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 青木春男さん亡くなる

「青木さんが亡くなられました」、と先月30日にKCCに行ったら、倶楽部の人に告げられた。しばらくお目に掛からないとは思っていたが、私より年長であり、この冬の寒さに自重されているくらいに思っていたのだが、矢張りショックだった。  

 青木さんは私と同じ昭和44年の入会だけれど、私はそれ以前から存知上げていた。私が東京商大を卒業した24年の春、出版の道に進みたいという希望を父に話しその就職先を相談したら、講談社、主婦の友社そしてホーム社の中から選べといわれ、私は一番小さいホーム社をお願いした。そこの社長は本郷保雄氏(故人)、この方は主婦の友の編集長を長く勤められ、戦後に独立されてこの社を創立されたのである。入社して驚いたのはこの社では社長を「先生」と呼ぶことであった。私は編集部に配属されたが、編集室の正面に社長、つまり先生の机が据えられてリ、まさに編集の学校であった。後年私がこの道で仕事ができたのは、先生にみっちり仕込まれたお蔭であり、本郷氏は先生と呼ばれるのに本当に相応しい方であった。  
 私の直属にあたる方が中尾是正氏(故人)であったが、この方は主婦の友社で先生のもとにおられ、ホーム社創業のとき先生に従って移られたと承知している。私はこの中尾氏の紹介で青木さんを存じ上げることになったのだが、青木さんも主婦の友社で本郷先生のもとにおられ、戦後独立されて青木書店を創業されたのである。有り難いことに私は本郷先生の教え子の一人に数えて頂き、青木さんとは仲間としてお付き合いさせて頂いた。だから私がホーム社に入ってから20年後に、KCCでお目に掛かったのは偶然ではあるが、嬉しいことであった。  

 倶楽部は同じでも残念ながらプレーをご一緒する機会は少なかった。が忘れられないのは、私が倶楽部60年史の編集委員長を委嘱されたとき、迷わず青木さんに副委員長をお願いした。幸いご快諾を得たが、編集の道では大先輩であり、約半年をかけてご指導を頂くことができた。細かい記録の整理をして下さったりして頂いた一方、概史などの執筆については「これは委員長の仕事」とびしっと言われたことを覚えている。が私の書いたものは丁寧に読んで御指示をして下さった。  

 心臓を患われていたことは知らなかった、享年86歳であった。心からご冥福を祈り、感謝を申し上げる。
(2006.5.3)