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米山梅吉記念館  

静岡県の三島に米山記念館があることは、前から承知していた。このHPでは青山学院の項で書くが、ロータリアン米山氏は余りにも有名であるが、私は米山氏を青山学院の大先輩として考えたかったのである。  

米山氏は1868年(慶応4年)に東京芝の田村町で生まれているから、いま現存されておれば138歳になる。明治5年のまだ幼いときに三島に移られ、小学校を卒業されて明治14年に沼津中学に入学されている。この時代に中学校がその地に存在していたのは驚きであるが、その頃から米山氏(当時はまだ和田姓)が如何に英才であって周囲から注目されていたかが判る。それで米山家から嘱望されて縁をくまれ、後日春子さんと結婚されたのは、明治29年である。

結婚以前に米山氏は米国に学ぶことを志し、そのために上京され「東京英和学校」に学ばれている。この学校は青山学院の前身であり、ここで米国から派遣された宣教師によって語学の教育を受けられたことと推察する。そして20歳のときに渡米され、オハイオ州のウェスレアン大学に学ばれ28歳のとき帰国されている。

それからの大先輩の足跡を記しておくと、明治31年(1898年)に三井銀行に入られ、英語が話せるということからか、銀行業務の調査に欧米に出張されている。いまと違って船旅であったから相当長期にわたったと推察される。明治42年(1909年)には常務取締役に選任されておられるが、これは大変な昇進であったと思われる。大正に入ると政府派遣財政経済委員として外遊され、その折にお知りになったかどうか判らないが、米国シカゴでポールハリスらによって生まれたロータリークラブの思想を、日本にとお考えになった。その結果大正9年(1920年)に東京ロータリークラブが創立され、その初代会長になられている。ときに52歳であった。氏はその後三井信託銀行を設立されてその初代社長、三井報恩会会長など文字通り三井財閥の中心的存在であった。

青山に私財を投じて小学校、幼稚園を設立されたのは昭和12年(1937年)、自ら校長になられ、春子夫人が園長であった。後にこの施設は青山学院に寄贈されて、それが現在の初等部、幼稚園に繋がっている。

しかし青山にはこの「米山」の名が意外と残っていない。間島図書館、万代奨学金と先輩の名が残されているが、初等部、幼稚園ではも米山の名を聞くことはまず無いのではないかと思う。それが遠い過去のことであるからかも知れない。この大先輩を青山はもっと大切にして欲しい。三島の記念館はロータリーのことが中心であるが、ささやかであるけど青山と氏の関係を記したボードが作られ掲示されている。どうか青山の関係者の皆さん、誇るべき我々の大先輩を大切にしてください。そしてお暇があったら是非三島に足を運んで下さい。
(2006.10.26)         

米山梅吉の名は日本のロータリアンならまず知らない人はいない。それは氏が日本での創設者であるし、米山奨学基金があるからである。この基金は世界各国から日本に学びにくる主として学生に支給されている。 東京ロータリークラブは、1952年に日本にロータリークラブを創設された米山氏の功績を記念して、日本に留学する人を対象に奨学金を支給する事業を企画し、その名を米山基金とした。以来60年余、いまでは日本で100万人近いロータリアンの支持を受け、財団法人米山記念奨学金となっている。民間の奨学基金としては最大のものであり、当初はアジア諸国にその対象が限られていたが、いまでは世界の学生が対象になっていて、各方面から高い評価を得ている。この奨学金によって米山の名は世界に広まっている。
(2006.10.29)