F 02

60年前の話

 青山学院は2004年11月には創立130周年を迎える。年号で言えば明治初期になるから、古い歴史のある学校ということはよく判る。米国からスクンメーカーという女子の若い宣教師が日本に来られて、女子の小学校をつくられたのが、青山学院のはじめであった。
 宣教師の手によって創立され、またミッションスクールとして、その後は米国の教会の援助で学校教育は続けられてきた。現在の青山の土地も米国人ガウチャー氏の寄付によったものである。こうした歴史については、稿を改めるが、戦時下ではこのような歴史であったがために、いろいろなことがあった。一口で言えば、軍部から睨まれていた為からである。
 私は昭和12年に中学部に転入学したのだが、授業では外人の教師が教えて下さるし、学内には外人宣教師の住居が何軒もあった。日支事変は既に始まっていたから、国内はそろそろ戦時色になっていたのだが、学内に入るとちょっとした別天地であったし、中学部には栄養食と称した給食があり、平和的であった。それが青山であったのだが、当時我々学生生徒の間には感ずることはなかったが、先生方の中には戦争の影が忍び込んでいたのである。
 表題とした「60年前のはなし」とは昭和18年のこと、勿論太平洋戦争の真っ只中、そしてこの年の12月に学徒動員があった、話しは少し遡るが、当時の阿部院長がメソジスト派の監督に就任され、その後任に、笹森順三氏が後任として院長に就任された。そして都田中学部長がやがて学院を去られてしまった。その退任の挨拶で先生は「私は辞めるのではない、辞めさせられたのだ」と言われた。また佐藤生徒監も去られ、後任には西村先生、この先生は生徒監には向かないし、威厳も乏しかったが、笹森院長、後任の村上中学部長への反発がこの生徒監に集中し、彼のニックネームが八百屋であったことから「反八運動」と呼ばれた。しかし中学生のことであったから、大きな騒ぎには至らなかった。
 その3年後が昭和18年なのであるが、その4月の人事異動で、高等商業学部の古坂先生が去られて女専部長に、大木教務主任が退任となった。つまり我々は笹森院長の手によって、二度にわたって敬愛する先生方を奪われたと思った。この年の4月、専門部講堂で新旧部長から交代の挨拶があったが、古坂先生の挨拶には大きな拍手が起こったのに、新部長鵜崎先生が壇上に立たれても、全く拍手がないという極めて異常な事態になった。
 このような運動の中心になったのは、その4月に高商部の4年生になった私たちの1年先輩であった。高商部には中学部の卒業生が多かったことで、笹森院長に反発の気持ちが強く残っていた。
 学内といっても専門部、それも高商部を中心とした動きではあるが、日とともに潜行していた。授業に出なくなっても余り言われることもなかったが、覚えていることは、確か坂口という配属将校が我々3年生の集まっている教室に来て、話を聞いてくれたことである。正直そのとき坂口中佐が突然教室に入って来られたのには吃驚した。「貴様ら何をしているのだ」と一喝されても、仕方がない状況だったからだ。しかしそうではなかった。だから我々は可なり言いたいことを言ったように思う。終わってみると何かぼかんとした気分になってしまった。「よし暴れてやる」という気持ちに水を掛けられた気分だった。坂口中佐は当時どういうお気持ちかは知る由もないが、配属将校としては大変立派だったと今では思う。もし「貴様らの考えていることは間違っている」と怒鳴られたらどうなっていたか、判らない。
 詳しい日取りは忘れたが、ある土曜日の授業が終わったときに、4年生から月曜朝は登校しないで、神社に集まれと言われた。これを聞いたときは流石に緊張した。そして日曜日、学校から速達が届いた。その内容は、月曜日は休校との話が流れているが、それは間違いで平常とおりの授業がある、とのことであった。4年生の計画は学校側に漏れていたことになる。これはどういう事態になるのだろうか、私には思いもしてないことが始まろうとしていた。それで私は思い切って父に相談した。学校からの速達には父も関心を持っていたから、私は自分の知っている限りのことを話したが、その時自分はどうするかを決めていた。「明日は神社に行く」と。父は話を静かに聞いてくれ、そして「お前はどうしたいのだ」と尋ねられたので、皆と行動を共にすると答えた。しばらく父は考えていたが、「それが正しくて納得が出来ることなら、思った通りにしなさい」と言ってくれた。正直吃驚したが、とても嬉しかったことをいまでも覚えている。
 結果はどうであったか、と言うと神社には集まったものの、4年生を中心とした一団が、渋谷警察に逮捕されたのである。考えてみれば戦時下だから、無届の集会は、それだけで検挙されてしまうのであった。大部分はその日のうちに帰されたが、何人かは留置されてしまった。この事件は新聞ダネにはならなかったと思う。学校の先生たちへの反逆行動なのだが、これが反戦と受け取られることを軍部は恐れたのかも知れない。
 これには後日談があるのだが、学院にその記録が残っているかどうかは判らない。このような事件は残しておきたくないものであり、また当時はこのような事件を記録することも憚れたと思われるから、多分残っていないと思う。最早当時のことを記憶されている方は既に80歳を超しておられるから、数少なくなっている。
 私の記憶にあるのは、父から聞いた話で、父兄会を開いたこと、学内での開催を考えて学院に話したら断られたので、銀座教会でおこなったこと、そしてその結果を笹森院長に報告をしたこと、などである。父兄会の内容や院長に何を話したのかは忘れが、唯院長に対して憤っていたことは確かである。それは院長たるものが自分の学校の学生を大切に思っていない点についてであった。笹森氏は警察に出掛けて釈放を願ったことがなかったからだと思う。
 この問題は一段落し留置された学生に学校は何んらの処分もなく、我々学生の目的は達することもなく終わったのであるが、そのきっかけは新しい高商部長鵜崎先生の急逝であった。我々は鵜崎先生に何の恨みもないし、お気の毒との声もあったのに、恐らく心痛のがその原因と思われた。これを耳にしたときは本当にショックだった。
 そんなことも起こって笹森氏はやがて院長を辞任されたのであるが、これらについては学院に記録がある筈である。
(2004.4.10)