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今の私があること  

 今の私があることを考えることがある。それは歳をとった証拠だという人もあるけれど、大正の末期に生まれ、小学校は豊島師範の付属、当時では一流で、入学試験を受けて辛うじて合格したのだろう。運がよかった。6年生の夏に朝日新聞が名古屋で新聞印刷を始めることで父が初代支社長になり、家族も名古屋に移ることになった。それで私は弟ともども市立の山口小学校に転校した。
 そう言っては申し訳ないが、豊島では中くらいの成績であった私は、ここではトップクラス、学校の格差があったのだが、それも当然なこと、クラスの殆どの者は高等小学校に進むのだから、中学への入学試験勉強をする者はクラスの20%程度、急に秀才扱いされて戸惑ったことであった。担任は福田先生、転校生の私の面倒をよく見てくださった。そして県立の明倫中学を受けることになった。
 名古屋では県立の愛知一中があったが、福田先生はNo2の明倫中学が私には向くと判断されたのだろう。幸い翌年3月の入試に合格できた。 名古屋での生活は父が病気になった為に2年で終わり、東京に戻ってきた。弟2人は豊島師範の付属に戻れたが、私は中学だったのでどこかの編入試験を受けなければならなかった。9月なので募集しているところがなく、結局父が米山梅吉氏の紹介で青山学院中学部に転校することが出来た。それが昭和12年、1937年であったのだが、その時から今日まで私と学院との縁は続いた。
 青山はミッションスクールだから毎日礼拝があり、今までの学校生活とは違ったが、私はすんなりと溶け込むことが出来たように覚えている。このころ日支事変が始まったのだが、当時の私には全くの他人事、英語の授業には米国人の先生による時間があったし、我が家にも変わったことはなかった。
 中学部に入っても私の成績はまあまあ、つまりあまり勉強をしなかったということになるが、今でも付き合っている友達がここで何人もできた。中でも優秀だったのは船田君、衆議院議長を務めた船田中氏の子息で、級長に選ばれる秀才であったが、そんなことに関係なく付き合えた人柄であった。
 当時はそろそろ戦時下の体制になりつつあったのだが、青山で学んでいた私たちはそんな圧迫を少しも感じなかった。お昼にはこれは希望者だけだったが、栄養食と称する給食があり、お昼に暖かいご飯が食べられるのである。また、栗林君とともに「山とスキーの研究会」をつくったのも4年生の時だった。その会に入って来たのが團伊玖磨君、私の1年下のクラスだった。この会での最初の登山計画は八ヶ岳、これには私の父が心配し、新聞社の顔でガイドを雇ってくれた。茅野から登り夏沢峠を越えて本沢温泉泊まり、翌日そこから赤岳に往復し、松原湖に下った。天候にも恵まれて楽しい山登りであった。
  その翌年の夏にはなんと富士山に次ぐ高峰北岳に挑戦した。全員無事に帰ってきたから良かったが、今思い出しても若気の至りであったの一言に尽きる。が反面山に一層魅せられたのもこの山登りがあったからである。
 昭和16年3月に卒業し、青山の高等商業学部に入った。大木先生の経済原論の講義を受けたのもこのときである。そしてその年12月8日に真珠湾攻撃が起こった。国は米国に宣戦布告をすることもなく、全くの奇襲を行ったのであり、それも空からと特殊潜航艇による自爆攻撃であった。日本の軍部はこの奇襲で米国との戦いに勝てると思ったのだ。宣戦布告をしなかったことは、天皇もご承知でなかったかも知れない。今の言葉でいえばテロ攻撃だった。しかしにも拘らず我々の生活はまだ大きく変わらなかった。その年末には学校の行事として燕温泉にスキーに行っているし、そこでシンガポールは何時陥落するかと話し合った記憶がある。
 昭和も17年、18年と進んだ頃になると出征兵士はでるし、学童疎開も始まるし、配給による生活になるし、夜は灯火管制で真っ暗だし、隣組の訓練には駆り出されるし、買出しにも行くことにもなった。そして文科系学生の徴兵延期が廃止され、学徒動員になった。そのころになってやっと私も覚悟を決めておかねばならないのか、と思った。僅か4ヶ月誕生が遅かったことでこの学徒動員には免れたが、クラスの大半が入隊、20名くらいが教室に残っただろうか、それでも授業は続けられたが、年末には勤労動員によって長野県の大町に行き、農地の開墾作業をした。終わって帰るときにはお米や野菜を頂戴したことを覚えている。この残された20数名は翌年3月に繰り上げ卒業になり、現在の本部礼拝堂で卒業式が行われた。
  この時卒業生の殆どは就職した。徴兵で企業は手不足であったのだろう、しかし私は何処にも就職せず、海軍予備学生を受ける積もりでいたので、苦労して切符を手に入れては旅行をしたりした。海軍には受かり9月に滋賀海軍航空隊に入隊したが、その前に山岳部の天幕を借りて、谷川のマチガ沢に出かけた。これが私の最後の登山との思いが頭の何処かにあった。食料が少ないから僅かの期間であったが、その時蛇を捕まえて食べたことを覚えている。また帰りに湯檜曽の奥利根旅館に泊まって温泉を楽しんだが、我々以外誰もいない、聞くと数日後に学童疎開の子供たちが来るという。
 私の入隊した航空隊は教育のための部隊で、一緒に入隊した我々の分隊は慶応が主力、隣の分隊は早稲田が多い、海軍も洒落たことをするものだなと思った。入ったのは秋だったから、次第に寒くなるが、部屋での座学のときにはささやかであるが、ストーブに火が入る。ついでに記しておくが予備学生というのは呼称ではなく、階級なのである。少尉の下、兵曹長の上で服装は士官と同じである。我々のいる棟にも何人かの下士官がいた。その者が私を呼ぶときは「鈴木学生」という。「鈴木学生殿」とは海軍では一切言わない。翌年4月には海軍少尉に任官した。
 戦況は厳しくなり、教育訓練も航空隊に似つかぬ内容になり、そして陸戦の訓練を千葉県の館山にある砲術学校に移って受けたが、これは米軍の本土上陸を想定してのことであった。しかし館山での教育が終って私が配属されたのは、第5航空艦隊第105飛行隊、これは彗星という艦爆を使っての特攻要員の訓練基地で、場所は現在の米子空港である。そこで何をしたかといえば特攻要員の管理、天候の情報それと他の基地との連絡など、毎日管制室に行くだけであった。ここで私は終戦を迎えた。
 戦争は終わったのだから訓練もない、全く仕事はなくなったがこの飛行隊は九州の出水基地に集められることになり、彗星とともに操縦士は飛び立っていったので、我々は復員になった。それで米子から列車に乗り京都で乗り換えて東京に向かったが、着いたのは翌々日の夜中であった。30時間くらい超満員の列車に揺られていたのである。そして祖師谷大蔵に移っていた我が家に帰った。昭和20年の8月末である。
 その年の終わりころには下北沢に移り、我が家の生活が再び始まった。いつまでもぶらぶらしていることも出来ないと、就職を父に頼み承知してくれたが、正月が過ぎると「大学に行け」という。戦後は当分混乱するから仕事をしないで大学という次第、親父には絶対に背けなかったから、それらしい受験勉強をして東京商科大学を受けたところ、運よく合格した。そして3年間通い、山岳部にも入ったが、覚えているのは甲斐駒に登ったことくらい。登山姿で歩いても「非国民」と呼ばれることはなく、何故かこのことが嬉しかった。
 商大を卒業する前、父は朝日新聞を退社してリーダーズダイジェストに入り、その本社の招きで米国に行ったが、帰国して全国で講演をすることになった。まず東日本で行われることになり、これには母が同行する筈が健康のことで行けなくなってしまい、代わりに私ということになった。その時主催者として日配の福岡氏、ダイジェストから植栗氏が同行、これが後日私には幸いすることになった。講演旅行だから父はどこでも同じことを話す、だから講演会場には最初だけ行ったが、後は行かずお蔭で暇ができたので、その時間市内を歩き回って幾つかの書店を訪ね婦人雑誌の販売調査をした。これがまた私の運命を変えることになった。回った都市は秋田、山形、仙台、福島、新潟、長野であったと記憶するが、訪ねた先は書店だから父の講演会のことは承知していたし、協力を得ることが出来て、素人としては先ず先ずの成果を得ることができた。
  その成果を帰京して一文に纏め父に見てもらった。「預かっておく」と言われ私の仕事は一段落したと思っていたら、突然主婦の友社の石川社長から電話があり、会社に来て欲しいとのこと、なんのことか分からぬままに出かけてみると、その書店調査のことであった。全く素人が書いた調査だから一笑に付されても可笑しくない筈であるのが、婦人雑誌のトップの社長からのお呼びなのである。社長室に通されていろいろとご質問があり、それに思った通りにお答えした。その頃になると私は出版関係の仕事をしたいと思っていたので、卒業後の就職を父に頼んでいたが、当時父は全国出版協会の会長であったから、それに便乗した形、しかし私には幸いなことであった。
 結局私は父の勧めでホーム社に就職したのだが、ここの社長は本郷保雄氏で主婦の友で長い間編集長を勤められた方である。そして本郷社長にご挨拶に行った。私は青山と商大で学んだことは会社の管理、経営に関する面であったから、仕事は経理部とか総務を希望したのだが、本郷社長は「編集をやって頂きます」と言われたときは吃驚した。何故ですかとお尋ねしたら、「書店調査の報告を拝見しました。これだけの報告を書けるのは鈴木先生のご子息です」と言われ二度吃驚した。そしてその翌日にはホーム社の編集部に私の机が用意され、座っていたのである。  編集部長は本郷社長、課長は中尾是正氏で私はその左隣、しばらく後に金春国雄君が入ってきて私の左隣、この3人で毎月雑誌を纏めることになった。金春君はお能の金春家の一人、芸大の卒業であった。中尾氏も金春君も楽しい人で、私はここで編集のイロハから教えて頂いたのである。とにかく毎月の残業は100時間を超えるという激務、よく頑張ったと思うが、これが私の肥やしになっていたのである。無念だが中尾氏も金春君も先立たれてしまった。
 ホームに入社した年の秋、増田トヨと結婚した。義父は日刊工業新聞者の社長だったので、媒酌人には吉田電通社長ご夫妻にお願いした。式、披露ともに日本工業倶楽部、キリスト教による結婚式で倶楽部の中に式場をつくり・司式は古田十郎牧師、オルガンは川尻知恵先生、古田先生は私が中学部時代にお世話になった先生、川尻先生はトヨが女専時代に寮生活をした時の寮監、こうした青山時代の先生方のお世話になった。ついでに付け加えておくと、披露宴ではパンが出たのだが、これは父が米軍から小麦粉を手に入れ、それを富士アイスの太田氏に頼んで作って貰ったもの、まだ戦後のことでパンも侭ならぬ時だっただけに珍しがられたが、父の配慮には驚いたり、嬉かったりであった。
 その翌年ホーム社が倒産してしまった。公平に見ても他の婦人雑誌に遜色はないと思っていたのに倒産とは、当時の私には不可解であった。しかしこの経験が私に「よい雑誌、必ずしも売れない」を教えてくれた。
 この年に参議院議員の選挙があり、失職した私は立候補した父の手伝いすることになった。この時父はトラックに乗って走りまわったり、地方へも出かけたりするので、その世話する人を探すことになり、私はホーム社の経理課長をしていた渡辺初男君を推薦した。母も会って賛成してくれ、早速渡辺君は父とトラックに乗って出掛けた。後日の話になるが、渡辺君は当選した父の議員秘書になったし、父の死後にその秘書ぶりが買われて義父の増田社長に拾われた。その上渡辺君が結婚したとき、私たち夫婦が父に代わって勤め、これが私の仲人1号になった。
 話を少し戻して、父の当選でまた自分の仕事を考えることになった。終戦のとき、商大卒業のとき、何れも父に相談していたが、今度は増田の父から「うちの社に来ないか」と話を頂いた。専門紙ではあるが新聞社である、出版を考えていた私は正直迷った、そのことを率直に義父に話すと同時に父にも相談した。父は即座に「いいお話ではないか。よく考えなさい」と賛成してくれた。その時は半分淋しく、半分嬉しかったことを覚えている。 それで話は決まり、日刊工業に入ったが最初の配置は、義父が買収していた「日本婦人新聞」の編集局の部長であった。雑誌から新聞へと変わったが、ホームでの乏しい経験が役にたったし、原稿を書くことも覚えた。もう一人荒井勝子さんという部長がおられ、この方からいろいろ教えて頂いた。しかし私の婦人新聞は短く、偶々出版局に空席が出来てそこに回されることになった。義父は私が出版希望であったことを覚えてくれていたのである。肩書きは出版局次長、局長は白井編集局長の兼務であったから、事実上の責任者の地位である。私には社長という後ろ盾があることは社内では誰もが知っているけれど、それにしても私は出版の道を志したこととは言え、その経験はほんの僅か、それも婦人雑誌、工業とはまるで無縁のもの、それが責任者では私の配下の人たちは心細いことであったろう。しかし出版の編集課長松原俊二君が、有難いことに相談に乗ってくれた。そして私は昭和38年まで出版局次長を勤めて同年取締役局長になり、40年に大阪支社長になるまで15年出版一途で過ごさせて貰ったのだが、この間に出版局の人員は地方を含めて20倍になり、売上は200倍になった。増田社長は40年9月に亡くなったが、私はやるだけのことはやりました、と霊前に申し上げた。    

 これ以後のことについてもいろいろと書きたいが、それを始めるとキリがないので、ここで筆を置くことにしたい。ここまでお世話になった方たちは数限りなく、到底その全てのお名前を挙げることが出来ないのは申し訳ないがお許し頂くより他はないが、増田の父には文字通り、公私ともにご指導とお世話になったことを付記し感謝の意を捧げたい。
(2006.10.2)