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プロローグ

  父は昭和26年2月に61歳で亡くなっている。今思えば随分若くしてこの世を去ったのだが、当時は参議院議員であったし、周囲からはその将来を期待されていたと思う。英語は達者であったし、敗戦後の混乱期だったから、尚更であったのだろう。亡くなったとき私は27歳、戦後に大学に入ったから当時はやっと社会人になれ始めたころであった。だからこれからが父に本当に教えて貰えるときだったのに、いなくなってしまった。
 父は私が小学校に入ったときには朝日新聞の編集局に勤めていた。大体家に帰ってくるのは午前、そして朝学校に私たちが行くときは寝ていたから、顔を合わせることがない。しかし日曜日にはゴルフから帰る父を近くの西武線の中井駅に迎えにいく。この週1回だけは会えた。
 私が5年生になったころと記憶するが、朝日新聞に暴漢が侵入し、それに立ち向かった父は重傷を負う羽目になった。築地の林病院に入院、一命は取り止めたが、その療養は長くかかり、湯河原、下部と傷の回復に効く温泉に行っていたが、そこへ母に伴われて父の元にいった。それが契機であろうが、軽井沢の星野に別荘を持つことになったが、その利用はしかし父でなく、専ら我々息子であった。夏には勿論父が数日だが来る。何時であったか正確には覚えていないが、杉村楚人冠氏をこの小屋にお連れした。こういう方とご一緒に課も井沢周囲の見物をしたり、食事をしたりの経験は初めてであり、いろいろ教えられた。
 子供の時の父の思い出はそう多くはないけれど、父親としては怖かった。何がとか何時頃といわれても答えられないが、つまり威厳があったのだろう。戦争が厳しくなったころ、弟は早稲田の文科に行きたいといったが、父は医者になれと絶対に許さなかった。これは尋ねたことはないが、私は既に青山の高等商業部に進んでいたから、二人も戦争で子供を失うのは嫌だとという気持ちからではなかったか。父はこの戦争には絶対に反対であったのだ。そして「勝てる筈は万に一つもない」と確信していたと思う。朝日という大新聞社にいたが、憲兵隊に目をつけられていたことは間違いなく、引っ張られたこともる。
 この弟の進学、そして戦後に父と接する機会が多くなって、私は父の愛情を感ずることが出来た。そして父の真価が判る様になり、尊敬できるようになった。ちょっとそれに気づくのが遅かったのか、それとも父が逝くのが早かったのか、今では何をいっても仕方がない。
(2003.11.10)