第1章 愛に似て愛と異なるもの



人との関り合いがうまくできるかどうかで、幸福になれるかどうかが決まる


 誰にとっても、人間というものは、もっとも興味ある存在ではないでしょうか。
 言うまでもなく、人の間と書き、一人では生きていけない私たちは、毎日、多くの人と
の関り合いの中で生きています。
 この、人との関り合いがうまくできるかどうかで、幸福になるかどうかが決まると言っ
ても過言ではないでしょう。
 ところが、この人との関り合い、いわゆる人間関係が得意だという人は、なかなかいな
いと思います。有能で社交上手と思われている人が、家庭では口数が少なく夫婦仲がうま
くいかなかったり、なぜか異性問題が多かったりというように、どこかでバランスが崩れ
てしまうことが多いのです。
 誰もが人に好感を持たれたい、そして人との間で豊かな愛情関係を結びたいと願ってい
るにもかかわらず、恨まれたりして不幸になることが多いのです。
 若者たちにとっては、やはり異性との愛が最大の関心事ではないでしょうか。心の中で
は常にステキな恋人との出会いを待ち望んでいます。
 ところが、気軽におしゃべりしたり、映画やドライブに行ったりすることのできる友達
はいても、心の底から深く愛し合える異性との出会いはなかなかやってきません。
 好きな人ができても、この愛はいつまで続くのだろうという不安が、常に心の奥底にあ
ります。うつろいやすい自分の心を知っているがゆえに、人を愛せる自信がないのです。
 さらに若い青年男女を惑わしているものに性の問題があります。
 映画や雑誌の性描写によって、性関係を結べば、それだけで満足感が得られるように思
い込んでしまい、性体験への期待で頭が一杯になってしまう時期があります。セックスの
具体的ノウハウはこと細かに書かれていますが、何か大切な点が抜けているように思われ
ます。
 つまり、性を見詰める心の在り方という最も大切な点が示されておらず、自分でもどう
していいか分からないため、非常に不安になってしまうのです。
 男女の愛と性は、炎のように激しいものですが、それだけに冷静さが失われ、本物の愛
から離れてしまうことのほうが多いのではないでしょうか。

愛情とは、意志力と実践力によって築きあげていくもので、テクニックではない


 高校時代、特定の異性を意識した時のこと、人を愛するとはどういうことなのかを知り
たくて、多くの書物を読んでみたことがあります。たしかに、もっともらしいことは書か
れていましたが、私が本当に知りたいことは書かれていませんでした。両親や先生や友人
に聞くこともできず、一人で悩んでいました。
 その後、人並みに様々な人生経験をし、結婚して二人の子供を持つようになった今、愛
とは何かが少しずつ分かってきたような気がします。
 かつて私は、そうした内容を両親を聞きたいと思っていました。ですから私は、自分の
子には、必ず伝えようと思っています。愛、性、結婚、人間関係のあり方等を。
 そして、今、人間不信の暗闇の中で、本物の愛を求め、人間らしい生き方を求めようと
している人の参考になるなら、喜んでそのことをお話ししたいと思っています。
 それはむしろ愛情人間学というべきかも知れません。なぜなら、愛情とは意志力と実践
力によって築きあげられていくものであり、それは男女交際のテクニックというようなも
のではなく、普遍的な学問的アプローチで取り組むべきものだと思うからです。
 これから始まる私の誌上説法は、まだ研究過程にある私の中間論文であり、それを完成
させるのは、読者の皆さん一人一人であると考えてください。

愛に似て愛とは異なるものを、はっきりと区別することが必要


 それにしても、愛という言葉がずいぶん多く使われていますね。逆説的になりますが、
愛という言葉が氾濫しているということは、それだけ愛のない時代であるとも言えるでし
ょう。
 本当に愛している人には、むしろ「愛」という言葉を語れなくなるという、多くの経験
からこのことが実証できるのではないでしょうか。
 「アイラブユー」という洋画のセリフを映画館の中で聞く機会が多くなり、直訳的に
「愛しています」と語るようになってきた。これは私のかってな解釈ですが、戦前は親が
結婚相手を捜し出すものであり、恋愛はまるで犯罪のように思われていたと聞きます。
 江戸時代には「恋」であり、初めて聖書を日本に伝えた外人宣教師は、聖書の中に書か
れている「愛」を「タイセツニスルコト」と翻訳しました。
 愛という言葉に含まれている意味は、本来は「大切にすること」「いたわり」「思いや
り」であり、仁や慈悲に通じるものです。ですから愛の中には、人類愛、兄弟愛、親の子
に対する愛、師弟愛、夫婦愛と、実に多くの要素が含まれているのです。
 いずれにしても、愛は相手の幸福、成長、発展を願い、そのために時として私をして喜
んで犠牲の道を行かせることさえあります。
 これらのことを愛の定義とすると、愛に似て愛と異なるものをはっきりと区別すること
ができます。
 自分が果たせなかった夢を子供に託そうとする母親、相手の中に理想の恋人像を投影し、
現実の相手を見ようとしない恋人たち、女性の精神的肉体的事情を理解しようとせず、自
分の性欲を満たすことしか考えない男性、好きという感情の中におぼれ、むしろその中に
陶酔することを望む恋人たち、性の衝動を相手への愛とすり替えようとする男性の論理。
 いずれの場合も、相手は自分の願望や欲望を満たすための対象であり、自分が満足する
ことしか考えていません。愛と言いながら自己愛の変形となっているのです。
 愛と思っているものが、実は最も愛と異なっているという現実を、直視しなければなり
ません。

愛は信頼と安らぎと、平和を感じさせ、生きる力の源となる


 さて、それでは愛とは一体どこにあるものなのでしょうか。
 ギリシャ神話の中に、愛の神エロスが出てきます。エロスは雲のような存在で、人の心
の中にフッと入り、フッと出ていきます。
 これは実に分かりやすい表現であり、多くの人が経験していることと思います。ごく普
通の友達だと思っていたのに、ある日突然意識するようになり、朝から晩までその人のこ
とばかり。草や木や花が突然輝きを増し、心は愛の喜びで一杯になる。ところが半年、
一年とたっていくうちにいつしかその愛の思いも消え失せ、すべてのものが色あせてしま
う。愛の無常、愛の悲しみですね。
 なぜそうなってしまうのでしょうか。実は愛という存在が、ギリシャ神話で表現されて
いるように、人の心に自由に出入りすることのできる不思議な存在だからなのです。
 これは恋愛に限らず、人類愛、兄弟愛、親の子に対する愛、師弟愛、夫婦愛と、愛情と
名付けられるものすべてに共通している点であり、愛は互いに関りのある二人の中に湧き
上がってくる泉のような存在なのです。
 人間それ自体の中に存在しているものではなく、互いの幸福と向上と発展を願う者同士
が寄りそう時、その二人の心の中に感じられる温かい大きな力。信頼と安らぎ平和を感じ
させ、生きる力の源ともなるのです。
 かなり抽象的な話になってしまいましたので、分かりやすい例で説明してみたいと思い
ます。
 映画「スターウォーズ」の中で「理力」(フォース)という言葉が出てきたことを覚え
ていらっしゃると思います。「理力」(フォース)とはこの場合、宇宙に存在する目に見
えない根本的パワーであり、精神力の訓練を積むことにより、この「理力」(フォース)
を使うことができるようになり、超能力者のようになれる。しかし、「理力」(フォース)
には暗黒面の要素もあり、憎しみを持つ者は、そちらの側に引きずりこまれてしまう。
 この「理力」(フォース)と表現されているものが、まさに「愛」そのものと言えるで
しょう。愛は目には見えませんが、宇宙の中にすべての存在の根源的力として存在してい
ます。
 私たちが他人への思いやりの心、いたわりの心を持とうとすると、この愛の力は私たち
を媒体として力強く流れ出します。ちょうど、高圧電流が導線を伝わって流れていくよう
にです。
 人生を豊かに送っている人、人の幸せのために生きることを喜びとしている人は、この
不思議な愛の力の働き方を知っている人です。自分のことを考える時にはこの力は働きま
せんが、人のために自分の利害を越えて尽くす時、心の奥底に勇気と生きる力と、暖かい
思いが無限に溢れてくるようになります。
 人間生活の中で、この宇宙的愛に近づき、愛を活用して安らぎと信頼と喜びの人生を送
るか、それとも愛のように思える幻影に振り回され、不安と不信と絶望の人生を送るか、
その違いを見分け、本物の愛を感じられるように、心を訓練していかなければなりません。
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