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タ バ コ

 中学部時代の友達と偶々あって雑談していたら「お前はまだ続けているのか」と2回も言われた。その第一が「車の運転」であり、第二が「煙草」であった。半ば呆れた顔をしてそう言うのだが、どうも本人は煙草を止めたことを自慢したかったようだ、が私の本音を言えば、車の運転は何時までも続けることは出来ないと思って、新車への買い替えも止めているが、煙草は今のところ全く止める気はない。    5月31日が「世界禁煙デー」になったし、7月から値上げになるし、煙草を巡る環境は次第に厳しくなっているが、もう60年以上も続けている煙草を、今止めればあと何年の命は保証するというのなら話は別だが、そんなことはあり得ない。それを逆に考えるなら、残りの人生で煙草は唯一の楽しみとまでは言わないが、それを我慢してこれからの日々を送る気持ちにはなれないのである。しかし遠からずのうちに、好むと好のまざるに拘わらず煙草の本数はゼロに近付いていくかも知れない。  

 このことをある友人に話したら、もっと生への執着を考えるべきだという。1日でも長く生きることを私も否定はしないが、82歳という年齢は周囲からみれば矢張り高齢である。しかも車の運転は続けているし、ゴルフも週1回は出かけている、メールもやりとりしている、というと吃驚されることが多い。それは私の気が若いことに驚かれているのであって、肉体的な年齢は間違いなく80代、だから車も夜の運転は控えているし、ゴルフに至っては無残なスコアであるのだが、若い人たちにはこの無念さは判って貰えないのである。見た目と実際には大きな差があるのだ。  

 「煙草を止めたら食事が美味しくなった。だから止めろよ」と言われたことがあるが、この言葉はその時は魅力的であった。というのは胃ガンの手術をしてから、体重が増えなくなったからで、体重がないと貧相にみえるし、ゴルフのボールも飛ばなくなるからである。だが私には手術以来、美味しく食べられるときと、全く喉を通らない日がある。煙草の問題よりも体調の良し悪しの方が大切なわけで、これが良いときは煙草も美味いのだから、私には煙草と体重は関係ないと決めた。  

 年齢をとっても生き甲斐をもって生きるべきことは承知しているが、正直その生き甲斐を見つけることが難しい。そこへ新幹線が全面禁煙になるというニュースもあって、これからは時間もあるのだから旅行を楽しみたい、との生き甲斐も奪われてしまいそうだ。矢張り山の見える静かな温泉に浸かりたいと思うときがある。そこに出掛けて青空の下での一服の美味しさは煙草を吸わない人には判らないだろう。だからそういう所に立ち寄ると自然と手はポケットの煙草ケースを探っている。
 意思が弱いと叱られるかも知れないが、これが本音である。
(2006.6.7)