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50年史の思い出

 この年史にとくに思い出があるのは、石原委員長の下で副委員長であったので、いろいろ意見を申し上げ、改革ができた。その第一が印刷所を凸版印刷から光村印刷に変えたことであった。その理由は凸版の見積書と光村に比べて高いことだった。これは編集を今まで凸版に依頼していたことによるのだが、これを委員会ですればよいとの主張が認められた事による。しかし印刷制作を担当する印刷所にとっては、手間が掛ることは否めない。幸い光村の社長の杉江氏がメンバーであったので、委員長がご面倒をお願いしたところ快諾を頂いた。これで印刷所のことは解決したが、その担当者が私のところに挨拶に見えたとき、私は吃驚したのである。小山という営業部次長は、30年前、私がホームという雑誌の編集をしていた頃、凸版印刷の営業でこの雑誌の担当者であったその人のである。共に再会を喜び、奇遇に驚いたが、その人となりをよく判っている人が担当してくれることになったのは、本当に幸いなことであった。

 もう一つ、委員長が航空写真をどうしても載せたいとのご希望で、守屋会員のお世話でそれが実現することになった。ところが霞ヶ関の上空はアメリカ空軍の許可がなければ、セスナ機を飛ばすことができない空域で、まずこれにぶつかったが、昼の何時間かはOKがとれて実現することになった。そして撮影は無事に終ったが、委員長はその写真を見られて、何枚かの写真を取り直すよう要望された。再び許可を得てセスナ機は飛び委員長の指示通りの写真が出来上がった。私とすればやれやれの思いであったが、この1回目と2回目の撮影はそう長い日を置いていないのだが、年史が出来上がって、掲載されたのをみると明らかに違う、気付かれた方は少ないと思うけれど、これは芝の成長に因るものでありこれには吃驚した。写真の怖さを感じた。
(2003.9.10)