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 登山の勧め

 私が山登りをすることを勧めたのは父である。青山の中学部3年のとき、夏休みに北アルプス白馬岳登山が計画されてその募集があった。それを父がどうして知ったのか判らないが、突然私に参加しなさいと言い出した。勿論それまで高尾山や天覧山くらいには遠足で行っている程度で、アルプスの山登りなど考えたこともなかった。母は余り賛成ではなかったが、父の言うことなので決まり、靴とか服装とかを揃えて貰うことになった。

 その時の父の話の中に大雪渓とかお花畑の言葉が出ていた。その時はおぼろげながら、行ったことがあるのだな、と感じた程度で、とにかく親父が登れたのなら、なんとかなるとの気持ちになった。そして私は白石七郎先生について白馬岳に登り、これが私と山との出会いになったのである。

 父の登山については、父の著書「空の旅・地の旅」に書かれていた。この本は昭和4年に新潮社から発行され、定価は2円であるが、それから推定すると父が登ったのは昭和初期になる。私が行ったのは昭和13年であるから約10年後である。そうであれば父には当時その印象はしっかり残っており、それが私に勧める要因になったのかも知れない。この計画が立山とか甲斐駒であったらひれ程強く勧めたかと今にして思う。私には幸運であった。
 幸なことにこの「空のたび・地の旅」が手元にあったので目を通してみた。同行は3人、A氏とかT氏との名で記されていて、ガイドを雇って四谷から白馬尻を経て大雪渓を登っている。カンジキを履いてとあるがこれはアイゼンとは違うと思われる。白馬尻から山小屋まで5時間掛ったとあるから大変な苦労をしたのだろう。
 これを読んで私が「へえ」と思ったのは雪渓を登っている間に母子の二人が抜きつ抜かれつであった様子が記されている。何故私が驚いたかというと、私たちが登ったときに、はっきり覚えていないが富山で運送業をしているという、ご夫婦と一緒になったからである。ご夫婦からみれば子供のような私たちに関心を持たれたのであろうが、山は初めてという私にとっては、心強い存在であった。このご夫婦とは翌日に唐松岳までご一緒したが、父も白馬で母子と一緒であったとは、偶然のこととは言え出来すぎた話しである。

 父はこの白馬登山の前なのか後なのか判らないけれど、上高地に行っている、それも徳本峠を越えてである。ある年(何故かこの記録には昭和何年かのこれていない)の7月下旬のこと、その記述を記しておく。
 「梓川電力のMさんと島々まで自動車を飛ばし、そこで松本営林署の木材運搬用に敷いてあるトロッコに乗せてもらい、島々谷の渓谷に沿いいよいよ徳本峠に向かう。島々は上高地の地元だけに、上り下りの登山者で活気づいている。昨年だけでもここを通貨した登山者は約1万人で、その前年の倍であるが、今年はその数倍加しそうな勢いだという。登山者の8〜9割は学生で、いずれも背中一杯にはちきれそうなリゥック・サックを背負い込み、ボタボタ汗を流しながら三さん五ご連れ立っていく様は、見るからに頼もしい。中には友達が落伍でもしたのか、サックを一人で二つ背負っていく者もある。「おいおい、トロに乗らないか」と声をかけると「有難う、結構です」とばかり見向きもしない。はじめて日本アルプスというところに来てみて、一番愉快におもったのは、この学生たちの登山姿だ。昭和のはじめに学生登山はそんなに盛んだったのだろうか。青山の山岳部ができたのは対象の末期だから、その兆候がはじまっていたのかも知れない。

 トロッコは岩魚止めまでで終わり、そこから登り峠に辿りついて、梓川が余りにも谷底に見えてがっかりしたとある。上高地の文字から父は何か高い所と錯覚していたようだ。しかしクッタ時のことを次のように述べている。「だがその失望は下へ降りて跡形もなく忘れた。小島烏水しがはじめて十数年前にこの峡谷を見た瞬間、ぼうとして自分を忘れたというあの名文を成る程とうなづかせた」
 明神のことも書いてある。「有名な明神池は、千の利休もこれほどには巧めなかったろうとでもいって賞める他はない。その入口には数十年間、75歳までこの上高地に住んで死んだ例の嘉門治爺さんがいた跡の家がある」ここに千の利休の名がでているのは、よほど父はこの風景に感激したのであろう。
 これを読んで、父が登山を勧めてくれたその裏には、トロッコへの乗車を拒んだ学生の姿があったのであろうか。
(2003.11.15)