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言葉は生きている

「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(新約聖書ヨハネ福音書第1章第1節)
 この聖句は私の愛唱するもののひとつ。言葉がもしこの世に無かったら、我々の世界はどのようになっていただろうか。想像も出来ないけれど、この世に空気が無かったら、を論ずるに等しい気がする。
 私達は言葉をどのように使っているのだろうか。真っ先に浮かぶのは「話す」こと、つまり自分の考えや意思を伝えるために口で話す。我々は日本人であるから、当り前のことだがそれを日本語でする。そしてこの日本語にはやがて幾つもあることを知る。標準語と言われる言葉のほかに地方の言葉があるし、最近では若い人にだけ判る言葉があるように思う。

 東北の人と鹿児島の人が地元の言葉で話し合って全く通じないという。さらに若い人同士話合っているのを聞いても、何の話をしているのかさっぱり判らないことがある。若い人の間にだけ通用する言葉を彼らが使っているからである。しかしそれらが時とともに慣用語になっていく。ついでに言うと新しがりやの人なのであろうか、矢鱈に横文字の言葉を使いたがる、マニフェスト、政権公約のことだが、何故カタカナを使わなければならないのだろうか。使うご本人が得意がって使っても、それが相手に正しく伝わらなければ、言葉としては全く意味が無い筈だが、それがマスコミにも使われると、一部の人たちの言葉ではなくなってしまう。
 これを日本語の乱れと断ずる人がいるかもしれないが、実は言葉は時代とともに変わっていくものなのである。新しく使われる言葉も生まれてるし、滅びていく言葉もある。明治の文学と言われ、当時新しい言葉で書いた夏目漱石の小説、正岡子規が提唱した「文章で写生」も、今では古文に属するのではないだろうか。これを今の若い人たちに読んで貰って、どこまで理解できるか、なのである。

 次に言葉は文字によって表現される。手紙もあるし最近ではメールもある。また伝える相手は親子兄弟、友人、知人など周囲の者であることもあればし、文字でそれを後世の人たちに伝えることもある。文学もその一つである。日記のように誰かに伝えるのではなく、自分自身の記録を残す、旅行の記録を書く、これも文字によることになる。

 3番目に挙げたいのが「思い」である。嬉しい、好き、美味しい、快い、など自分の感覚も言葉で表現される。この「思い」という言い方は適切でないかもしれないが、話すにしても、書くにしても、まず言葉で「考えなければならない」ことを言いたいのである。美しいと思ったから、美しいと話し、書くことになる。
 だから言葉には「話し言葉」と「書く言葉」がある。しかも話す言葉は親に対してと、友達に対してとは同じではない。同様に書く言葉もその相手によって違う。これは日本語では敬語と言われるものだが、特に厳格なのかもしれない。

 言葉は時とともに変わっていくとい言えばお気付きになると思うけど、最近は話し言葉が、その侭書く言葉になっていること、別の言い方をすれば、話す言葉をその侭書いていることである。若い人のメールを見ていると、その感を一層深くする。目の前に話す相手がいる感覚で、文章をつくる。我々にそれを真似をしろと言われても、それが出来ない。
 伝えるためには先ずそのことを考えなければならない、それを何語でかと言えば、我々は日本語で考える。つまり言葉を知っているから考え、その言葉を語ることが出来、書くことも出来、多くの人に自分の考えを伝えることになるのである。

 話す言葉と書く言葉は、もともと異なったものと考えている。口語体、文語体と言われたことでそれは判るのだが、この区別が次第になくなっているようにも思う。しかし口語体で書かれる文には、一つのルールがあると思う。例えば手紙を認めるならば、まず拝啓があり、次いで時候の挨拶があって主題に移る。或いは文全体には起承転結が求められるなど、がそれである。
 新聞の記事や雑誌のリポートにも、それなりの書き方のルールはあるのである。ニュースならば「何時、何処で、誰が」を頭におく、などはこれに類する。
本などを読むが、そこに記載されている文字は、活字によって印刷されたものである。この印刷物になっていることは、多くの人に読んで貰うことを期待している。