F10

御巣鷹山20年  

 日航のジャンボ機が群馬県の御巣鷹山に墜落して、この8月12日で早くも20年になった。その犠牲者520名の中には歌手の坂本九がいたことは悲痛であったが、このとき青山学院の常務理事であった長田(おさだ)先生が犠牲になられた。私は既に学院の監事であったことで先生のご指導を頂いていたし、また先生の奥様ともお目に掛かる機会もあって存じ上げていた。  

 先生ご夫妻は関西、宝塚の近くの仁川にお住まいで、この日夏休みのときにも拘わらず学校に来られ、仕事を済ませて自宅にお帰りになるため日航機に乗られたのである。  

 いま手元に「茜雲」という書籍がある。これは御巣鷹山に消えた520人の追悼文集で、手元にあるのは第20集の総集編、これを紐解くと事故の翌年1986年から毎年発行され、この20集には第1集からの全てが再録されて、その内容は遺族の方たちの想いが300ページ余りにわたって記されている。ここには長田夫人、坂本九夫人のご執筆はないが、切々の言葉には心を打たれる。これを読んで改めて知ったことは、この惨事の原因が未だに発表されていないこと。今日になっては最早どうにもならないであろうが、将来の安全のためにも日航は努力すべきであったと思う。

 さて、話を戻そう。この事故を知り長田先生が遭難されたと聞いた瞬間、私は何をすべきか、であった。丁度それは山岳部の学生が山で遭難したのと同じで、まず現地に行くこと、ご遺族のご面倒を見ること、などが頭を巡った。事故を聞かれて奥様はきっと現地に来られると直感したが、果たしてお泊まりになるところは確保されているのか、が先ず心配になった。それで相談したのが山岳部OBの岩井君、彼も関西にいたから、長田先生をよく存じ上げていたことを思い出したからである。 岩井君は何も言わずに直ぐ承知してくれ、車も用意してくれとにかく現地に近い藤岡を目指した。着いたところは学校の体育館だっただろうか、広い館内は棺で一杯であった。その中で幸いにも長田夫人に直ぐお目に掛かることができた。ここには確認されたご遺体だけが集められるのだが、聞くところによるとどの遺体もばらばらで、それが誰方なのか、簡単には判らないという。

 私たちは大勢のご遺族その関係者の中にいるのだが、何もすることがない、奥様は何体かの遺体が届いたという知らせがあるとその届けられたところに行かれる、そんなことが何度かあったが、やがて奥様は間違いないとのご遺体の一部を発見され、我々は胸を撫でおろした。岩井君の努力で前橋にホテルを確保できたので、そこにお送りした。20年も前のことでありまた当時は夢中であったこともあって、詳しいことはもう殆ど覚えていない。

 もう一つの記憶は奥様を御巣鷹の現地にご案内したことである。学院の何かの会合でお目に掛かったとき、「御巣鷹尾根にもしお出でになりたいとお考えならば、私が準備させて頂きます」とお話したら、最初は驚いておられたが、「是非行ってみたいと思います」とのこと、それでまたまた岩井君と連絡して、一切をお願いした。日取りも決まり、その日の午後東京駅八重洲口でお目に掛かり、岩井君と若いOB、それに夫人と私の4人は車で御巣鷹にむかった。この日は岩井君が用意してくれた民宿に泊まり、幸い天候に恵まれた翌日、尾根に向って出発した。この道は恐らく遭難救助や犠牲者の救出に急拵えの道であったと思うが、その後沢山の方たちが使われ、まずまず整備されていたが、目指す御巣鷹は遥か高いところであった。 尾根の少し下に日本航空の小屋が作られていて、ここで湯茶の接待を受けたが、職員と奥様が話しをされると、ご遺体が発見されたと推定されている地点に案内してくれることになった。そしてそこに白木の墓標を建てることになり、日航が用意していた白木に奥様は墨痕鮮やかに先生の名前を書かれた。それを携えその小屋から10分くらい登ったか、係りの人から「ここです」と言われたところにそれを建てた。小高いところであったので、航空機がどの辺にまず山に接触し、どこまで滑走したか、まだ樹木が薙ぎ倒されていた跡は鮮やかに残っていた。着地して止まったところまで何キロか見当もつかなかったが、時速200キロとして10秒でも5キロは滑るのだから可なり広い。先生の遭難地点は機体が止まったところより手前の小さな尾根の上であった。新しい墓標に祈りを捧げてから周囲を見渡すと、数多くの墓標が点在していたが、一番集中していたのは機体が止まったところであった。

 もっと詳しくここに書けると思ったが、20年前となると記憶が薄れている。そのため印象ばかりになって申し訳ないが、青山の監事として、どれくらい先生に教えて頂いたことだろうか。それに一言も感謝申し上げる機会を得ぬ侭にお別れしてしまったことは、心残りであった。改めて先生のご冥福をお祈りする。 この御巣鷹のことは岩井君を煩わしたが、彼も先生への感謝の気持ちからであった。
(2005.9.1)