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  教育雑感

 

 教育を語る資格はないが、余りにも問題があるので、取り上げることにした。

 まず教育委員会は戦後に生まれたと記憶するが、都道府県や市町村などの各自治体にそれぞれあると思っている。また以前何処かでこの教育委員を選挙で決めていたと覚えているが、それ以外は誰がどのような基準で選んでいるのかまるで判らないし、この委員会は何が目的で作られたのか、どのような責任と権限があるのか、またこの委員会と教育現場の関係はどうなのか、など判らないことばかりである。  

 戦後につくられたというのが正しければ、民主的教育の管理監督のためであろうが、青山学院の監事をやっていた26年の間、理事会などで教育委員会という言葉を聞いた覚えが殆んどないことから判断すると、まず大学、短大は関係がないようだし、それに私立学校は枠外の感じがしている。  

 この程度の知識でいたのだが、今度小学生、中学生の「いじめによる自殺」でこの委員会がクローズアップされた。この自殺事件が教育委員会の責任とは予想外であったが、全く責任はないとは言い切れないらしい。ならばどういうことが委員会の責任なのか、またその責任が果たせなかったら、どうするのか、これも判らない。

 次に全国の高校で必修科目を教えていない学校が続々と現れた。NHKの報道によると41都道府県の403校、その学生数は約76.000名に及んでいるという。これでは教えている府県は幾つなのか、何故そうなったのか、実態はまず大学の入試科目にない授業をやめて、その時間を入試に役立つ科目に使う。学生にとっては有難いことであるし、学校側には合格率が高くなるという実績が残る、つまり双方ともに利点があるから文句が出てくることはない。しかし学校にはその科目の授業を行わなければならない責務がある。そこで学校は行っていない授業の成績を適当に決め、それを成績簿に記入したり、教育委員会には規定通り授業を行っている報告をしたり、まったく委員会は学校から舐められているのである。私がここで取り上げたのは、そのようなことが学校で行われても、それを教育委員会が調べて判明したのではなく、NHKなどのマスコミの調査での結果からである。

 教育委員会が無力なのか、校長がいい加減なのか、その何れでもあるのだが、これで私は教育委員会とは何か、本当に日本の教育に貢献しているのか、考えてしまった。つまり常識豊かの学生を育てるよりも、入試に強い学生をつくることに加担している。そしてそれを望んだのは学生ではなく、学校なのだから始末が悪い。だから被害者は学生である。父兄はこのために卒業に影響のないように配慮して欲しいと、文部科学省に要望しているが、親とすれば当然のこと、しかし文部科学大臣は補習でもいいから年度内に決められた授業を行うよう求めている。これも当然で、決められた授業を受けている学生は他に多いのだから、そのような不公平を認めることが出来ないことになる。さて教育委員会と学校はどのような判断で結論を出すのだろうか。

 いい機会である。安倍さんは教育に強い関心があるのだから、この際この教育委員会のあり方、教員の教育への考え方にメスを入れてはむどうか。私ははっきり申し上げたい。教育の良否は教育委員会でも校長でもない。教師一人一人の質と在りかたである。この人たちは何時も学生、生徒、児童の立場で、何が一番かを考えることが出来なければならない。教育審議会でいくらよい結論を出しても、それが教師に理解されなければ、それは「画に描いた餅」に過ぎないのだ。
(2006.10.29)

青山学院高等部が他の高校なみに必修科目の非履修を行っていると、昨日のNHKが伝えていた。高等部の卒業生は基本的には青山の大学に進学出来るのだから、受験に有利な科目の授業を増やすことなど考える必要はないと思っていた。それが何故行われたのか、他の高校に足並みを揃える必要は無いではないか。

 悪く解釈すると、高等部には青山の大学より、慶応なり、東大なりに一人でも多く合格して欲しいとの考えがあるのではないか。この考えは自分のところの大学を低く評価していることに繋がらないか。高等部の卒業生の中には医者や芸術家になりたいと思っている学生もいるだろうが、それは卒業生のー部に過ぎないはず、その少数の学生の為に必修科目を教えなかったとすれば、恐ろしいことである。国が決めた必修科目の教育を教師が自由に変更できる、もしこれが許されるならば、日本の高校教育は滅茶苦茶になるだろう。

 青山学院は教育の一貫校としてのプライドを幼稚園から大学院まで、しっかり持って欲しい。この高等部の必修科目の非履修は理事会で問題とされなければならない。

(2006.11.1)

教育再生会議という名の会議が出来ている。安倍首相の発想であろうが、この名前から考える限り首相は今の教育は「死に体」と思っているに違いない。がそれは学校教育の内容についてなのか、日本の教育制度についてなのか、更には家庭教育にも及ぶのか、職業教育も含めるのか、今の私には全く判らない。

 私は日本人は優れた能力を持っている民族と考えている。これは明治になって小学校を義務教育にした結果、人として先ず「読み、書き、算盤」を国民全てに教えてきた。これで文盲といわれる者はいなくなったが、戦後になると社会環境が大きく変わり、義務教育は9年になつたが、敗戦で国民は日本人としての自信を失ってしまった。勿論子供たちにはそのようなことがなかったのだが、教える側の人たちにはそれがあったと思う。読み書き算盤を教えることができても、人間として大切な「生きて行く上でのバックボーン」を説くことは出来なかったと思う。

 そして更に時は移ると、我々が生きていくための環境は急速な変化を続けた。それをは経済成長と呼ぶものだが、それに伴って日本は国際的な存在になり、社会人として身につけておかねばならないことが多くなり、それため「教育は知育、体育、徳育」であるべきなのに知育偏重に流されることになった。それを決めたのは文部科学省の官僚である。人間形成の上で大切な徳育は、小学校で修身の時間がなくなって消えたが、大学では体育は課外になって希望する学生だけが履修するか、好きな運動部に入って頑張るしかなくなった。学校での教育がこのような有様だから、国歌や国旗に対して尊厳な気持ちを持つことは教えられていないと思う、これでは「日本国民である」との誇りを持てるはずがない、。

 教育再生会議ではどのような教育を考えるのかは知らないが、それは教育基本法の成立を待ってになるのだが、本来なればまず「こからの日本人にはどのような人格、教養が望まれるのか」をあらゆる角度から論議をして欲しい。

 履修の時間が足りないのなら週5日制を緩和し、各学校の校長に任せてはどうだろうか。頭の固い官僚や役に立たない教育委員会よりも、それぞれの地域の父兄なり、有力者の意見を聞いてそれぞれの環境に応じ、また地元にも役立つ後継者の育成も、考えられるようにしては如何なものだろうか。全国一律との考えにこだわらないこと、そして高校では大学受験者には特別な授業を認めてもよい。無茶な提案だが、学生が求める内容の教育が出来ることを考えるべきではないか。

(2006.11,7,)