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70年のあゆみ

 KCCとは霞ヶ関カンツリー倶楽部(ゴルフ場)のことで、来年2004年秋には創立75年を迎える。
 私はこのKCCに1969年に入会、その後広報委員にえらばれたお蔭で、倶楽部50年史、60年史の編纂に携わることが出来た。そんなことから、倶楽部の長い歴史に興味を持つようになり、暇をみてはぼつぼつKCCのことを書いていたが、それを小冊子に纏めたが、「KCC70年のあゆみ」で、2001年の1月に刊行した。

 75年前まだ日本ではゴルフが広く普及していない時代、日本にゴルフ場は全国に幾つもない時、何人かの人達の東京近郊にゴルフ場をつくろうという情熱だけで、その計画は着々と進められた。一時はあまりにも交通の便が悪いとのことから、中断されたりした。そのような経過の記録は「霞ヶ関25年史」にあるし、それとともに創立の翌年に創刊された機関誌Fairwayにもいろいろな苦労話を散見することが出来る。
 現在ゴルフ場をつくるのは、概ねその主体が企業であり、その資金も会員募集によって賄われるのが普通である。しかしわが倶楽部はそうではなく、まず土地の提供者があり、KCCをつくる中心になった人達がコースを設計し、工事も殆ど地元の人の手によったもので、それも僅か8ヶ月で18ホールスのゴルフ場を完成させている。しかしもう一つ驚くことは、会員の募集をし、まだ開場していないときに、応募者を対象とした、井上信氏の「ゴルファーとしてのマナー」について講演をしていることである。このことは倶楽部創立に尽力されていた方たちが、どのようなKCCをつくるべきかの方針を、コースの完成以前にしっかり持っていたことを示している。言葉を変えていうならば、コースを建設すると同時に、KCCの在り方もしっかりと決めておられたことになる。現在の言葉でいうならば、ハードの面だけでなく、ソフトの面までということになる。

 倶楽部の創立者たちは、ゴルフの正しい普及というか、マナー、エチケットを守る倶楽部を目論んでいたのではないか。昭和4年の5月に発起人総会が行われ、定款が決められて社団法人としての設立を申請されている。それはKCCを単なるゴルフ場としてつくるのではなく、正しいゴルフの普及も図るためとのお考えがあったからではないか。この申請は受理されて開場のすぐ後になったが認可になった。ゴルフ場が公益法人であることが取り沙汰されたことがあるが、我が倶楽部はこのような経緯から75年前に社団法人になっていたのである。

 戦後雨後の筍のように、企業が主になってゴルフ場がつくられたが、KCCはこうして生まれ、この先輩の方たちのお考えやご尽力が後輩に受け継がれて、それが自然のうちに伝統になったのだと思う。今日までKCCに伝わってきた幾つかのことは、75年の集積であるから、会員はそれを後世に伝えていく責務がある。

 会員に責務があることは、KCCが会員によって、会員のために運営されていることに拠る。だからKCCには日本ゴルフクラブとして初めて行ってきたことが幾つもある。まず先に述べたFairwayの創刊、既に通算600号を数えているが、その創刊の趣旨は会員への広報誌としてで、言わば会員へのサービス、新会員に一日も早く倶楽部に馴染んで欲しいとのことにあった。

 次にフェローシップ委員会の創設を挙げたい。昭和8年何処のゴルフクラブにもなかった委員会で、当時心あるゴルファーからこの委員会の創設は称賛された。もう一つタウンクラブ、会員間の親睦を図ることが目的で、これを東京で開催する。その第1回は昭和6年、このタウンクラブはその侭の名前で今日でも続いているが、この企画も会員の為である。まだ他に幾つかあるけれど、この精神がKCC運営の基本であった。     
(2003.9.1)