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山岳部最初の遭難  

 青山学院大学山岳部は誕生して80年以上になる。今の学生諸君には重い荷を背負って汗を流しながら山に登ることに興味も関心も持てないらしい。私の専門部在学時代全学生が1000人くらいの時でも10人以上の部員はいた。それが今の大学にその10倍近い学生がいても、我々当時と部員の数は余り変らない。また近年山の遭難者といえば中高年が多くて学生の遭難は滅多にない時代になった。それだけ山に登る年齢層が変わったことになるが、私が昭和16年山岳部に入ったとき、「青山からは遭難者を出していない」というのが、誇りとされていた。  

 山岳部員で初めて遭難したのは当時の工専建築科に在籍していた岡安千秋君、穂高ジャンダルムで、昭和22年7月14日に起きた。  今から58年昔のことでる。私はこの時、誰からか連絡があったのか、誰と一緒に現地に行ったのかも覚えていないが、直ぐに上高地に向った。それが何日であったか、いまそれを推定してみると、遭難の報が入ったのは14日、その晩中央線に乗って島々からトラックで上高地、その晩は明神に泊まり、16日に涸沢を目指して歩き始め、確か横尾出合から少し下がったところで、担がれていた岡安君に遭った。見ると彼の大きな身体がその侭の姿であったが、頭の丁度オデコの右に大きな傷があり、これが致命傷になったことは直ぐわかった。一緒にジャンダルムに登った野村君は、岡安君の遺体にぴったり付き添い、我々の顔を見たからであろう、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。慰める言葉もなく私もその一行に付き添って下り、僅かの時間ではあったが遺体を背負った。勿論初めての経験であったが、思っていた以上に重く、頭が右に左に振れる度に足がぐらりとしたのを覚えている。  この岡安君が山岳部最初の遭難者であったことは前に述べたが、山岳部の年史を担当している栗林君から、この記録か全く無いのは部の記録として手落ちだから、私に調べて欲しいとの要望があった。ところがその記録が私の手元に全くといってよい程ない。この遭難の知らせがどのようなルートで東京に届いたのか、この救助応援に私とともに行ったのは誰か、その費用はどうしたのか、今では調べることもできない。  

 有り難いことに、当時北穂に小屋の建設をしていた小山義治氏が「穂高を愛して20年」の著作の中にこの遭難に就いて記されていた。この本は絶版になっていたが木村太三郎君が古本屋から探してくれたお蔭で手に入った。その遭難についての部分をここに転載させて頂く。


 「或る日夕食を済ませていたところへ、青山学院の山岳部の若い人がリーダーがジャンダルムのフェースで墜死したので応援してくれと言ってきた。詳しく聞くとリーダーはジャンダルム直下から20メートル落ち即死したが、サブリーダーは助かったそうで、死体は現場にくくり付けてあると言う。連絡員を上高地に走らせてから、私は仕度を備え、弟を連れて夜のうちに涸沢小屋まで登った。あくる朝小屋の番人や青山学院の生還したサブリーダーを連れ、穂高小屋の今田さんと一緒になって現場に向った。なかなか死体は見つからなかったが、ザイルで擦過傷を受けた右手をかばいながら頭上の岩を登って発見した。呆然と死体のそばに立つ彼(野村君)の顔は青ざめ真っ白な右手の包帯が痛々しく哀れであった。死体をジャンダルムのフェースから一旦吊りおろし、稜線へ引き上げて涸沢へ下ろすのは容易のことではなかった。ロバの耳から奥穂高の間、馬の背の痩せた尾根は弟が背負って私が確保した。穂高小屋からは雪渓だから割合楽で、涸沢まで降ろしてその日のうちに横尾の天幕まで帰った。翌日遺体運搬の一行が来て、橋が流れているので、是非梓川の渡渉だけ面倒みてくれと頼まれ、横尾出合の下流で背負い腰まで急流につかって無事に渡った。」  


 荼毘は帝国ホテルの木村さんの世話になることになり、上高地に近い小さな広場には沢山の材木が積み重ねられていた。地上1メートルくらいのところに遺体を横たえ、その上を覆って更に高く積み上げられた。これだけの木材を用意することも大変なことであったと感謝しなければならない。  日が落ちて暗闇に包まれた8時ころだったろう、薪に点火することになったが、これがマッチ1本で点くという。遺体の足の方に点火口があり、木村さんが小さな火を点けると積上げられた木材全体にやがて火がまわって、高さ10メートルくらいの大きな炎になった。この炎と煙に乗って岡安君は天国に旅立っていく、私たちは目に涙を浮かべながら、精一杯歌った。「主よみもとにちかづかん、のぼる道は十字架の・・・・」煙で彼の姿はみることはできなくなった。聞くと完全に焼き終るのは明日の朝とのこと、遺体は炎によって燃えるのではなく、木材がオキになってそれが焼いてくれるのだという。そこで我々は一旦宿に引き揚げたが、翌日その場に来て驚いたのは、まだ熱い炭の上に綺麗に骨が載っていたことである。材木の積み方とその量でこのようになるのだという。その遺骨を丁寧に拾って壷に納めた。

「この遭難記録がないという栗林君の申し出でに応えて、私は世田谷の自宅に野村君を訪ねた。彼が唯1人の言わば証人だからであるが、しかし奥さんの「岡安さんのことは話したがらないのです」の一言で断念した。その日からもう58年の歳月が流れているのに、恐らくこのことを今まで、一時も頭から離れたことはなかったと感じたからである。彼は車椅子の生活、山岳部に入っていたのにそのOB会名簿には名もなく、だから彼はこの遭難の経験から福島基金がつくられ、また待望の「あずさヒュッテ」が建設されたことも知らない。先輩の一人としては申し訳ないことだったと反省した。  しかし岡安君のことを部の歴史に残すために、このHPに記すことにした。とても正式な記録とはいえないけれど、その概要でお許し頂くことにした>

(2005.12.8)

その後日談を記しておく。

 このHPを栗林君に送ったのだが、彼は山岳部の最初の遭難がこんなことでよいのだろうか、と感じたようだ。そこで北穂小屋の小山さん、OBでは大原君、利根川君、中村君、それに木村君、さらには岡安君の妹さんにまで連絡をとって、この遭難の実状を纏めようと試みた。その結果書かれたのが「ジャンダルムの悲歌」である。

 山男には二つある。一つは山登りを楽しみ、その苦労をともにする仲間を大切にするタイプと、個人や団体の登山記録を大切にするタイプ、栗林君はその後者であるから、岡安君の事故の実情を少しでも正確に残しておくべきとの考えで、誰かの話を聞きたい、何かの資料が欲しいいうことになる。の結果この合宿に参加した人たちが河童橋で撮った写真が出てきた。これは大きな収穫である。集められた情報で纏めた内容は、これは推測の域を出ない。山での遭難事故はこの事故に限らず概ね「こうであったのだろう」で終るから、これで十分だと思う。

 しかしこの事故には、野村君というパートナーがいたのである。仲間を大切にする立場を取るならば、彼の思いを第一に考えるべきではないか、が前者の考えになる。一例を挙げるならばジッヘルにハーケンを使ったかどうか、までは推測して欲しくなかった。むしろ野村君の高い技術のお蔭で事故が1人で済んだと書いてもよかっのではないか。原因は岡安君にとって不測のことが起きたからと思わざるを得ない。亡くなった方を責めるつもりは毛頭もないが、野村君は精一杯のことをしたと思いたい。

(2006.2,15.)