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音楽と私  

 こんな表題で書こうと思ったのは、今までの人生で音楽と全く無縁であった時が、案外少なかったような気がしたからである。夢中になったという記憶はないが、全く忘れてしまったという時もなかった。  
 私が日比谷公会堂に新響の定期演奏を聞きに行っていたのは、青山の専門部に通っていたころであった。そろそろ灯火管制が始まっていた記憶があり、またある演奏会のとき、指揮者の尾高尚忠氏に召集令状がきたと発表され、同氏の指揮で「海ゆかば」が演奏され観衆一同が起立してそれを聞いたことを覚えている。この新響が今のNHK交響楽団の前身だから、日本での一流のオーケストラ、この演奏会の切符を黙って買ってくれたのは母であった。それで私は交響楽に魅せられ、レコードの蒐集に走ったがこれも母の御蔭で出来たが、それらのレコードは戦災で全て焼けてしまった。  

 我が家には何故かピアノがあった。何時からか、何故あるのか、物心がついたときには既にあったのだから、判る筈もない。がこのピアノの音を滅多に聞くことがなかった。年に1度か調律士が来たときに耳にするくらい。それで発奮したわけではないが、「誰も弾かないならやってみるか」で私が始めたのである。中学3年くらいの時だと思う。先生にもつかずに、楽譜をみて練習するのだから、雑音を出しているようなものだったに違いない。よく周りの人は我慢してくれたものだが、習うり慣れろで何とか音楽らしく弾けるようになった。いくつかの賛美歌も練習を重ね、海軍に入るときは「神ともにいまして」を私の伴奏で皆が歌ってくれた。このビアのも戦災で焼けてしまった。

 歌を自分は上手だと思ったこともないし、好きで絶えず歌っていたこともないが、中学部時代に毎日賛美歌を唄っていたことが影響したのか、有難いことに声を出すことの楽しさを覚えることになった。青山の山岳部時代は何かあるとよく唄ったが、山に囲まれた中で唄う歌はまた格別であった。民謡を覚えたのもその頃で、「ヤッホー」とともに力一杯唄う。そして海軍時代、ここでは軍歌を唄わされたことは言うまでもない。
 
 戦後になり、会社の役員になると、お座敷に行く機会が多くなり、周囲から何か勉強しろと言われ、一番簡単な小唄を習うことにした。新聞社の7階ホールは邦楽の会が多く、席の隅に座ってお蔭で勉強することもできた。先輩役員にはその道のベテランがおられたことも幸いして、三味線の上手な先生に巡り合い、週に1度の稽古にも通っていた。お座敷で前座を勤めたり、時には何かの会にも引張り出されたこともあった。これは道楽であったかも知れないが、まあ音楽の一つとしておく。

 話は戻るがN響にはずっと通っていた。NHKホールが出来て駐車場もできて、車で行けるようになり、戦前とは隔世の感であった。N響通いは私の病気で終ってしまったが、カラヤンの指揮で第九が聞けたことは幸いであった。このN響演奏会のとき必ずお会いしたのが同じロータリークラブの長坂先生だった。この方は音楽には詳しいし、ご自分でもエレクトーンを自在に演奏されるが、この先生が我々のクラブに合唱団をつくろうと提案され、私に入るようお勧めを頂いたが、その理由はN響を聞きに来ているという単純なことだけ。聞くのと唄うのでは大きな違いな筈だが、長坂先生は「音楽が好きなら大丈夫」と仰言る、ということで引張りこまれてしまった。この会を先生は「歌わん会」と名づけられたが、それからもう10年以上になる。先生は既に亡くなられたが、この歌わん会は今も続いているから、私もお蔭で音楽に馴染んでいるのである。今年も年末に行われる忘年家族会で合唱する曲も決まり、毎月1回練習に励んでいる。私は何時の間にかこのグループの最年長になっていた。 この歌わん会が音楽と私の最後の絆であろう。演奏会には誘われれば出掛けることはあっても、切符を求めていくことはもう無いだろうと思う。しかしどんな音楽が好きかと尋ねられたら、自分で叩いたからかも知れないが、ピアノ曲である。若い頃はチャイコフスキーのピアノコンツェルトが流れるとわくわくしたものだが、今はショパンの「雨だれ」を静かに聞き入ってしまう。音楽に馴染むことが出来たのは母のお蔭、これからも年齢相応に楽しんでいきたい。
(2006.5.14)