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中学生の自殺  

 議会では教育基本法がどうのこうのと議論されている最中に、こんどは中学生の自殺、しかも「いじめ」が原因であることは、遺書ではっきりしている。そのいじめの発端になったのは教師が本人に投げ掛けた言葉「偽善者、うそつき」であった。これは教育法以前の問題で、この教師は学校で教育に携わる資格がないと断じたい。何故かこの教師の氏名が公けにされていないが、懲戒免職になったか辞任していることだろう。  

 いじめは本人に精神的圧力を与えるが、これが原因で自殺があっても誰にも罰は与えられない。それで「いじめはやり放題」とも言えるからエスカレートしてしまう怖れがある。それを抑えるのが本来ならばクラス担任教師の責任、それが煽る立場にいたのだから、生徒はさぞ悩み苦しんだことであろう。  

 文部科学省にその責任を問うてみても、それは空振りに終ることは間違いない。というは学校教育は各都府県教育委員会の監督下にあると承知しているが、しかし実際はどうも校長らしい。遺族に頭を下げているのは校長で、教育委員会は自分たちには責任がない、という態度。これでは監督者とはいえない。  

 いじめというのは、一人が一人をいじめても、それは喧嘩しながら悪口を言うのと余り変わらない気がする。が集団で一人をとなれば、これは喧嘩ではない。今度の場合教師がリーダーになっている集団の行為なのだ。  

 現在教師をしている人たちは、日教組が盛んな時代に教育を受けている。教室で教えて1時間幾らと考える人からの教育、だから子供たちのことより自分のことを考える、自分の教育の質が高いか低いか、反省したこともないだろう。もし今の日本が無気力と思うなら、その責任は戦後の日教組にある。従って今の教師の中にはこの流れをくむ者がいても不思議ではない。  

 安倍さんが日本の教育に強い関心を持っていることには賛意を表するが、教育改革は会議や法律も必要であろうが、教師その者の意識改革がなければならず、文部科学省や教育委員会など行政の組織を通して行えるものではない、ことを知って欲しい。各界の意見を聞くことから始められるならば、私は子供たちの「いじめによる自殺」は当分無くならないと思う。
(2006.10.18)

いじめによる中学生の自殺が岐阜県で起きた。これはバスケット部でのいじめでスポーツの仲間の間ではあってはならないことた゛。これについて校長は「いじめは確認できていない」として否定する談話を発表、遺書があるのによくも否定できたと驚いたが゜、遺書にあったと友人の両親が子供に問いただしたところ、親はいじめと判断し、亡くなった学生の両親を訪ねて謝罪した。

 この自殺した日の朝練習があり、亡くなった子の親は部の先生に様子が可笑しいからよろしくとお願いをしたが、この朝先生は練習に立ち会っていなかった。そのためにまたいじめがあって、それが自殺に繋がってしまった。この部の先生はいじめを全く知らなかったのか、軽視したかだが、中学生の自殺が起こっていた時だけに、不注意ということになる。校長は否定するし、教師は親に言われても注意はしない、これでは先生方の監督不行き届きの犠牲になったと言われても、仕方がないではないか。

(2006.10.31.)