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教育を考える  

 教育とは教え育てること、そんなことは誰でも解っていることだが、頭に浮かぶ姿は教室での先生と生徒、つまり教育とは教師が学生生徒に学問や知識を教えることと考えてしまう。そしてそれは一方通行である。教師は学生がどこまで教えたことを理解したか、は二の次なのではないか。それは教育内容とその方法を文部科学省が規制し、教師の自由裁量を制限しているからではないか。義務教育のレベルを保もちたいとの意向は理解するが、最早官僚が教育を考える時代ではなくなっているのではないか。もっとも最近になって中央教育審議会が、制限の緩和をすべきとの答申をしているのは喜ばしい。

 教育は教育する者とそれを受ける者の両者があるのだ。教育はまず「読み、書き、算盤」をしっかり教えること、これは人としてこれからの社会に生きていくために、また知識、経験を得るために必要だからである。そして教育は人間形成と、生徒の個性を活かす内容であって欲しい。人が社会に出て本当に役立つための知識は、大学からでもいいし、社会に出てから学んでも決して遅くないのである。中学、高校時代には、自分はどんな仕事をすれば社会に役立つかを考える、大袈裟に言えば人生の目標を立てる時であっると思う。

 何故こんなことを言うかというと、人にはそれぞれの性格があり、得意不得意がある。好きなことを学ばせれば大いに伸びるだろうし、嫌いなことを無理に学ばせれば、ノイローゼになったり、不登校になる可能性もある。そこで肝心なことは教師が学生の個性を正しく理解し、指導することなのでである。

 教室に生徒を集めての授業は読み、書き、算盤を重点とし、その他は生徒の選択に任せるくらいのことを考えたいが、この生徒には何を選ばせるかが教師の一番大切なことになる。このようなことで、教師と生徒の関係はより身近になるのではないだろうか。

 もう一つ教師に考えて頂きたいことは、「健全な精神は健全な身体に宿る」ことである。知識偏重にならないこと、保健、スポーツも一つの教育と認識すること、私は人としての責任、根性、チームワークなどは到底教室では学べないものと思っている。しかしこれらのことは、社会人として是非身につけておいて欲しいことなのである。

 更に最近驚くことは、少年の犯罪である。12歳の少年が幼児を屋上から突き落とす、13、14歳の子供が友人を殺害する、どのような動機からこのような行動に走ったのか、理解できない、情緒が不安定だっただけでは説明にもならない。集団での犯罪なら誰か一人ぐらい止めることはないのだろうか。こういう話になると、親はどんな教育をしていたのか、になる。周囲の人は家庭教育がなされていないと言いたいのだろうが、実はその親が一番吃驚する。

 一人の人間として育てるには教師も親もその本人を理解しなければならない。ところが罪を犯した生徒の教師に聞くと、「そのようなことをするとは思ってもいなかった」と言う。私は親に聞いても同じ答えが返ってくるのではないかと思う。それはその生徒が親や教師の前ではよい子ぶっているのではないか。それとも教師や親の見る目が甘いか、のどちらかではないか。

 親にも教師にも当然な責任はあるが、その責任の大部分はその子供、生徒を本当に理解していなかったことにある。理解されないこと、或いは信用されていないことを知った生徒や子供はどのような気持ちを持つか、それは容易に想像できるであろう。

 躾という言葉がある。これを教室で、また言葉で教えることはまずできない。親や教師が実践して伝えるものなのである。朝の「お早ようございます」、何かして貰ったら「有難うございます」、失礼があれば「ごめんなさい」と謝る、この当たり前のことが出来ない人は、自然と世間からはみ出されてしまう。子供や生徒が仲間からはみ出されたらどうなるか、こうなった時にこそ自分を失うことになるのではないだろうか。
(2003.08.04)

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追記

 この一文を書いている時に、第85回全国高校野球選手権大会が甲子園で行われていた。今年は雨に崇られた大会であったが、予想に反して西日本に多い優勝候補の高校が敗退して、決勝が東日本同士になった。これは毎年のことであるが、ゲームセットになったとき、泣きじやくるのは敗れたチームの選手である。口惜しさがあるからだろうが、中には「俺の所為で負けた」と涙を流している選手もいるのではないか。あの一球、あのエラー、あの三振、その思いはそれぞれであろうが、この選手たちはこの涙を一生忘れないだろう。

 こういうような経験は野球に打ち込み、この甲子園での優勝を目指して若しい練習に励んできたからこそ、得られるのではないだろうか。この感激はスポーツを経験しなければ生まれない。野球の場合ならチームワークも身につけることが出来る。

何故、教育の中で大切と思う人間形成を、スポーツを通して生徒の身につけようとしないのだろうか。感激、口惜しさ、根性などは教室では絶対に教えることは出来ない。知育が大切と考え、体育を疎かにした文部科学省の方針は誤りであった。
(2003.08.27)

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 私は縁があってロータリークラブに入った。何故入ったのかについては稿を改めることにして、一つ紹介しておきたい話に出会った。

 ロータリーには青少年交換の制度がある。これは高校生に限られていて、その学生が応募し試験に合格すれば、希望通りではなくとも海外の高校に1年間留学することが出来、留学先の国のロータリークラブがその高校生の生活を引き受ける。

 私が所属している芝クラブもこの事業に加わり、過去に我家でも3人の高校生を引き受け、彼らと大体3カ月一緒に生活をした。勿論日本の高校生も海外に留学するのだが、学期が違うので8月に出発して7月に帰ってくる。昨年芝クラブは男1名、女2名をアメリカ、スイス、ブラジルに送り出し、それが8月に帰ってきて、その報告がクラブ例会であった。何時ものことであるが、送り出すときは「果たして大丈夫だろうか」と思っていた子が、実に堂々とスピーチをする。日本に1年いて学校に通っても、この子はこのように大きく成長はしなかったであろう。

その中の一人アメリカに行った女の子は、彼等の生活の中に信仰があることに驚き、感激した話をした。全く新鮮な経験だったと彼女は率直に述べていた。こうした経験は日本ではしていなかったから、「私には関係のないこと」で終わってしまい勝ちである。しかし彼女はそれを真正面に受け止めてきた。このことも教室では到底出来ないこと、このこと一つだけでも、彼女はアメリカに行ってきた甲斐がある。
(2003.09.17)

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 スポーツに話は戻るが、かっての体操選手具志堅氏が神奈川県の教育委員になるとニュースで報じていた。判っている人もいるのかと、心強く思う。
(2003.09.18)

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 中曽根氏が今度の選挙で自民党の推薦が得られず、立候補を断念したことが大きく報道されたが、そのとき氏は「議員は辞めても政治家としての活動は続ける。私には憲法改正と教育基本法の改善を推進する責務がある」と述べている。

 教育基本方の改正の詳細については、これから勉強してここにも考えを逐次記していきたいが、一番望みたい事は教育の自由化である。日本の教育は幼稚園から大学まで全て文部科学省が管轄していると思っているが、ならば役人は日本人の教育はどうあるべきか、もっと望めばこれからの人間として、どのように生きるべきか、どのように在るべきか、を本当に考えているのだろうか。

 私が感じている限りでは、官庁のしていることは、監督と規制でしかない。これは中学までは義務教育になっていることにも因るのであろうが、私は何か明治になったとき欧米の先進国に追いつくために、若い人の教育を国が始めた名残が今でも残っているような気がしている。だから日本には国立大挙が幾つもあり、米国の大学は私立が中心と聞く。来年4月には国立大学は独立法人になり、その在り方は変わって行くが、そのような形の上での変化よりも、もっと教育の自由化ができる道を作って欲しい。小泉さんの構造改革は経済面だけでなく、教育面にも進められるべきである。中曽根氏が教育基本法に重大な関心を持たれる真意は判らないけれど、日本の教育を知育一本から個性ある人間形成に転換しなければならないときがきている。

 以前日本は教育のレベルでは世界に誇ることができたが、現在ではどうであろう。それが出来なくなっているとすれば、文部科学省は「教育は民間に任せる」との方針を持って、教育改革に臨んで欲しいと思う。
(2003. 11. 1.)

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 今日の新聞に小学校で常用漢字の大半を習得させるというニュースがあった。この常用漢字は1945字であるのに、小学校で教えているのは約半分の1006字だという。これには驚いた。何を基準に教える漢字を半分に制限したのだろうか。これでは子供たちはまともに新聞も読めないであろうし、子供に関心のあるパソコンを使うことも出来ないではないか。

 教育の基本は、読み、書き、算盤と前に述べたが、その読み、蕃きに重大な誤りを犯していたことになる。何故覚える漢字の数を制限したのか、もしこれが子供たちに負担を掛けない為というなら、大変な過ちをしたことになる。新聞も雑誌も1006字で作られているのではないから、子供たちは読むことが馴染めなくならないか。小学生も日本語の文字が氾濫している社会の中で、生活していることを忘れているのではないか。恐らく判らない文字に出会うであろう、その時親や兄姉から聞いて覚えることだろう。試しに常用漢字からこの1006字を除いた文字を正しく読めるかどうか、高学年の子供にテストしてみてはどうか。私は一人も読めないという結果がでるとは思えない。

 教育とは教室で先生が教えることが全てではない。子供たちは自分で学ぶ力を持っている。日本の教育は官の指導によって進められ、戦時中は軍の指導が介入したが、戦後になってもその慣習が残っているように思えて仕方がない。お上のいうことに従う慣習が教育の中に根強く残っていることは残念である。我々はそのお上が愚かなのであり、自分の立場を守る集団であることを認識すべきである。しかしこの排除はむずかしい。それは大学から幼稚園まで、国公立は当然として私立も国の助成を受けているからである。学校側にはこれが打ち切られたら経営ができなくなる弱みがある。官僚支配の教育を改めるには何が必要か、中曽根さんはここまで考えているのだろうか。
(2003.11.06)