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私と青山学院(続)  

 今年のはじめ青山学院松沢理事長に、5月の監事改選を機に退任させて頂きたいとお願いをした。その理由の第一は3月で82歳になること、第二は再選されればその任期は寄付行為の改正で4年になること、である。それに羽坂理事長が去られ、綿引理事も退任されて、監事ではあるが理事会出席メンバーの最年長になったからである。この願いが聞きいれられて、3月の理事会で私の後任候補が理事長から発表され、承認されて私の退任はきまった。

 退任が決まったので、就任した時を調べてみたら1979年であることが判った。何んと26年間にもなっていた。こんなに長く勤めたのに、一体私は監事として何をしてきたのか、青山のお役に立ったのか、正直忸怩たるものがあるが、終れば青山130年余の歴史の中で、その20%近い歳月を、大過なく過ごせたことに感謝し、また幸せなことであったと思うに違いない。

 私が監事に何故選ばれたのか、今から思えば26年前の或る日、会社に大木先生から電話があり、頼みたいことがあるから学校まで来て欲しいとのこと、それで早速院長室に伺うと「鈴木君、学校の監事を引き受けてくれ」の一言、私はその仕事の内容も考えぬ侭に「お引き受けします」とお答えしてしまった。当時は既に校友会の理事ではあつたが、その時もそうであったように、大木先生の言葉に反することなど当時の私には考えられないことだったのである。

 余談になるが、青学サービスで昭和50年ころ[月刊あおやま]を発行したことがある。この冊子の寿命は短かったが、丁度学院創立100年にあたって記念号を出すことになり、大木先生との対談を企画した。そのお願いに先生をお尋ねしたら、「君とならやってもいい」と言って下さった。その冊子は今も大切に持っているが、そのお願いに伺ったとき戦時中の学生ストライキの話が出たが、先生は私の父が父兄会を開いて笹森院長と面談したことをご承知であった。父は既に亡くなっていたが、私には嬉しいお話であった。それらを考えると、大木先生が私を選ばれたその裏には、こういうこともあったのかも知れないと思う。

 理事会に初めて出席して驚いたのは、まず中学部に拾って頂いたときの部長、都田先生が理事でおられたこと、そして校友会の先輩野田理事、森広理事、土井理事、常務理事には長田先生、総局長は真鍋さん、勿論私が最年少で一番年の近かったのが理事の羽坂先生だった。  

 監事就任早々の頃、長田先生から厚木の用地を見にいくので付いて来るようにとのお話があった。こんなことも監事の仕事かと思ったが、ご一緒した。厚木駅から畠の中の細い道を20分ほど行くと、広い台地に出て目の前には大山、丹沢の美しい姿が飛び込んだ。ここが候補地だと言われたが私はこの山の姿にまず惚れこんでしまった。ここに大学が建つとは何と環境の素晴らしいことか、と思ったが駅からの交通は?の心配も頭を掠めた。  

 当時大学は国際政治経済学を部の新設を決めていたが、この学部新設に伴う学生の数に応じて学校用地を確保しなければならないとの規定で、この厚木用地はそのためにも必要なのであった。しかも学部開設までに建物を含めて完成させなければならないというものであった。それが大木先生の熱意と指導力で予定通り完成したのだから、私にとっては大きな驚きであった。バス会社と交渉して駅からキャンパスまでの定期路線を青山が資金を提供してつくられた。  

 さて、毎月の理事会に監事は、厳しいものではないが出席義務がある。しかし理事会であるから発言することまずはない。では何故出るのかになるのだが、理事会に出席しているお蔭で私は学院の経営の実態を判ることが出来たのだと思う。一つの例を挙げれば青山は幼稚園から大学院までの総合学園であるのだが、実態は幼稚園から大学までがそれぞれ独立した学校であると理解できた。これらの間で教員の人事交流はまず行えないし、極く稀に事務職の交流が見られる程度である。それは当然のことであろう。  

 監事に就任して一番大きなことは、大木先生が亡くなったことだ。先生は理事長、院長の現職の侭亡くなられたので、その後任についての動きがあった。理事長については亡くなられて直ぐの理事会で、羽坂理事が理事長代行に指名されたが、院長は選挙で決められるのであるが、その後任候補が決まらず、いろいろ裏での動きもふったが、後日羽坂氏が理事長に、深町学院宗教部長が選挙の結果院長に就任された。この羽坂、深町コンビは昨年の10月まて続いたのである。  

 監事らしい提案をしたのは、青山に「第一次将来計画委員会」が理事長のお考えでつくられたとき、監事の私がその委員にご指名を頂いた。この委員会のメンバーは理事長、院長、常務理事、それに大学、短大からも選ばれ10人前後であったと思う。その中心の議案は青山キャンパスの建物、設備であって、記憶では中等部のプール建設があったと思う、この委員会で私は「内部監査」を行うべきことを提案した。この裏づけになったのは、新聞社に在籍当時に総合企画室長になったが、ここでは所謂長期計画の立案が一つの仕事になっていたが、現場の実態を判らずに夢を描いても意味がない、との観点から役員会に内部監査を提案し了承を得たのである。この結果の内容はここでは省くけれど、予想以上の成果を上げることが出来た。ところが私がこの室長の職を離れると、この内部監査は立ち消えになってしまったのである。それは私が常務であったから出来た仕事で、後任者はどうも現場からの協力が得られなかった為と判った。  

 私の提案がなかなか実現しなかったことについて、当時の武石常務からこれを担当してくれる人がいない、と教えて頂いたが、学内で内部監査を引き受けようとする人を求めても、その希望者が出てこないことは判ったけれど、しかし是非進めて欲しいとの希望は捨てなかった。

 監事らしい仕事をしたのは、私立大学連盟が監事会議を創設し、私がその運営委員の一人になってからかも知れない。会社法の改正で監査役の立場が確立され、その任期も2年が取締役と同じ4年になった。また学校法人の中には不祥事が起こって警察に告発されたりしたこともあり、学校法人の監事の在り方をもう一度見直し、その立場を確立していこういうことで、監事会議が創設されたと承知している。その第1回会議が平成13年8月に下田東急ホテルで開催された。

 この時の討議課題は「ユニバーシティ・ガバナンスの確立と監事の役割」で、監事の職務の在り方、監事の選任方法の在り方、監事監査の在り方、が討議の柱であった。今から思うとそのテーマは極めて基本的であり初歩的であるが、一から始めようとの気持ちがよく示されている。会議は初日の午後から3日目の午前まで2泊3日の日程で、びっしりスケジュールが組まれている。その初日に行われたさ監査法人トーマツの代表社員 森谷伊三男氏の講演があり、学校法人・監事に対する期待像 のテーマであったが、そのお話を聞いて、とても自分一人で出来ることではない、がまず頭に浮かぶ始末で、納得はしてもそれをどうしたら具体化できるのか、であった。他大学の監事に意見を聞いてみると、「私の大学ではとても」であった。この講演で嬉しかったのはその中でこのように語られたこと、「まだまだ内部監査どころではない学校も多くありますが、その中で5月20日の日本経済新聞で青山学院の内部監査職員募集という記事を見まして、学校法人もこういう分野に本格的に取り組まれるのかと思ったのです」。この募集のことは私はちらりと耳にしていましたが、まさかこのような席で講演者の口から聞くとは思っていなかったので、吃驚はしたが青山の為には有難いことであった。

 この会議の特色は「グループ討議」の時間が十分にとられていることで、平成13年には延べ6時間が当てられ、最後にグループ毎の討議内容の発表が行われる。これがよかったのは他の大学の監事が日常学校で何をされているのか、が判ったことである。中には理事 会にも出席しないとか、無報酬とのことなども聞いて、これは意外なことであった。  

 私は第4グループで運営委員であったのでその座長を務めたが、私が今まで青山の監事としてしてきた以上のことは、常勤監事の方以外には見られなかった。それを裏返すと殆どの大学監事は会計については公認会計士任せであり、監事の在り方についての結論を得るこは出来ても、ではどうするかについてはお先真っ暗が大勢であった。しかしこの会議がこれから続けられるならば、大いに期待したい、となった。  

 私はその翌年から平成16年度まで続けてこの会議に出てきたが、この間に青山では内部監査室がつくられ、さらに監事の常勤制も行われ、他大学の監事諸氏から「青山は進歩的で羨やましい」と云われ何か面映いことであったが、これは全く羽坂理事長のお蔭である。  

 次年度以後の監事会議についての記述は省くけれど、16年度の討議の課題は「監事の役割の拡大−私立学校法の改正を踏まえて」であり、討議の柱は(1)私立学校法の期待する監事とは (2)監査基準とは  であった。初年度と比べると私学法の改正もあったが、そのテーマは日常の業務に直結する内容にまで変貌している。またこの年度のグループ討論で、この時は座長を他大学の監事にお願いしたが、話し合われたテーマは、先ず監査基準について、これは大学の実状とかけ離れている、これを実現するためには理事長を説得して欲しい、とか公認会計士との問題、政策についても監査の対象としてを取り上げべきことなどで、4年前と比べれば具体的になっているし、監査の在り方に前向きな姿勢も窺える。

青山は既に監事体制も整ったので、これからは他大学の範の立場なろう。このような時に監事の職を退くことが出来たのは周囲の方たちのご理解のお蔭と感謝するけれど、しかし長かった青山学院との関係が終ることは正直申して矢張り淋しい。

ここに私を導いて下さった多くの学院役員、校友会関係の方たち、先輩、後輩の方たちに改めて感謝を申し上げる。そして青山学院が神のご加護に守られ、益々発展されることを祈る者である。 (2006.4.17)