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父のお蔭

 いまになってこんなことを言うのは可笑しいかも知れないが、自分の歩いてきたこ道を振り返ってみると、私が父と同じジャーナリズムの世界に入ったこともあって、その恩恵に浴したことが多かったように思う。

1。書くこと・

 私に書くことを教えてくれたのは父である。幸いものを書くことが重荷と考えたことはなかったのは、その血のお蔭なのだろうか。昭和15年(1940年)もう60年以上も昔になるが、私は級友栗林君らと南アルプスの北岳に登った。何故この山を選んだかと言えば、日本で富士山に次いで高い山というだけの理由であった。若いときだから何とか遭難もしないで帰ってきたが、その内容は今思えばお粗末であったが、東京に着いたときには「やったぞ」との誇りさえあった。

 この登山の記録をその夏休みに書いたのだが、400字の原稿用紙で100枚くらいであったと記憶かする。それを書き上げたのはその夏軽井沢に行っていた時で、偶々父がいたのでそれを読んで欲しいと頼んだ。最初はその量に吃驚したようだが、父は暇なときその原稿に赤字を入れ始めてくれた。だから「これは何を書いているのか」との質問がくる。それに答えると、それならこう書くべきと赤字を入れてくれる。この部分は無駄だから削れ、ここは書き直せ、中学生の私には理解できないこともあったが、何となく父が怖くて質問も出来なかったことを覚えている。

 実はこの山行で「もう駄目か」との思いをした。それは北岳の頂上に登ることができそこから野呂川まで、吊り尾根を下ることになっていた。しかしこの道は余り使われていなかったのか、忽ち道を見失い這松の中を掻き分けながら、とにかく下った。このために時間を浪費し、やっと道らしい道をみつけたが、そのころには誰も口がきけず、ひたすら駆けるように下りつづけた。この尾根道には水がなく、喉はからからになったが、地図には池が描かれていたのでそれを頼りに休まずに歩いた。ところが漸く樹林帯に入ったがなかなか池は見つからない、やっとそれらしき処を見つけたが、それは水がない池の跡であった。一同はその傍にへたり込んでしまった。

 この日朝はやく白根御池小屋を出て、既に12時間は歩いている。お昼に何を食べたか忘れたが弁当、それに水筒の水しか口にしていない。しかし此処でビバークすることはできないから出発したが、とにかく水が呑みたい一心で下っているうちに、一行5人はばらばらになってしまった。次第に暗くなり幸い懐中電灯を持っていたから、なんとか助かったのだが栗林君が転んで怪我をし、私も左腕を岩にぶつけたのかして動けなくなり、とうとう一人になってしまった。そうなるともう唯下るだけ、転げ落ちて奇跡的に川原に着き水をたっぷり飲んだ途端動けなくなってしまった。

 記録にはこの状況を詳しく書いたが、不思議なことに「こんな大変なことを何故話さなかったのか」と父に叱られた覚えはない。「よく書けている」と褒められたこともなかったが、父は本当のことを書いたこと、自分たちの失敗をその侭体験したままに書いたことを大切に思ってくれたのかもしれない。

 今思うにこうした記録は人それぞれの体験であり、それを自身どう考えるかで書かれる、だから百人百様になるのだが、それでよいことを、当時の私には判らなかったが、学んだようだ。もっともその頃は書くことの大切さ、面白さなど感じてもいなかったのたが、この頃からものを書くことを始めるようになった。父の指導はそれから後も受けたことはしばしばであった。

(2004.5.10.)

2.霞ヶ関カンツリー倶楽部

 日本で名門といわれるこのゴルフ倶楽部、私はそのメンバーであるがこれも父のお蔭である。

 霞ヶ関カンツリー倶楽部は1929年、75年前に誕生、父はそのチャーターメンバーであった。父が生まれたのは1890年(明治23年)、となると父は39歳のときに入会、メンバーとして若かったどうかは判らないけれど、当時200円の入会金を払っていたことになる。その頃の給料がどのくらいか知らないが、想像するのに可なりの大金であったと思う。ゴルフをするのは華族階級の頃だから、恐らくゴルフを知らなかった父は、随分思い切ったことをしたと思う。まだ小学生の頃、倶楽部で家族の芋掘会りがあっときなどには連れていって貰った。その時には西武線KCC特急に乗っていくのだが、これも楽しみであった。父はやがて理事になり、キャプテンも勤めた。

 私は昭和34年ころからゴルフをはじめ、川越カントリー倶楽部に入り、その後勧められて柏ゴルフ倶楽部に入ったが、ここが言わばホームコースになった。44年に霞ヶ関CCで会員の募集があり、これに応募して数倍の競争率の中で入会したが、これも「親父がチャーターメンバー」がものを言ったに違いない。最初は週日会員であったから中々出掛ける機会がなく、日曜には柏ゴルフ倶楽部に通っていたが、52年に正会員になり、柏を退会した。この時から数えても27年になっている。この間に私は理事、常務理事、監事、そして評議員、評議員会議長と勤めた。このような要職に就けたのもみな父のお蔭であり、それを思って私も精一杯努めた積もりである。

 正会員になってしばらくたった時、先に入会した弟の推薦もあって、当時のパブリケーション委員会(現在の広報委員会)の委員になった。委員長は石原巌氏、この委員会は倶楽部の機関誌Fairwayの編集を担当しているのであるが、実はこのFairwayは昭和5年、つまり創立された翌年に父の努力で創刊されたのである。それで委員会に入ったとき委員長から「君は親父の後継ぎだ」と激励されたことを覚えている。

 ある時委員長から「これは私が持っているよりも貴君が持っている方が相応しい」と言われて頂いたのが、戦前のFaiewayの綴じ込みであった。石原さんが会員の一人から委員会に贈られたと聞いたが、その会員は井上成一さんだったと記憶いている。そこで私は事務所の天野さんに懇願して戦後のFairwayを取り揃えて貰った。これで全部揃ったことになり、それ以後は自分で保管しているから、私は恐らく会員としてFairway全冊を持っている唯1人と自負している。

 さて話は前後してしまったが、委員会に属してみると、Fairwayは毎月の発行であるから委員会も毎月開催され忙しかったが、私は編集が好きであったから楽しく仕事をすることができた。ところが偶々副委員長が病に倒れられて、委員長の推薦でその席が回ってきた。それで益々力が入りカラー化を試みたり、、送料節減のために第三種郵便の認可を取ったりしたのもその頃であった。しかし大仕事は「霞ヶ関50年史」の編集であった。年史の編集が広報委員会の担当になり、年史編纂委員会の副委員長をすることになった。これについては別項に記したが石原委員長の熱意はすざまじく、50年との節目の年史は立派に出来上がった。その後石原氏は亡くなり、私は委員長になり、さらに60年史の編纂も手がけることになってしまったが、そのお蔭で倶楽部の歴史を知ることができたのだが、そうした中で父が生前倶楽部でとんなことをしたのか、の一端を知ることが出来たのは嬉しいことであった。

(2004.5.10.)