Prologue


 1924年3月17日に、私は東京四谷左門町で父鈴木文四郎、母満子の長男として生れたようだ。
 父は東京外語を卒業し私が生れた時は朝日新聞社に勤めていた。母は氷室家から嫁してきて、実家は代々神職での家柄であった。

 私の生まれる前年の9月に関東大震災があり、そのためかどうかは知らないが、間もなく四谷から上落合に引越している。ここには1944年9月に海軍予備学生として入隊する日まで、つまり私の学生時代を過ごしたのだが、この家は翌年5月25日の東京大空襲で焼けてしまった。

 終戦になって両親が借家していた祖師谷の借家に復員したが、間もなく北沢に家を求めて移った。父は戦争責任の役員総退陣で朝日を去り、間もなくリーダーズダイジェストの日本語版編集長になった。私は就職を考えていたのだが、父の強い勧めで大学に行くことになり、一夜づけの俄か勉強で幸い東京商科大学に合格でき、1949年の3月になんとか卒業、私は出版に道を求めることを考えていたので、その旨を父に話し就職先をお願いした。幾つかの会社に話をしてくれたが、その中で私は戦後に創立した婦人雑誌ホームを選んだ。これには父は意外であったようだが、私は「大きな会社では出版全体のことを学ぶことは出来ない」との考えを述べて理解して貰った。

 何が幸いするか判らないもので、ホーム社ては編集の仕事をすることになったが、勤務は朝9時から始まるが、終わって社を出るのは10時を過ぎることが殆どであった。その翌年の春にこの会社は倒産してしまったのだが、その1年と少しの間に本郷社長と担当の中尾課長から学んだことで、私が出版人としてその後進んでいくことが出来たのであり、今でもこのお二人には深く感謝している。

 このホーム時代に結婚した。増田トヨ、青山学院女子専門部国文科の卒業、彼女の父は日刊工業新聞社の社長であった。前述のようにホーム社が倒産したことで仕事がなくなったのであるが、偶々父が参議院議員に立候補することになり、とにかくその手伝いをすることになった。選挙事務長は朝日新聞の政治部長を勤められた前田多門氏で、この方の言われたことを忠実にするだけのことであったが、とにかく多くの応援して下さる方が事務所に来られるし、役にたったかどうかわからないが、てんてこ舞いの日々であった。父は当選して議員になったが翌年の2月に癌で亡くなった。

前後するが、選挙が終わって、さて自分はどうするのか、議員になった父は忙しくなっていた折に、増田の義父から会社に来いとの話しを頂いた。父に相談し許しをもらったので、日刊工業の社員になった。その1年後に義父は私の希望を入れて出版局に配置してくれた。出版人としてこの時スターとできたのだが、これについては別稿に譲る。この義父は昭和40年に亡くなったが、私は父を早く亡くしていたので、この義父の世話になったこと、教えられたことは、私の人生にとって大変な幸せであった。

常務になり大阪支社長になり、経営企画室長、労短など経営の中心になったが、関連会社の面倒をみることになり、幾つかの社長も勤めた。結局新聞社には2003年の6月まで在籍していた。

この間に会社関係では取材先、得意先の方々、新聞社や関連会社の幹部や社員、それにロータリークラブ、青山学院の役員や諸先生、青山の校友会の役員、クラスの友人、山岳部の先輩、後輩、霞ヶ関カンツリー倶楽部のゴルフ仲間と、自分でも驚く程沢山の方たちに支えられて今日があることに気付く。これは何ものにも代え難いことであり幸せであり、有難いことと思っている。

このホームページは青山の山岳部の後輩、木村太三郎君と畠山洋一君の手取り足取りのご面倒のお陰でスタートできる。ここに深甚の感謝を申し上げる。

2004年3月17日              鈴木 弘