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故 吉 田 会 員 へ

 吉田さん、本当に長い間お世話様になり有難うございました。貴方に初めて目に掛かったのは、私が芝ロータリークラブに入れて頂いた時ですから、もう35年前のことになります。大阪天満橋ロータリークラブからの移籍でしたが、そこで雑誌会報委員をしていたから芝クラブでもこの委員になりました。その時の委員長が貴方で、私をその時何時もの笑顔で迎えて下さいました。当時芝パークホテルでの例会に出席する度に貴方と同じテーブルに座るのを常としていました。

 貴方が亡くなられたお知らせを用親氏から項いた時、私は唯呆然とするばかりでした。それは亡くなられた前日29日の午後に麻布のお宅に伺いお会いしていたからです。長い病床生活を過ごされていましたが、この時も「吉田さん」とお呼びすれば目を開き肯いて下さいました。奥様も看護婦さんも「よく判っている」と言って下さったのです。それから僅か半日のあと、貴方は眠るが如く旅立たれたと伺いました。私が最後のお見舞いをさせて頂いたことになり、「きっと鈴木さんをお呼びになったんだ」とご葬儀のとき仰言って下さった方がありましたが、これを聞いた時には目頭が熱くなりました。こうして貴方との35年のお付き合いは終わりました。

 貴方は86歳、私より6歳も年長者でしたから、歳の順と言えばその通りなのですが、おこがましくもお通夜にもご葬儀にも親族の方たちと同じように振舞ってしまいましたが、お許し下さい。私には貴方が亡くなったことが悲しいとか、淋しいというよりも、私自身の気持ちの中に大きな穴が空いてしまった思いなのです。亡くなられて初めて貴方の存在が渡しにとって大きかったかを思い知らされました。貴方との35年のお付き合いは「ロータリーの仲間」としてを、はるかに超えていたのです。

 貴方はどちらかと言えば頑固、いい言葉では信念を貫く人でした。だから言い出したら聞かない一面があり、それだからこそ事業家として大成されたのでしょう。業界にも尽くされ、それが叙勲、幾つかの褒章に繋がったのであり、そのご功績は何時までも消えることはありません。

 また大変な凝り性でもありました。貴方に仕事ばかりでなく、遊びも大切と言ってゴルフや小唄をお勧めしましたが、このどちらにもきっと貴方は私に内緒で練習を重ねられたのでしょう。そうでなければあの短い時間で、あれだけ上達される筈はありません。そして相模GC、霞ヶ関CCのメンバーになり、コースでドライバーのショットが思うように飛ばないときの口惜しがった姿や、夜のお座敷で首を振りながら唄っておられた姿をもう見ることは出来なくなりました。

 亡くなられて私が改めて思ったことは、貴方は基本的には教育に関心を持っておられたのではないか、ということです。師範学校で学ばれて、教壇に立たれたこともあったのですから、当然なことかもしれませんが、それが当たり前のようにお仕事に繋がったと思うのです。ホワイトボードの開発もそうでしょうが、ヤマハ音楽教室、幼稚園児のためのパソコン教室に情熱を注がれたことは、貴方の教育人としての血がそうさせたのでしょう。日学財団の設立も若い人の育成、とともに文具業界の充実発展を願ってのことでしのでしょう。そうした発想のもとにいろいろとご相談をお受けしたこともありましたが、貴方の構想の大きさに驚き、とても私にはお役に立つことは出来ませんでした。

 長い間には二人で食事をしたり、旅をしたりしたことが多く、そうした時に貴方からその生い立ちや人生、お仕事のことを伺ってきましたが、私の歩んできた道とは全く異なったものでした。育った環境の違った貴方からのお話に、私には教えられたことが沢山ありました。また時には私から教え乞うこともあり、それに丁寧にこたえて下さいました。それらがどれたけ役にたったか、これは私だけが知っていることですが、そのご恩にいま報いる機会を失ってしまいました。

 11月2日、ご葬儀が終わり、ご遺体は桐ヶ谷葬祭場に移され、いよいよ火葬になる最後のお別れのとき、奥様が貴方の顔に手を触れられて「ご苦労様でした」と一言つぶやくように声を掛けられました。この一言は長い間ご夫婦として過ごされた奥様のこれ以上の言葉はないでしょう。胸を打たれました。

 貴方に私からも86年ご苦労様でしたと申し上げるとともに、心から感謝を申し上げます。どうか安らかにお眠り下さい。合掌。
(2004.11.4.)