第2章 愛は与えて無限に溢れる



欲しいと思っている人からは逃げていく愛だから


 砂漠に浮かぶ蜃気楼のように、追えども追えども到達できない。
 愛して欲しい、愛が欲しいと願う人が愛されず、特に願いもしない人が愛される。この
皮肉な現象は、私たちの身の回りには多く見うけられます。それでも諦めきれず、見果て
ぬ夢を追い続ける人。どうせ真実の愛なんてないんだからと、うそぶく人。
 愛は、私たちの心に大きな喜びを与えてくれますが、その愛を常に心に宿している人は
数えるほどしかいません。ほとんどの人が愛を失い、傷つき、挫折して不幸になっていま
す。
 どうも、愛にはそれを欲している人には得られず、むしろ逃げ去ってしまうという傾向
があるようです。
 愛は相手の幸福を願う祈りにも似た心があり、相手にも自分にも心の満足を与えます。
黙って忍耐し、喜んで犠牲になり、悲しみや苦しみを和らげ、生きる喜びを与え希望を抱
かせ、人間らしく生きようと努力するようになります。
 ノーベル平和賞を受けたマザーテレサは、インドの貧民窟で、あと数時間の生命という
人たちを介抱しながら、「あなたも望まれてこの世に生まれてきたのですよ」と語り続け
ています。
 インドの大都市カルカッタは、農村から流れ込んできた大量の貧民で3百万人以上にも
なり、1日に何人もの人が路上で亡くなっていると言われています。その貧しさは、将来
乞食をやる時に有利なように、子供が生まれるとすぐ、片手や片足を切り落としてしまう
というほどのものです。
 人間にとって最大の不幸とは、病気になることや貧乏になることではありません。むし
ろそのことによって見捨てられ、誰からも必要とされなくなることと言えるでしょう。
 親や兄弟からも見捨てられ、人間としての価値を一度も尊ばれたことのなかった貧民た
ちは、マザーテレサの言葉と愛の奉仕に触れ、安らかな顔になって息を引き取っていくの
でした。彼らは、この宇宙のどこかに確かに存在し、人類の幸福を願い、祈っている愛の
究極存在の姿を感じたに違いありません。

異性間に流れる情の引力は愛とは別のもの


 愛は親の愛に通じるものであり、男女間に感じるものとは根本的に違っています。
 男性と女性は、磁石のS極とN極のように、それだけで引き合う性質を持っています。
男性にとって一番気になる存在は女性であり、女性にとっても一番気になる存在が男性で
す。心が引き寄せられ、情が流れ出してしまうのです。
 これはむしろ、時と場合と相手をわきまえながらコントロールしなければならないもの
であり、「相手を大切にすること」という愛の定義から考えてみるなら、愛とは根本的に
違うものと言えるでしょう。

 男女間に流れるこの引力は、初めは希望や喜びを与えますが、やがて不安と嫉妬に変わ
り、最後には絶望と深い孤独感に至ることが多いのです。時には自殺や心中、家出、離婚
といった問題にもなりかねません。古今東西のあらゆる文学がこの問題に取り組んできま
したが、根本的な解答を与えることができませんでした。
 作家の遠藤周作氏は、愛と区別するためにこの男女間に流れる引力のことを「熱情」と
呼んでいます。
 この熱情は、かつてドナウ河を渡る船人たちが対岸の美しい乙女に見とれている間に、
急流にのみ込まれて沈没してしまったというローレライの伝説のように、多くの青年男女
の人生を狂わせ破滅に追い込む原因となっています。
 非常に魅力的であり、他のすべてのことが価値のないものに思え、相手とその熱情を手
に入れることしか考えられなくなってしまいます。まさに熱病そのもので、相手のことを
よく知っている第三者から見るなら、なぜそんなに恋いこがれているのか理解できないと
いうことになります。
 この場合、愛しているのは実は、自分の心の中にある理想の異性像であり、その熱情の
中にあって興奮状態にある自分を喜んでいるというのが、正確なところではないでしょう
か。

愛しているのは、現実の相手に投影した理想像


 若者は、誰もが理想的な異性像を夢みており、自分が描くその像にほぼ一致するような
人に出会うと、相手がその理想的人物であると思い込んでしまうようになります。
 しかしそれは、ずっと以前から自分の心の中で愛し続けていた異性像であって、相手の
人格をよく知って愛しているのではありません。これはいわゆる一目ぼれの状態ですが、
時間の経過とともに実際の相手の姿が分かってきて失望し、愛情が失われていくようにな
ります。
 誰もが心の奥底に理想の異性像を温めています。それは家庭環境や精神的影響圏の中で
時間をかけて作りあげられたものであり、愛情の欲求や様々な願望が複雑に織り成されて
います。
 特に影響を受けるのが父親と母親から、どのような愛情を受けて育ったかということで
す。このバランスが崩れている人や愛されなかったという欲求不満を持っている人は、父
親像や母親像を強く異性に求めるようになり、円満な愛情関係を結びにくくなってしまい
ます。
 親で満たされなかった愛を異性に強く求めるか、または極度に嫌うかになってしまうの
です。
 不思議なことに、強く求め合う男女の出会いは、お互いの家庭環境の中で愛されなかっ
たという愛の恨みをもっている場合が多く、激しく燃え上がりすぐに冷めてしまいます。
 これに対して、両親の愛を十分に受けて育ってきた男女の出会いは、激しく燃え上がる
ことこそないかもしれませんが、暖かく平和で充実した愛の世界を築き上げていくことが
可能です。
 大切にされ愛されたことのある人間は、同じように他人をも愛することができるからで
す。思春期になり、誰もが経験する異性への強いあこがれ、熱情に動かされることはあっ
ても、両親の姿を通して本当の愛とは何かを知っていますから、道を踏みはずすことはま
ずありません。

自分の情的欠陥を補い、人を愛せる人間になろう


 恋という熱情にとらわれると「彼」「彼女」こそ自分が捜し求めてきた人であり、この
時を逃したら二度と会うことができないと思い込んでしまいます。しかし、本物の愛を得
たいと望んでいるあなたなら、これは幻想を見せられているのだと気づくはずです。
 ですから、恋人や結婚相手を捜そうとあせる必要はありません。生涯の伴侶となる人と
の出会いは、あなたに最もふさわしい時に、不思議な偶然性によって与えられることが多
いのです。

 結局、一番大切なことは自分の心の中の情的欠陥を補い、他人を愛せる自分になること
です。心の中に様々な恨みやしこりがあり、自分で自分を愛せないのに、どうして特定の
異性を愛せるでしょうか。

愛は真実の関係を結ぶ時、両者に発生する最高の力


 愛されたいという思いは誰の心の根底にもあります。そしてそれは本来、家庭において
父母から愛されて十分に満たされていなければならない欲求なのです。しかし、完全無欠
な両親の愛情を十分に受けて育ったという人はほとんどありません。
マルチン.ブーバーという思想家は、「我」と「汝」という関係を結ぶ時、そこに愛が生
じてくると語っています。
 つまり、愛というものは自分と他との間に真実の関係を結んだ時、その二人の間に生じ
る豊かな情的「力」であり、すべての人々に喜びと幸福を与え得る根本的な「力」となる
のです。この愛のパワーの中に包まれると、心の傷の一つ一つが癒され、何の思い煩いも
なくなってしまいます。この愛の力は、他に与えても尽きることなく、むしろ与えれば与
えるほど多く溢れ出てくるようになります。
 したがって、本物の愛を得る方法は、自分を愛して欲しいと欲求し、訴えることではな
く、他人を優先して愛し、与え尽くす生き方に切り替えることにあります。
 アッシジの聖フランシスの平和の祈りは、そのことを私たちに教えています。


 主よ、あなたの平和を人びとにもたらす道具として、わたしをお使いください。
 憎しみのあるところに愛を、不当な扱いのあるところにはゆるしを、
 分裂のあるところには一致を、疑惑のあるところには信仰を、
 誤っているところには真理を、絶望のあるところには希望を、
 くらやみのあるところには光を、
 悲しみのあるところには喜びをもっていくことができますように。
 慰められることを求めるよりは慰めることを、
 理解されることよりは理解することを、
 愛されることよりは愛することを求める心をお与えください。
 わたしたちは自分に死ぬことによって自分を見いだし、
 自分自身に死ぬことによって永遠のいのちをいただくのですから。
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