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私と青山学院  

 私と青山学院の繋がりは昭和12年9月に始まる。父が朝日新聞の名古屋支社長から東京に戻ることになり転校を余儀なくされ、年度の途中なので受け入れて貰える学校がなく、後で聞いたことであるが、父が米山梅吉氏にお願いし、青山学院中学部に入った、というより拾って頂くことが出来た。1937年だから今から69年前のことである。名古屋では県立明倫中学に通っていたのが、一転してミッションスクールに移ったので、毎日礼拝があって賛美歌を唄い、昼は栄養食を食べるなど、学校生活は大きく変わったが、名古屋に行くまで通っていた豊島師範付属小学校の同級生柳沼君がいたこと、そして青山の学風が 私になんとなく合ったのか、毎日宮益坂を登っての登校も苦にならなくなった。当時の中学部長は都田恒太郎先生、教頭は倉永久先生、担任は藤原喜多二先生であった。  

 1年後に中学部では夏の計画として白馬山登山があった。このことを家で話したら父は是非参加しなさいということになり、白石先生指導のもとに挑戦、初めて大雪渓を登り、唐松岳まで縦走し、鐘釣を経て黒部に下ったが、天候には恵まれ、トロッコ電車にも乗り、有頂天になって歩き、楽しんだ旅であった。生まれて初めての登山であったのだが、私と山との結びつきはこの時に始まった。 スキーについても書いておこう。私は小学校の頃よりスキーを始めた。名古屋にいた頃我が家には書生さん、早稲田の山岳部にいた横井勝郎さんが一緒にいたので、冬にはスキーに連れていってくれた。初めては木曾福島の少し先の藪原であった。リフトなどない時代だから、スキーを履いての登り方、ボーゲン、クリスチャニアなど懸命に習ったのである。だから中学の時には結構滑ることが出来て、中学部のスキー学校に参加したときは、上級のクラス、確か赤倉であったと思う。次の冬には蔵王に行き、その次は志賀高原だったのが雪不足で急遽燕温泉になり、これが岩戸屋に行った最初であった。これらのスキーでお世話になった先生は、中村進先生、高井先生などであった。栗林君との付き合いはこの最初のスキーからであったと記憶する。  それが縁になって栗林君と共に中村先金之助先生のご指導を頂き「山とスキーの研究会」をつくった。この会に1年下の団伊玖磨君、安達眞夫君、春木渉君、長谷川健児君らが加わってくれ、昭和14年には八ヶ岳、15年にはなんと北岳に行ったのである。危ない目もあったが、ちゃんと踏破した。  

 そして16年に私は高等商業学部に、栗林君は文学部に進学しともに山岳部に入ることになった。がこの頃になると戦時色は濃厚になり、何かと落ち着かないことがあったが、まだ学院の門をくぐれば緊張感はなかった。大木金次郎先生から経済原論の講義を受け、中学とは違うものだな、と感じたりした。専門部では毎日の礼拝はなかったけれど週1回の礼拝はきちんと守られていた。そして山岳部では17年の夏には剣岳真砂沢出会いで合宿をし、18年には穂高涸沢で行ったが、流石にこの頃になると食糧の調達が大変で合宿前に買出しに行ったりした。この合宿のとき上高地に入ったら日本映画社から「汗」という映画撮影に協力して欲しいとの話が飛び込み、戦時中なのでこのような国策映画には協力すべきとなって、カメラに収まった。その映画は見たことはないが、今でもどこかに保存されているなら、若いときの思い出として見てみたい。その合宿の直後に学生に対しての徴兵猶予の特例がなくなり、12月に学徒出陣になったのである。栗林君も私も大正13年生まれであったからそれには免れた。    

 少し前後するが、阿部院長がメソジスト派の監督になられたあとに、笹森順造氏が院長に就任された。どのような圧力があったかは知らないが、昭和15年4月に中学部長の都田先生が「私は辞めるのではない、辞めさせられたのだ」との挨拶を残されて学院を去られた。その3年後に今度は高等商業部長の古坂先生が女子専門部長専任となって転出、教務主任の大木先生が退任される人事があった。笹森院長は青山に来られる前は、弘前の東奥義塾におられ、我々学生の側からみれば、青山出身ではない院長が、生粋の青山の先生を追放したのだから、学生は黙って見逃せなかった。18年4月専門部の始業の日、古坂、大木2人の先生と、後任の部長鵜崎先生の挨拶があったが、二人の先生には万場の拍手が送られたのに対し、鵜崎先生には拍手は一つもなく、まことに異様なムードが高まってしまった。 当時の専門部の4年生、3年生には中学部卒業の者が多く、都田先生の二の舞いかと院長に対しての反発もあって、戦時中であったが学内には自由な空気がまだあつたからだろう、学生運動が芽生えていた。  

 そして正確な日は忘れたが、(5月はじめ頃か)或る土曜日の昼近く「月曜日には登校するな」との指令が上級生から届いた。これを同級の者に伝えたが、「そんなことはよせ」との声はなく、いよいよ始まると覚悟をした。ところが日曜日に学校から速達が自宅に届き「月曜の授業は行われる」とあった。このお蔭で両親に学内のいざこざが判ってしまった。それで父に呼ばれてこれはどういうことか、と問われ私はその経緯を話し明日から学校には行かない、と答えた、それに対して父は「お前が言うことは判った。あとのことは何も心配しないで、思っているように行動しなさい」言われたのである。この一言は今でも忘れられないくらい嬉しいものだった。まかり間違えば退学させられることもあったのである。それを父は承知で、逆に励ましてくれたのである。  

 その月曜日、私は様子をみようと学校に出かけたのであるが、集合の場所、時間を間違えたのか、学内は閑散としていた。それで山岳部の部室に行くと、「滝沢さんが警察に捕まった」という。1年上のリーダーであったから吃驚したが、状況も判って来た。並木橋の手前の金王神社に集ったのだが、それが事前に警察にばれて、逮捕されたというが、その正確な人数は判らなかった。そんなことでこの日学内は閑散としていたが、私は何をしてよいかも判らなかった。学校側と警察の話合いもあったようで、夕方までには大部分の者が釈放されたが、滝沢さんは出てこなかった。  

 帰ってこのことを父に話すと「これは容易ならざること」と考えたらしく、全員釈放に向けてまず父兄会を開こうということになり、日取りと場所が決められた。日時は忘れたが場所は銀座教会であった。そしてその父兄会の結論なのであろう、父が代表して笹森院長に面談することになった。面談した日に父は怒って帰ってきて「院長は教育者ではない」といった。  

 我々は留置されている人たちへの差し入れをしたりしたが、結局全員が検挙はされずに釈放された。学校の授業も再開されたが、本当に学内が沈静化したのは、鵜崎部長が急死されたことであった。この先生は担当が英語であったから、商業学部の部長としては相応しくないとのこともあったけれど、先生はどちらかと言えば学生間での評判はよかったが、今度は院長側になった、ということで反発があった。たった2ケ月の部長で亡くなられると、学生の間には我々が鵜崎先生を追い詰めた、との気持ちが生まれ、激しいムードが解消されてしまった。それに加えて笹森院長は学校の事態紛糾の責任を、文部省からであろう、問われて6月に辞職をした。これで問題は片付いたのであるが、幾人かの先生の復職はなかった。しかしこの事件は青山に一つの汚点を残したことは否定できない。  

 後任の院長には小野徳三郎海軍中将が就任された。また青山には工業専門学校が生まれ、文学部、商業学部は明治学院に移されることが決まり、そして12月には学徒動員があり、僅かに残った我々商業学部の学生は、翌年9月の卒業であったのが、更に半年短縮されて19年3月になった。

 今思うと我々は笹森院長の退任を目指して、戦時中にも拘わらず授業放棄を断行したのだから、無茶なことをしたものだと思うが、何れにせよ学生の中から一人も罰せられる者がでなかったことは、幸いであった。 19年3月に我々の卒業式が、現在の本部にある礼拝堂で行われ、私と青山の縁はここで終り、戦時下であったが社会に飛び立つことになったのである。がその縁が後日復活するとはその時全く予想もしなかった。
(2006.3.29)