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山の本の話

 これは青山学院と直接関係のある話ではないけれど、関係者が皆学院関係者なのでこの項に記すことにした。終戦直後の古い話に遡る。  
 先日西村清子さんから電話があり、「本を整理していたら昔トシさん(鈴木敏夫君)から預かってた山の本が出てきた。これを何時までも持っているわけにもいかないので、ズキさん(私のこと)に送ってもいいか」との話。どんな本か判らなかったけれど、トシの名前が出たのでOKした。  
 西村さんのことを紹介するには、話しは古くなるが、ここから筆を起こさなくてはならない。戦後に私の中学部時代の恩師、尾崎信二先生が初等部長になられた。それまでは米山梅吉先生が私財で学院内に創設された「緑ヶ丘小学校」であったが、昭和21年にこの小学校と、同じ米山先生が設立された幼稚園が青山学院に吸収それ、小学校が青山学院初等部になり、尾崎先生がその初代の部長になられた。文字通り戦後の混乱期であったのだが、先生は子供たちをこれからどのように育てていくべきか、をお考えになったのであろう。
 就任早々に私は先生に呼ばれ、「自然を愛するもの、とくに山を愛するものに悪人はいない」との信念から、子供たちを夏にキャンプに連れていきたいので力を貸して欲しい、とご依頼を受けた。キャンプの器材も食糧も乏しいときだったけれど、その夏奥多摩氷川の川原に山岳部の天幕を借りてキャンプをすることができた。

  参加者は尾崎先生、三沢先生に看護婦の石田さん、子供は5年、6年男子の希望者13人、それに尾崎先生の長男の弘信君、そして私他に尾崎先生の訓導を受けた石村、川崎、南、塩津、国分の各君、合わせて23人であった。多摩川で泳いだり、付近の山を歩いたり、食事をつくったり、であったが、とにかく少人数であったから、目は行き届くし、子供たちは元気に動きまわり、楽しい時であった。トラブルを敢えてあげるなら、山を歩いていた時に地蜂に襲われたこと。
 私は過去に山で蜂の大群に襲われた経験がなかったから、この時は吃驚したが、急いでキャンプ地に戻って石田先生に処置して頂いて事なきを得た。そして氷川キャンプは滞りなく終わった。
 そして昭和22年、尾崎先生から今年の夏も、とのお話が新年早々にあり、それに今度からは女子の子供も連れて行きたいとのことであった。聞くところによると、昨年は男子に限ったために女子から不平があったそうだ。こうなると指導員も男だけというわけにはならない、その人選をする羽目になったが、と同時にサブにトシ(鈴木敏夫君)をお願いした。

 女子の人選をどうするかでは悩んだが、とにかく今まで話し合ったこともない方たちだから男同士のようなわけにはいかなかったが、私の他は、鈴木敏夫、弟の匡、国分勝実、それに童研の三輪洋二郎、女性は高田清子、香川倫子、山崎節子、山崎英子、村越令子ら女子専門部の人たちが決まった。このメンバーが駒草会であり、この会についての記録を昭和23年に書いたのを今も持っているが、まさに青春時代の喜びや悩みの記録である。

前書きが長くなってしまったが、それは高田さん(現在は西村さん)と私はこの駒草会を通して知り合ったのであり、それに鈴木敏夫君のことも書いておきたかったためで、お許しを頂きたい。その鈴木君も今は亡き人になってしまった。

 話を本筋に戻そう。 西村さんが預かったのは次の4冊である。  

1. アルプス・ヒマラヤ処女峰登はん史----藤田信道訳著 (B5版 272頁)
  昭和6年7月5日発行 (発行所 山と渓谷社)
2.岳---------------------------------------川崎隆章 編纂 (A5版 382頁)
  昭和18年8月15日発行 ( 発行所 山と渓谷社)
3. 山日記-----------------------------------高須 茂 編纂 (A5版 284頁)
  昭和18年7月20日発行 (発行所 山雅房)
4. 山の季節-----------------------------平田佐太郎 編纂 (A5版 262頁)
  昭和17年10月10日発行 ( 発行所 昭和書房)

 3冊は戦時中の出版、これら全部をトシが買い求めたものではない。それは「岳」の見返しに「贈鈴木敏夫君 昭和20年6月24日 入営に際し 南百城」と書かれているからだ。何故南君がトシに託して本を残したのか、6月というと東京は既に焼野原であったが、南君の家は戦災を免れたがトシの家は焼かれた、そこで山の本でも読んでくれ、との気持ちからだったのだろうか。南君も亡くなり今はそれを確かめることは出来ない。
  この4冊を読み通すには1000頁を超えるのでご勘弁を頂くが、拾い読みしたところで私の感想を記してみよう。

 「アルプス・ヒマラヤ処女峰登はん史」は表題通り登った記録、それもご本人が書いたのを翻訳されたのである。あまりにも有名なマッターホルンについてはエドワード・ウィンパーの記録が訳されている。ご存知のことと思うが、同じ日にイタリア隊か゜別ルートで登っていてそのことが記されている。
 「彼らが出発して4日たった。その間私たちは彼らが私たちより先に頂上に達しはしないかと焦慮したのだった。そしてすべてが頂上に「征服者」の兆しが出ることを恐れていた。
 スロープは容易であった。そして私はグロツツとは足並みを揃えて突進した。へとへとになるまでそれを続けた。午後1時40分、世界は私たちの足下にあった。マッターホルンは征服された。万歳、足跡一つ見えないではないか」。

 1865年7月11日のことである。この他の山としてはウェッターホルン、モンテローザ、カンチエンジェンガ、それにマロリーのエベレスト遠征記などでる。
  この本の序文を小島烏水氏が書かれている。この烏水氏は私ども青山山岳部の先輩小島隼太郎氏の父君で、日本での登山の草分けと言われた方である。
 「アルプスとヒマラヤは登られたる如何にして初めて登られたか,ということを登山者自身が記録したものが、19世紀に勃興した山岳文学、適切に言えば登山文学である。それはこの世紀以前にはなくして、以後現代のみらある文学だ」。
 藤田氏はこの訳本が初めてでばないようで、登山家としも優れておられた氏のこの訳書を絶賛されている。「もし本書をもって泰西名家の手になる登山記の徒らなる寄せ集めとみるものがあるのならば、それは堅固なる精神が、本書の大きな柱になっていることを、看過しているのではあるまいか、と私は思うが如何」と結ばれている。  
 
 「岳」についてまた序文になるが、柳田国男氏が書かれている。氏は著名な民俗学者で、私はあるご縁というのは、私が生まれたころというのだから古い話だが、我が家に書生として倉田一郎という人がいた。この人がその後に柳田先生の高弟になった。そして結婚することになって先生に仲人をお願いしたのである。
 偶々父は新聞社の特派員として海外に出ており、先生にお願いしたようだが、先生は「君の結婚の仲人は鈴木先生のほかには考えられない。自分が挨拶を引き受けるからご子息に代わりに座って貰いなさい」とのことになった。そんなことで何度か先生とお目に掛かる機会を得た。もっともまだ中学の時だったから、先生から民俗についてのお話を伺うことはなかった。
 この倉田氏はその後に青山の中学部の教師になったから、昭和14年ころに居られた人は憶えておられるかも知れない。ここでも青山が出てくる。
  柳田先生と山というのは何か繋がりが無いような気がしたが、序文に曰く。
 「山に大きな愛情を寄せている我々が、一生かかっても気付かずにしまいそうなことが、この本を読んでいると次々と考えられてくる。まず第一に山を知り山に親しみ、それをまた心あるものに語り伝えようとする人が、これ程日本には多かったということ、これが少なくとも私には発見である」。
  この本に執筆されている方たちは95名に及ぶ。私の乏しい記憶の中に残っているお名前を列記してみる。新村出、今西錦司、向井潤吉、金田一京助、三木露風、相馬御風、土屋文明、高村光太郎、斎藤茂吉、小島烏水、藤原咲平、折口信夫、川田順、佐々木信綱、朝倉文夫、実に広い分野からこれらの方たちを含めて原稿を集められた編者に、心から敬服してしまう。
 時代は変わったけれどこれだけの山についての随筆を集めることは今は出来ないように思う。 この本は前にも書いたが南君が入隊するときトシに贈ったのだが、彼がこれを入手したのは昭和18年上旬とあるから、或いは殆ど読む間もなく入隊したかもしれない。  
 
 「随筆山日記」は昭和16年の7月の発行だから、太平洋戦争の始まる5ヶ月前、当時の日本は既に戦時体制であった。にも拘わらずここに掲げた本にはその戦時色が全くといってよい程見当たらない。逆にいうと当時よくこのような本の出版が許されたと思うのだ。しかし少しくらいはあるだろうと思っていたら、「戦争と登山」との表題で千坂正郎という方か書かれた一文があった。
  「山で死んではいかん」とか「山で死ぬのは本望だ」というところを抜け出て、「山では死なん、が山で死ぬかも知れない」と大衆的境地に入る。西欧的なものから東洋的心境への転換が、今の時代の後に現れる登山に大なる期待を持ち、自分もその一分子として義務を果たしたい気持ちである。」 この不分が何時書かれたかは判らないけれど、この気持ちには納得できたし、戦時中に山岳部の部室で仲間と議論していた自分を見た思いがした。  
 
 4冊目の「山の季節」、これも随筆集で40名の方たちが執筆されている。前に倣ってお名前を挙げると次のようになる。
 深田久弥、黒田正夫、黒田米子、尾崎喜八、冠松次郎、今西錦司、木暮理太郎、田部重冶の名を見る。
  この本を拾い読みしてみると、過去の山行を書かれておりそれも昭和初期に登られた山についてもあり、それはそれなりの貴重な文献であると思われる。そこでここでは黒田米子さんの「婦人と登山」から一部を抜粋してご紹介する。

  山も又「女もしてみん」という反発力ある女性から、登り始められたと推察する。一言すればそれは模倣の心理、たとえ出発点は模倣にしても、目覚まされた打ち深いものの価は、俄かに断定は許されない。模倣性も強いけれど、感受性も豊かなのが女だ。何故か女人は第二の天性としてまず男性を対象と考える習慣に染みこまれていた。その自らわが世界を狭めるような心持が、山という広大無辺の対象にぶつかって、朗らかにも飛躍した。山に浸り、山に登って、しっかり把握した世界の自由な喜びは、女性の魂を恍惚とする。
  男性だけの登山の世界に飛び込んだ筆者の思いに目を見張るが、現代の女性の目からみれば、何故こんなことを思わなくてはならないのか、になるだろう。
 彼女は昭和6年4月に雪の穂高に挑戦している。この登山が一番苦闘に耐えた思い出と記されているが、午1時に上高地を出発して、奥又の頭に出たのが7時、そして北尾根を経て前穂高岳山頂が8時45分、奥穂高岳に着いたのが2時40分、そしてこの登山の終点は大キレットでそこに到着したのが4時半。なんと15時間半の苦闘を続けられたのである。 残念なことだがこの時の黒田さんの年齢はわからない。しかし昭和のはじめにこのような女性アルピニストが居られたことを初めて知った。

  西村さんのお蔭で懐かしい山の本を紐解くことが出来たし、それによって自分の青春時代を思い起こし、そして私にとって「山」とは何であったのかを考えることにもなった。それはこれだと言うものはないけれど、いままで一時たりともわすれることはなかったことだけは確かである。
(2005.3.3.)