F17

26年を振り返る

 青山学院の監事を26年勤めこの5月に退任した。こんなに長く勤めるとは思ってもいなかったし、これも周囲の諸先生のお蔭で続けることが出来たのだが、退任を機にその歳月を振り返って、私なりの思いを述べてみたい。
 本来ならばこの間に記録を作っておけばよかったのに、それがないので現時点で思うことを述べ、将来何か参考になればと願う。監事という職は学校経営そのものに関与する立場ではなく、経営を客観的に見る立場であるが、正直な話私がそれを弁えて理事会に臨むようになったのは可なり後のことで、当初はまるで理事の一人にでもなった気持だったのである。  
 また学校法人としても監事が監査本来の仕事をすることに、期待されていなかったと思う。それは文部省も会計監査がしっかり行われていれば、それで良しとのことであったからであろう。一方私学への助成金に伴う報告には、公認会計士の監査報告が必要であって、学校はそのための監査を外部に依頼されているが、それは監事とは関わりなく行われていた。しかしその報告は学校全体の会計監査報告なので、監事はその報告によって会計監査報告書を作成するのが慣例になっていた。これは概ねどの学校法人も同様であったと思われる。つまり公認会計士の報告を受けて、監事は学校法人評議員会に報告書を提出してきたのだがが、これについて文部省から注意を受けたことはなかった。  
 しかし監事には業務監査を行うことが定められているのに、この点について文部省から注意を受けたこともなし、また私も無知であったのだが、単に理事会に出席していればそれでよいのか、多少の疑問はあったが、それで万事滞りなく過ぎているのだから、何も荒立てることはない、ことになってしまった。こう書けば綺麗事だがそのときは、私は大木理事長の意に添って勤めることだけに励んでいたのである。当時は厚木キャンパスの建設、国際政治学部の創設など、大学が新しい飛躍を迎えていたが、理事長が先頭に立って推進される姿には頭の下がることであった。今はなくなったが、あのキャンバスはたった1年で完成したのである。  
 大分後のことであるが、公認会計士(この方も先輩)から「監事にだけ話す」と言われた問題があった。先輩の会計士が後輩である私に顔を立てて下さったのである。それで直接理事長に申し上げた。職員の首が飛んでも不思議のないことであったが、「判った。任せてくれ」で片付いた。学校という世界は先輩後輩の秩序がどこまでもついて回る。大木先生は大先輩であり、また高等商業学部の恩師との気持がどうしても働く。監事としては情けないことだったと反省はするけれど、このときは先輩会計士のご助言に助けられた。当時在籍されていた方達にはこのことは理解して頂けると思う。その後理事長からある調査のご依頼を羽坂理事とともに頂いたことがあった。これは監事としての監査に当たる問題であったが、理事長に報告書を提出して終ったが、私にはよい経験になった。  
 大木先生が理事長として、また院長として努められたから青山学院は一流大学の仲間に入ることが出来たと今でも確信している。こんな話があった。ある職員が先生に「先生をご紹介するとき理事長・院長の順でよろしいでしょうか」と尋ねたら、先生は即座「院長・理事長と言って欲しい」と答えられたそうだ。先生の頭の中には教育者としての誇りが強かったことを物語る話であるが、私が知る限りでは学校経営者としても第一人者であった。それは先生が勲一等に叙せられたことでも判って頂けると思う。  
 しかし弱点はあった。先生は何でも自分の思う通りに進めるのあまり、下の者に任せることが少なかった。恐らく細かいことまで指示されていたのではないか、こうなると下のものは一つ一つを先生に伺いながら進めた方がよい、となる。監事になり、職員と接触するようになって感じたことは、「学院には人が育っていない」であった。彼らの目はいつも院長に向いており、判断は院長にお伺いするのが当たり前になって、自分で考えることを忘れた人ばかりが育つてしまった。  
 もう一つ残念であったことは、大木先生は理事長、院長の後継者候補を決めておられなかったことである。そのため先生が亡くなられて、理事会はまず理事長代行、院長代行を選任することになり、羽坂理事と西岡学長がそれぞれ選ばれた。理事会の中で羽坂先生が一番の先輩ではなかったが、この辺はよく判らないが、常勤できるのは羽坂先生だけであったからかも知れない。またその後院長については理事の中で意見が割れて、規定の通り評議員会で選挙が行われ羽坂先生の推す深町宗教部長に決まった。この選挙はある意味では羽坂理事長の信任投票であった。  
 この時から羽坂、深町コンビが始まる。理事長と院長が別々になったことは大木時代の終わりでもあったし、これは極めて自然なことに思えた。羽坂先生は教職のご経験はなかったし、深町院長も学院に来られる前は牧師、教育の場としての青山学院のトップ二人がともに教育現場の経験がないということになり、考えれば画期的ともいえよう。大木理事長という個性の強い方、その先生が亡くなられて、学院にぽっかりと大きな穴が空いてしまった、その後を受けてのこのコンビ、それに理事会の中には新理事長より先輩の方もおられたし、恐らく我々には、はかり知れないご苦労があったと推察する。しかしそうした心配も他所に、新体制は健やかに船出が出来たのは、お二人のお人柄によるものに他ならない。  
 しかしこの新体制にも問題はあった。それはとくに大學の在り方である。大木先生時代には理工学部をはじめ法学部、経済学部、国際政治学部をつくられ、それに伴い世田谷キャンパス、厚木キャンパスを建設された。それで一段落とされたのかどうかは判らないが、新しい理事会は教学面での主導性が薄くなったことである。大学のことは大學に任せる、との考えもあるけれど、やはり新学部をつくるなら理事長が中心になって計画をつくり、教授陣を整え、用地、建物、諸設備それに伴う資金面まで含めての計画内容でなければならない。これらすべてを大学に任せることは、青山では馴染めないことのように思う。理事長、院長が一人であったなら、或いはどちらかが教職の出身であったなら、このような悩みは起きなかったかも知れない。
 羽坂理事長が総合企画室をつくり、将来計画委員会をつくられたのは、教学面を含めて学院の将来をみんなの知恵で考えていこう、とのお考えであったと推察する。また将来に向けての資金確保を目指して、維持協力会もつくられた。が残念ながら先生在任中に先生の描かれた目標が実を結んだとは申し難い。青山学院のこれからが具体的な施策なり方向で示されたことはなかった。これは理事長のリーダーシップに起因していると言われる方もあるか思うが、私もそれを否認する積もりはないけれど、これは学校経営の難しさを如実に表わしている。これは誤った考えかもしれないが、集団指導は学校経営に馴染まないのではないだろうか。
 学校経営と企業経営の違いは教授会の存在だ、と私は何度思ったことか。企業ならば社長の一声で全社が一丸になることがある。しかし学校の場合、理事長の一声で一つになることは余程の先生が現われなければ先ず考えなれない。形から見れば理事長は経営の責任者、教学の責任者は院長なのだろうが、実際は大学長、短大学長、高等部長、中等部長、初等部長、幼稚園長夫々なのである。従ってこの責任者と理事長はお互いに一体感の持てる関係であること、とくに大学、短大にこれが強く望まれるが、この責任者は夫々の教授会によって選ばれる、言葉を代えて言えば、教授会の代表なのである。理事会に出席してもその立場から免れることは出来ない。しかし学長としては理事会で決められたことは、教授会なり職員に徹底しなければならない立場でもある。そのために学長は理事長と教授会の板ばさみになることもあり得るのである。そのように考えると、理事長、院長、學長はしっかりとした線で結ばれることが望まれるけれど、それぞれに立場があるから現実はどこかで妥協というか、譲り合っているように思えるのだが、如何なものだろうか。
 監査の立場から言うと、従来は教学について監事は立ち入らないのが原則とされてきた。 が業務監査が私学法改正、それに伴う寄付行為の改正で見直され、教学に立ち入ることは監事本来の仕事と認識されるようになった。これは他大学で教授の研究費に不正使用が起こったこともあるが、大学としては使用の実態を把握するためにも、監査が必要とされるようになった。しかしこの面の監査は教授の考え方もあり、難しいことであるが、監査の対象になっただけでも大きな前進である。このように監査の対象が広くなってくると、予算の立て方についても監事は承知しておかなければならなくなる。青山では経理部を中心として予算会議を開いているが、監事は今まではその会議に出席していなかったが、監事の常任化に伴い立ち会うことに改められた。予算とはその年度の経営方針が数字で示されるものである。だが監事はその予算の内容について口を挟むことは出来ないけれど、どのような経過を経てその予算が作られたのか、を知っておくことは極めて大切だと思う。  
 私立大学連盟に監事会議が創設されたとき、私はその運営委員に推薦され前後4年間に渉って出席した。この会議の目標は「学校法人の監事はどうあるべきか」にあった。監事の在り方、監査マニュアルの作成を中心に論議がなされたが、毎年夏に行われる全体会議に出てみると、他大学の監事に対しての認識の低さには驚かされた。私のような者もこの会議に行けば「よく判っている人」の一人に見なされたことでも判る。その上学院では内部監査の専任者を置き、監事の常任化も進めたので、「青山学院は羨ましい」と言われたものである。羽坂理事長の英断のお蔭で私はいい思いをしたのだが、その後私立大学法の改正があり、各大学ともにいろいろ努力されていると思うけれど、青山の監査体制が一歩先んじて行われたことは幸いであった。  

 松沢理事長は就任されて半年、山口氏、竹石氏を常務理事に据え、監事を一新されて体制を整えられ、ご自分としての課題を広く示されるなど、流石企業経営の経験を積まれた方との印象を持つ。これは大木理事長、羽坂理事長とは違うところだから周囲は戸惑うかもしれないが、その成否は時間を掛けなければ判らない。要は理事長ご自身が青山という学府を如何に理解し、学校経営の肝どころを掴まれるかである。私は新理事長を今までの理事長のようによく存知上げていないから、何も申し上げることは出来ない。もっとも監事を離れたので、それは永久にないであろう。しかし26年監事であった経験を生かして頂く機会があれば何時でもお役に立つ気持ちはこれからも持ち続けたい。私の愛してやまない青山学院のためなら、の気持ちからである。
(2006.6.18)     

 青山学院監事を辞任したことでこのHPにはいろいろな角度で記したので、同じことを述べていることもあるが、それはお許し頂く。  さて感激したこと。それは学院の経理部と監査室の皆さんが、私の為にお別れのパーティを開いて頂いたこである。監事といえば役員、学内で機にふれお話をしてきた方は概ね役職者の方達であった。例えば大学なら学長、学部長どまりで、教授の先生方とは言葉を交わす機会は殆んどなかった。監事ということで敬遠されていたのかも知れないが、私も敢えて深入りすることは控えていた。  

 ところがこのパーティには役職でない方達も参加して下さったことである。何かの用でその部屋を訪れたときにお茶を入れて下さった方達も参加して頂いたのである。理事長、院長がいらして頂くのとはちがって、「学院に席を持つことができたこと」の喜びをこの日ばかりは噛み締め、感謝した。もっと申せば感激してしまって、ご挨拶もしどろもどろになってしまった。このHPの上で準備して頂いた竹石氏、そしてご参加頂いた皆様に心から御礼を申し上げます。
(2006.6.23)