F11                           

駒草会のこと  

 この会を私は青春の1頁として、恐らく生涯忘れないであろう。もう60年近い昔の話になる。私はこの会の記録を昭和23年春に書き、それは今でも手元にあるので、それを参照にしながらここに書き留める。  

 話は昭和21年から始まる。まだ敗戦の混乱が収まっていないときである。この年の4月に青山学院にあった緑ヶ丘小学校が「青山学院初等部」になり、その初代初等部長に尾崎信二先生が就任された。先生は私たち兄弟が中学部にいた当時の英語の先生で、次弟には担任の先生でもあった。そんな関係から先生のお宅に中学部の頃から通うことになったし、ご家族の奥様、弘信君、嶺子さん、由紀子さんとも親しくして頂いた。その部長ご就任早々の先生から「この夏子供たちをキャンプに連れていくからその時は頼むよ」と申しつけられたのである。これは前から先生は「自然を愛する者、とくに山を愛する者に悪人はいない。これは単に偶然ではなく、そこに何かがあることを感じる」と言われており、多くの子供たちとともに先生がキャンプ生活をと、お考えになったのは極めて自然のことであった。  

 子供たちとのキャンプは一体どうすればよいのか、とにかく終戦直後のことであるから、乗り物の利用も侭ならぬし、食糧の調達、天幕の準備などどうするのか、などの問題があったが、幸いそれらは周囲のご努力で解決の見通しは出来た。しかし現地で我々は何をするのか、これは4月に初等部の教員になられた三沢先生からご指導を頂けた。三沢先生は昭和15年の夏、当時の中学部3年生(次弟のクラス)が野尻湖畔でキャンプ生活を行ったときの指導員であり、その責任者が尾崎先生であった。そのようなご縁で三沢氏が初等部に来られたのである。  

 子供たちをキャンプに連れていくのは、我々にも初めての経験、その為いろいろなことはあったけれど、その夏多摩川畔で氷川でキャンプは行われた。尾崎、三沢先生と看護婦の石田先生、子供たちは5・6年生の男子希望者13人、それに我々指導員は石村幸雄、川崎亘、南百城、塩津顕、国分勝実の中学部時代に先生の薫陶を受けた者ばかりと私、総勢23人であった。  

 子供の人数の半分以上が先生と我々であったのだが、子供たちのためのいろいろな計画を立てるほか、炊事もしなければならないので、決して暇ではなかった。このキャンプで何をやったか詳しくは覚えていないが、一人の事故もなく終わってよかったが、しかし一番嬉しかったことは、その秋に学校が始まると子供たちの話題になり、喜んでくれていることが分ったことだ。夢中で過ごしたキャンプだったけれど、まあ責任は果たせたかなと思ったことであった。  

 ところが年が明けて正月に先生のお宅にご挨拶に伺ったら「今年の夏も是非キャンプをしたい。今度はもっと計画的に大きくやってくれ給え。そのことを今から考えて欲しい」と言われたのである。お聞きすると参加した子供たちの父兄の評判がよかったらしい。しかし先生のお話から察すると今度は参加の子供の数は数倍になるだろうと思われ、それなら指導者も我々の仲間だけからでなく、広く人材を集めて衆知を集めて計画したいと思った。今から思えばこの考えが指導者のグループをつくることになり、それが後日「駒草会」にと繋がったのである。  

前年は女子児童の参加を学校が認めなかったことで、女の子供たちから不平があったと耳にしていたので、それを予想して今度は女子の指導者も置かなければならないと思った。そしてこのことについて尾崎先生のご了承を得たのは昭和22年1月末であった。 人選であったが、まず鈴木敏夫君を山岳部の後輩として、弟の匡を医師の卵でもあり尾崎先生の担任クラスであったことで、前年参加した者として国分君を、専門部児童研究部から三輪君、ここまでは簡単に決めることが出来た。一方初等部の尾崎先生、三沢先生との打ち合わせも始まって、私の方から人選のご了解を得たりしたが、先生方のお話を伺っていると、我々に対してのご期待が思っていた以上に大きなことが分かり、嬉しく思う反面責任の重さを感じた。女子指導者の人選では、まず女専のハイキング部長武田玲子さんにお願いしたら、ご本人も乗り気であったが、その頃はじめて高田(現姓西村)清子さんにお目に掛かり、是非させて欲しいと心強いお返事を頂いた。後日のことになるのだが、高田さんが香川倫子さん、山崎節子さんを勧誘してくれ、更に武田さんが退いた後に山崎英子さん、村越令子さんを誘ってくれ、これが駒草の女性陣になった。  

 昭和22年3月28日の午後、初等部長室で尾崎、三沢両先生の他に鯉沼、浜中、向山、松江の諸先生、童研から金塚、樋口の両君、それに駒草から私と鈴木敏夫君との懇談が行われた。これは勿論尾崎先生のお考えで開かれたもので、先生が初等部に我々や童研の若いメンバーに何を期待されておられるか、がこの日改めて分かった気がした。  

 私の記録には何故か判らないが、その後の氷川キャンプ、山中キャンプにについては何も記されていない。今思うと山中湖畔のキャンプでは、泳いだり歌ったり楽しいキャンプであったのだが、その印象より疲れ果てて東京に戻ってきたことだけ覚えている。尾崎、三沢両先生のご指導もあったが、他の諸先生からも終始よくご協力を頂けたことは本当に嬉しかった。  今の初等部には他の小学校ではできない行事が幾つもある。船の学校、雪の教室などがその顕著なものであろうが、私はこれらは尾崎初代部長の遺された「新しい初等教育」が受け継がれているのではないか。私はそう思っているし、我々は駒草会として尾崎先生のお心ざしに少しでも貢献できたか、今も密かに思っている。
(2005.9.25)  

 これだけでは、駒草会の記録と称するには余りにも内容がないとお感じになると思う。 書いてから57年ぶりに読んでみると、キャンプ生活のことは何も書かれてなく、私自身の駒草会を通しての心の葛藤が中心になっている。 初等部のための会であるから、まず先生方とのコミュニケーションがなければ我々は浮いた存在になり兼ねない。また我々が子供のことを理解するために児童研究会の協力をお願いしたが、それは彼等が初等部児童と以前から一つになって活躍しているので、そこに我々が入り込んでいくのだから、これを理解をして貰うこと、第三が女専との問題、これは今の私ならばよく判るけれど、駒草会は「プライベイトの会」との私の認識が甘かったことに端を発していたようで悩んだ。女専側からみると初等部の教育に、学生が無断て駆り出されたということなるのだ。私が勝手に女専の学生から人選したことが、まずかったことになる。幸いこれは女専部長の古坂先生に尾崎先生が了解をとって頂いて解決したのだが、一時はお先真っ暗になった。  

 これらが実は記録であって、私にとっては二十歳代での貴重な体験であったと今にして思う。尾崎先生からのお話を受けて、そのご期待に添うために組織した駒草会、若いリーダーとしての苦闘の記録と言えよう。ここに出てくる諸先生、指導員の中には既に亡くなった方も少なくない。まさに昔話ではあるし、これを将来とも公表する積もりは全く考えていない。あくまでも私の青春の1ページなのである。
(2005.10.3)