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天野兵衛さんの手紙  

 この名前をいま会員でご存知の方は何人おられるだろうか。その天野さんが亡くなった。霞ヶ関カンツリー倶楽部の歴史がまた一つ消え去った。天野さんは霞の「生き字引き」だった方である。その天野さんから頂いた手紙の一つをご紹介する。これは平成2年1月定年で倶楽部を去られるに当たって、私が感謝の手紙を差し上げたのに対してのお礼状である。  


 拝啓 たびたび降る雪には閉口しております。折角の日曜日は雪でクローズになりまして、ご来場できず残念でございました。その節ご挨拶を申し上げたく存じておりました処本日はご丁重なお手紙を頂戴いたし、厚く御礼申し上げます。  
 ご尊父様の時代より大変お世話になり中井のお宅へお伺い致した当時を思い浮かべ感無量でございます。貴殿には広報委員長そして、名誉書記として倶楽部のためにご尽力賜り、また50年史編纂に当たりましてお世話なりましたことを御礼を申し上げます。  
 25年史、40年史、50年史編纂の際は微力ながらもお手伝いさせて頂きましたが、今回の60年史は途中で病気になり、お手伝いをさせて頂けず、大変失礼をいたしましたことをお詫び申し上げます。  
 お便りによりますれば60年史の制作も順調にご進行のご様子、誠にご苦労様でございます。小生前立腺切開部分が未だ糖尿病のため、思うようにならず、これからの余生を病気と戦いながら頑張っていく所存でございます。  
 何卒今後ともご指導を賜りたくお願い申し上げます。末筆ながらご尊家ご一同様のご健勝とご多幸をお祈りいたし、書中を以って御礼かたがたご挨拶申し上げます。   
                                 敬具
  平成2年1月25日  


 お手紙に中井の家とあるが、正しくは上落合の家なのだが、西武線の中井駅に近かったのでそう記されたのであろう。その家に来られたことを述べられているが、これは昭和10年頃のことであったと思う。父がキャディさんに本を読ませたいとのことで全集などを揃えておいたのを、天野さんがそれを家まで取りに来られたのである。私は玄関先に2人のキャディさんが立っていたその時の姿を、今でも覚えているが、その一人が天野さんだったのである。  
 倶楽部の年史編纂について歴代の編集委員長は、天野さんに相談したり、判らないことを確かめたりされてきた。私は50年史は石原委員長のもとで副委員長、60年史は委員長であったが、どのくらい教えて頂いたか、そうした中で文字にはならなかった霞のお話をお聞きしたことか、その全てをいま記憶はしていないが、頭の片隅に残っている気がしている。60年史について最後までお手伝いして頂けなかったことは、私も残念であったが、天野さんも心残りのお気持ちであったのだろう。  
 戦争のため召集され戦地にも行かれたが復員され、倶楽部に帰ってこられたが直ぐに米空軍に接収され、天野さんは倶楽部側のたった一人の従業員になった。尤もこの他に米軍関係の従業員、食堂関係の人はいたのだが、接収解除までの間倶楽部のために頑張ってくださったのである。  
 倶楽部を辞められた時は副支配人であった。昭和7年から平成2年までの42年間、召集されていた期間を除いてずっと倶楽部とともに歩まれてきた天野さん、昭和4年の開場式を見物に来られたそうであるし、そしてキャディになられた年に西コースが誕生、倶楽部運営の苦労、戦争、終戦、接収という変遷を、身を以って体験されてきた天野さん、昨年の倶楽部75年の日は、恐らく感慨無量のお気持ちであったであろう。もっともつとお話を伺っておけばよかったと思ってもこれは後の祭のことになった。 繰り返しになるが倶楽部にとって大変大事な方を亡くしてしまった。会員の皆さんとともに心から感謝しご冥福をお祈りしたい。
(2005.3.15)