍は歴史の上でははっきりしていて、地元では観光の目玉にしているのだが、訪れる人も少ないようだし、もっと周囲の整備をすべきだと思った。 帰りには大三島にある大山祇神社に回る。この神社の御祭神は大山積大神、天照大神の兄神とある。その所為か本殿の建物は神社建築史上流造りとして、日本の代表作と言われている由。大きな建物ではないが、何処にでも見られる神社ではないことは判った。またその神社の敷地の広いこと、そして何百年(或るいは千年以上)という樹齢の楠があるし、古い神社であることは理解できたが、何故この島にあるのか、それは判らなかった。

3.熊野街道と那智の滝   
 熊野海道はご承知の通り世界遺産に指定された旧い道である。僅かではあったが昔この道に敷かれた石の上を踏み占めることができた。これは雨によって道が荒れることを防ぐために、大小の石を担ぎ上げて作られた道と考えるが、それが京都まで続いているというのだから、世界遺産になっても不思議ではない。今日までそのままの姿で残されていたこと自体が素晴らしい。しかし実際に歩いてみると、石の大きさは違うし、必ずしも平らではないから登り下りは決して楽ではない。  そして漸く那智の滝に至るのだが、近付いても期待していた滝の音が聞こえない。そして滝壷近くまで進んで滝を目の前にしたのだが、その水量の少ないのに吃驚したよりがっかりした。。ここでの説明では日本の三大瀑布はこの那智と袋田、そして称名だという。何故か華厳の滝が入っていないが、滝を神様として敬っているのはこの那智だけではないか。それにしては今は一番水が涸れる時期ではあろうが、正直がっかりした。この滝は川が流れて出来ているのではなく湧き水であるとか、上流の樹木の伐採でこの姿になったとも聞いた。神様と言われるにしては余りにもお粗末、昔にはこの滝が海上の船からも見えた由だが、いまでは無理な話であろう。折角世界遺産に指定されたのだから、那智の滝の復活に地元は真剣に取り組んで欲しいと願う。

4.終わりに  
 乗船して初めて知ったことなのだが、飛鳥の航海は15年に及んだが,この航海を最後として引退し、船はドイツに売られることになっている由、そして新しく飛鳥K世がその代わりとして3月から就航すると聞いた。この二世は一世より一回り大きく3万5千トンであるとかで、既に横浜沖に係留されている。  「あすかクラブ」という会がある。これは飛鳥に乗った人たちの集いであるようで、今回が最後の航海ということで、この メンバ−が乗っておられたようで、何れ二世の会に引き継がれていくだろう。

 1月9日の朝10時、横浜大桟橋に着岸し、この旅は終った。天候に恵まれたので雨具を使うこともなく、また海が荒れることもなく、先ずは満足できる旅であった。もっとこのような船の旅に慣れたらさらにその楽しみを味わったかも知れないが、我々老夫婦にとっては安らぎの時でもあった。

(2006.1.15.)