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青山学院名誉理事  

 青山学院宗像総局長の名で6月30日付けの書簡が届いた。

 [6月27日開催の学校法人青山学院理事会において、青山学院名誉理事規則及び青山学院名誉理事候補者基準により、青山学院名誉理事候補者として推挙され、満場一致をもって称号贈呈を決定いたしましたので、ご報告申し上げます。]  

 主たる内容は以上の通りであり、私が名誉理事の何人目かは判らないが謹んでお受けすることにした。贈呈のセレモニーが何れ行われるようであるが、26年間とにかく勤めあげたことが評価されたのであり、これは有難いことであり、また名誉とも思う。  

 大学と短期大学では名誉教授の称号を基準に従って毎年贈呈しているが、この称号は世間から高い評価を受けるから、人によっては名刺を作られる方もある。が学校法人の名誉理事が果たしてどの大学にもあるのかどうかは知らないが、私は名刺につかう気は全くない。敢えて言わせて頂けるなら「名誉監事」の称号を頂きたかった。一度も理事になったことがないのだから、また26年もこの席を暖めてきたのだから、自分にはこの方が相応しいと思ったのである。  

 名誉理事規則を改めて見なければならないが、この規則は私の在任の時にできたのだから、全く知らないとは言えないけれど、正直覚えていない。これからはその規則に沿って学院のお役に立ちたい。
(2006.7.2.)

「学校法人青山学院名誉理事の称号を贈呈し永くその功労を称えます」と記された賞状を7月20日の理事会の席で頂戴した。日付は6月28日、前月の理事会の翌日付である。発行番号は第10号とあり、この規定ができて10人目ということになる。

 私が青山学院に入ったのは昭和12年、だからもう70年前になる。卒業は19年の戦時中、戦後直ぐに、まだ私tが東京商大の学生のとき、初等部長の尾崎先生のご依頼をうけて、子供たちとともに奥多摩氷川でのキャンプ、その翌年は山中湖畔のキャビンでの生活と、お手伝いをさせて頂いて、青山との縁が続いた。その後私も社会に出て働くことになったが、学院からお呼びを次に頂いたのは校友会の理事に、そして次か監事にであった。校友会と監事の二足の草鞋であったから、青山に通う回数は次第に多くなっていった。この二足の草鞋は20年以上は続けたと思う。

 このようなことができたのは、私が青山が好きであったからである。どういうことが好きなのかと訊かれれば、それは青山の持つムードと申し上げておく。裏を返せば私の持つ性格にぴったり合ったわけで、私は青山に拾って頂いたことに心から感謝しなければならない。それだけに今度青山から離れることに寂しさを感じていたが、この名誉理事の称号を頂いて、私の名が学院に残して頂けるので、これは本当に嬉しいことである。今後どのようにお役に立つことが出来るか判らないけど、私の大好きな青山学院のためにその機会がれば努める積もりである。

(2006.7.20,)