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   KCCの創立者

 2004年11月に倶楽部は創立75周年を迎える。そこで早くもそれに相応しい行事が計画されているようであるが、それい影響されているのか、「この倶楽部の設立功労者は誰なのか」の話題が会員の中で囁かれるのを耳にした。
 ゴルフ場を持つ会員制のゴルフ倶楽部をつくること、これを考えてみると簡単なことではない。先ず広大な上地、それも成るべくフラットでしかも交通の便がよくなければならない。次がそれに要する資金の調達、これは会員募集で賄うとしてもそのゴルフ場に魅力がなければ集まらない。その魅力はコースの設計が鍵になる。そして工事、建設と進み、コース、ハウスができれば一応外観は完威する。しかしそれはゴルフ場が出来たのであって、ゴルフ倶楽部が生まれたことにはならない。このような見地にたって倶楽部創立の経緯を考えてノみた。
 現在倶楽部のある場所で霞ヶ関カンツーリー倶楽部は誕生し、75年間一度も他所に移転していない。この土地の提供者は発智庄平氏、それも唯一人であったことが大いに幸いしたことは言うまでもない。
 発智氏は多年にわたって地元青少年育成に尽くされ、その恩恵に蒙った人たちが感謝を篭めてもそのひとたちの手によって、現存の野戸池畔に氏の銅像が建設された。当時この地方では養蚕が盛んで、生糸を扱っでいた星野正三郎氏がその除幕式が招かれた。氏は発智氏の所有される広大な土地に着目され「ここにゴルフ場を作られたら」と提案されたのである。昭和初期の不況の中でもあり、地元の振興のためにと発智氏はこの話に乗ったと思われる。星野氏はその翌年1月に藤田欽也氏にその建設を要請された。これを受けた藤田氏は早速現地に赴かれ、発智氏を訪ね、その日は3時間かけてその土地を視察されたとう。
 藤田氏はその土地を見、また発智氏と話をされて心を動かされたのであろう、ここにゴルフ倶楽部の建設の決意をされたと思う。そこで識者の意見を求められるなどの運動を始められ、その一人井上信氏は現地を訪れられている。しかしこの話は一向に進展をみなかった。その理由は、土地がフラット過ぎる、東京からの交通が不便、がその主たる理由であった。当時ここへは東上線の霞ヶ関駅からタクシーによる他はなかった。いまの狭山市駅から倶楽部に通じている道には橋が出来ていなかったのである。果たしてこれで会員が集められるのか、当時のゴルフ人口を考えれば、それも当然の心配であったろう。そうこうしているうちにその年の暮れ近くの或る日、発智氏の子息太郎氏が藤田氏を訪ね「父の意向として、是非ゴルフ場の建設を推進して欲しい、その資金の一部として3万円を用立てる」ことを伝えた。3万円が今なら幾らなのかは判らないが、当時でも大金であったろう、藤田氏はこの発智氏の熱意に感激して、再び関係者の協力を求めることになった。それからがどのように話が進められたのかは判らないが、太郎氏が藤田家を訪れたあと2ケ月も立たない昭和4年2月には現地で地鎮祭が行われている。

 いよいよ建設が始まるのだが、土地の確保が決まっているだけだから、測量から始まり、コースの設計、工事、当時としては珍しいトラクターが使われた由であるが、殆どは手作業、芝の買い付け、植付け、作業員の確保など、その他に会員の募集、資金の調達、さらには倶楽部規定(定款)の作成、などに関わったとして、その名が残されているのは発智氏、藤田氏、井上氏それに赤星四郎氏、石井光次郎氏、田中次郎氏、山本栄男氏、鹿島精一氏、清水揚之助氏である。私はこの9人が倶楽部のハード、ソフト両面の創立者と思っているが、その陰に隠れてしまっている多くの方たちがおられることであろう。

 ハウス建築を含めての建設工事、発起人会、創立総会などの一切の開催準備、諸官庁などへの手続きを経て、現地での開場式が10月6日に行われた。僅か8ケ月で現在の東コースが手作業で完成しているのだが、多い時には一日に700名の作業員か動員された由であるが、これも発智氏の地元における人徳によってであった。
 開場式における式辞の一部をご紹介しておこう。「本倶楽部は家族とともに体育の改善を図り、道義の涵養を主眼として創設せられ、兼ねて当地豪族発智庄平翁の任侠なる意気とゴルフ界同志の奉仕的意気勇健なるスポーツと結合して、風光最も雄偉なる武蔵野大自然の中に出現をみたものなり」一見美辞麗句のようにみえるが、ここに道義の涵養との言葉が述べられているが、これには裏づけがある。それはまだ開場される前に、既に入会申し込みをしていた会員を対象として、井上信氏が前後4回にわたってゴファーの一般常識について講演されていることである。このことについて井上氏は二十五年史に次のように寄稿されている。

 「日本人専有のゴルフ倶楽部は少なく、東京、保ヶ谷、茨木、武蔵野の会員以外は恐らく始めてゴルフをやる人たちなので、クラブライフ、エチケット、技術、競技規則について手ほどきが必要であったのと、将来最も気持ちのよい立派なゴルフ倶楽部としたい創立者諸君の懇望に応えて、僭越を顧みず、鉄道協会の講堂で前後4回にわたり、ゴルファーの一般常識の講演をしたのであった。その講演で私の心を込めて強調したのは、愛倶楽部精神の昂揚は言うを待たぬ所であるが、霞ヶ関を気品あるよい倶楽部とするためにはグッド・フェローシップということであった。」

この講演の要録は、Fairwayの昭和6年8月号から4回連載され、その一部は私が書いた「KCC70年のあゆみ」に掲載している。
 私はこのような講演会を開いた創立者の意気込みを強く感ずる。そしてその精神は今日までの75年もの間守られてきと信じたい。毎号のFairwayの目次に掲げられている3項目の言集は、昭和5年に創刊されて以来連綿と続いている。また倶楽部にフェローシップ委員会がつくられたのは昭和8年2月、これは日本のゴルフクラブで初めてのことであったが、これらは井上氏の説いた精神が生きている結果である。更に言うなれば倶楽部内で誰もが会員章を着けている事もその一つなのである。
 さて、いま倶楽部では75周年記念事業として、創立に功労のあった方たちの記念の像をつくる話があると聞いた。上述したように私が挙げるなら発智氏、藤田氏、井上氏の3名以外には考えられない。しかし敢えて1人に絞れと言われたら、発智氏を選ぶ。極めて好条件で土地を提供され、3万円を提供された熱意が藤田氏を動かし、それが多くの識者の協力に繋がり、また建設に当たっても地元の有力者として陰に陽にご努力頂いたからである。
 この75年の間に戦争もあり、接収もあっが、先輩会員は倶楽部の創立の精神を守られ、私たちはその精神で育てられてきた。そのお陰で私たちは倶楽部に来て、クラブライフを享受し楽しいゴルフの時を過ごすことが出来るのである。
(2004.02.15)