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裁判のこと 

 この頃何につけても裁判沙汰になっている。それが間違っているとは言わないが、裁判そのものにひとつの筋が欠けている気がしてならない。法律家の目から見れば法の条文に拠らねばならないし、最近では人権や世論にも配慮しなげればならないだろう。それが何か裁判官によって違った判断のように見えるのである。地裁で有罪になったのに高裁では一転無罪になったりする。それが裁判なのかもしれないが、我々には簡単には納得できない。

 三権分立という言葉がある。政府、立法、裁判はお互いにその領域、権利を侵してはならないことであろう。それが立派に守られている国が民主国家で、それがワンマンの手に握られている国は、非民主国家ということになる。

 日本では裁判権は独立しているけれど、問題は裁判官が、独立と独走を混同していないか。27日にはオウム真理教事件の麻原彰晃に対して判決があるが、それが死刑であることを最早誰も疑っていないであろう。しかしこのような判りきった判決に、何故8年もの歳月が必要であったのか、である。しかも司法関係者はその疑問を国民に答える義務も責任もない。裁判の迅速化が言われているけれど、裁判所がそれに応じているとはまだとても思えない。

 新聞の解説によると、死刑反対のY弁護士が麻原の国選弁護士で、彼は裁判の引き伸ばしがその人の命を長らえさせる、との立場で審理のボイコットを繰返えしたりしたと伝えている。これが8年かかった真相だとすれば、たった一人の弁護士の信念で裁判が長引いたことになり、それに検事も裁判官も手の下しようが無いということになる。国民の目とか、被害者の思いとかは全く無視されている気がする。これは間違っているという方が間違っているのだろうか。

 刑事事件でなくて民事はどうだろうか。これこそ迅速性が求められる。とくに経済関係は裁判中であっても、その活動が停止されることはない。例えば不法送金をA社が行って摘発されても、B社はその行為を止めることはしないであろう。脱税の報道がよくあるけれど、その結果がどうなったのかの報道はまずない。それは裁判の結果が出るのが余りにも遅いから、ニュースとしての価値がなくなっているからであろう。

 もう一つ気になっているのは医療ミスである。これは人の命の問題であるし、ミスは医師にある。それがミスであったかどうかが争われるのだが、まず裁判官自身に、そのような知識があるとは思えない。詳しいことは知らないが、賠償金か見舞金かで決着するなら、その金額の妥当性は誰が判断するのだろうか。

 その裁判官の判断が日本の常識から外れる問題があった。ある会社の社員が発明した特許によってその会社は多大の利益を挙げ、社員はその対価を会社に求める裁判を起こした。その判決は社員の勝訴になったことは肯けるとしても、その金額がなんと200億、その根拠については、それなりの説明はあるのだろうが、社員にそれを支払ったら、その会社は倒産するかもしれない。つまり裁判官の非常識な判断で会社の倒産があったら、そこに働く社員が路頭に迷うことになる。裁判官はそこまで考えただろうか。

 言いたいことはお金で解決される裁判で、非常識な額の判決は、裁判官の世間知らずを示しているようなものだ。特許の問題で「これがもし米国であったならば」という観念であったなら、これも非常識以外なにものでもない。

 裁判官が悪いのか、政治が駄目なのか難しいが、裁判官は日本の裁判官であること、時代の進歩が早くなっているが、裁判は別との意識をもたないこと、を言いたい。裁判員制度の導入が検討さているようだが、米国の賠審制度の直輸入では困る。日本に馴染む制度であって欲しい。
(2004.02.21)

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 オウム真理教の起こしたサリン事件での被害者は、その場におられて亡くなったり、身体に被害を受けた方たちだけと思っていた。ところが信者の人たちがこの事件を契機として、教団から脱会した人たちのことが報じられた。その数約1000人、サリン事件以上の数である。この人たちは全財産を入信の時に提供されたから、無一文。本人の責任と言ってしまえばそれまでだが、ある人はその償いに苦しみ、しかも世間はオウムの信者であったことで受け入れてくれず、精神的、経済的な被害を蒙っていたのである。これを自分のしたことだからの一言で、片づけられてしまっていいのか、私には気になった。

 言わばこの人たちは見えざる被害者であるが、陰にこのような人たちが1000人もいることは、裁判官は考えたことがあるだろうか。

 判決の内容ははっきりしているが、これに対し控訴の道は残っている。麻原も弁護士もそれが許されるのかどうか、考えて欲しい。
(2004.02.24)

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 昨日麻原被告に死刑の判決があった。これ以外の判決はないと思っていたから、当然との思いだが、よく考えてみると麻原が自分で手を下して殺人を犯したことはないが、「ポア」の一言を伝えただけではないか。つまり殺人を指示したことは、共犯になるのだろうかが、それだけで死刑の判決、誰もがこれが当然と考えていることに、このオウム事件の特異性がある。

 それにしても麻原の判決についてジャーナリストの騒ぎ方は余りにも異常、6ケ国会議が北京で開かれているのに、テレビはそれもNHKまでが、へリまで飛ばして「唯今東京拘置所を出発しました」と報じている。何さまのお出掛けかと思う。

 判決後直ちに弁護士は控訴した由、しなければ弁護士の沽券に関わるのだろうか、そして違うのは担当弁護士全員が辞任したことである。これは無罪を主張したのに、有罪の判決だからその責任をとったのか、もう馬鹿馬鹿しくてこんな裁判に関わりたくないのか、それは判らないが、日本の裁判における弁護士とはそんなものなのだろうか、と思う。

 これで麻原の裁判はまだ延々と続くことになる。この費用はどこからでるのか判らないけれど、最高裁にまで辿り着く前に麻原は獄死してしまわないか。この男はどこまで世間を騒がせるのだろう。
(2004.02.28)

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田中眞紀子さんの長女が文芸春秋社を相手にして、週刊文春の出版差し止めの仮処分を申し立て、裁判所はそれを認めて出版禁止の命令を下した。しかし時間的にそれが間に合わずに店頭に並び、皮肉にもその日の内に全冊が完売されたという。その記事の内容は知らないが、担当した一人の裁判官は出版禁止の判断をした。文芸春秋社はこの申し立てに異議を申し立てている。記事が、察するに長女の人権、プライバシーに関わるかどうかであろうが、文春側の異議について、禁止を命じた裁判官を除いた3人の裁判官によって、両者の言い分を聞いて改めて判断することになった。その結果は後述するとして、たった一人でも裁判官が決めたことを、改めて何故今度は3人で判断するのか、である。これはそのようなルールが決まっているのであろうか。でなければ、もし「出版禁止は誤り」との判断が出れば、1人で決めた裁判官は無能者と思われてしまうし、前の判断は正しかったとなれば、それは庇い合っていることにならないか。何れにしても1日で難しい判断に迫られることには違いない。

 3人の裁判官は文芸春秋社の申し立てを退けた。私人のプライバシイが犯されているとの判断、この記事は母親が真紀子さんだから扱われたのは明らかで、単に田中A子さんなら、1行の記事にもならなかったろう。表現の自由をいうならば、知名人であるとないとに拘わらず扱えるのだから、活字の恐ろしさを出版社側には、細心の注意を払うことが求められるのは当然、しかし、これを東京高裁に抗告するという。大出版社だけにもっと良識を持って欲しい。

 個人のプライバシイを守ることは、ジャーナリズム以外では、大変神経質になっていることはご承知の通り、それを表現の自由との論理で裁判の判断を否定しようとする態度は許されない。活字の持つ力を出版社が思うが侭に振るえることになったら、それは大変なことになる。裁判所の判断にほっとした。しかし文春はこの記事で部数を伸ばそうとの下心があったことは間違いない。しかし結果としては「文春よ、お前もか」であった。
(2004.03.20)

 国民が裁判官と共に裁判に加わる裁判員制度の法律が生まれた。詳しいことは判らないけれど、これが裁判官の独断を少しでも抑えることが出来ればと思う。私はテレビで米国の裁判をみるが、この陪審制度とは違うようだ。日本の場合刑事裁判に限られているから、判決が厳しくなることも考えられ、それだけに何を基本にして判断するのか、裁判員に選ばれたら悩むことであろう。

 裁判員は選挙人名簿から無作為で抽出されるから、20歳以上の人はすべて対象になる。但し70歳以上とか学生、病人は辞退できるし、更に、事件関係者などは選任されないことになっている。裁判という法律に従って行われるものに素人が加わることの是非はあるが、現在のように裁判が国民から離れて存在しているとの観念が、少しでも和らげればと思う。

(2004.5.27.)