第28章 救いとは


 この章は「救い」についてです。今まで、「神の愛」、「罪」について学んで
きました。一方的に「神の愛」を受け、「罪」を知り、「救い」を受けるという
のが、順序なのです。

 聖酒を受け、祝福を受けて「あなたの過去の罪はすべて清算されました。あなた
の罪は許されました」と言われても、なかなか許されたという実感は持てないもの
です。ここで「救い」について、学んでみましょう。

 まず、私たちはご父母様を通して、神様は私たちの親であり、常に私たちを見守り、
異邦人でさえ救おうとされておられる、愛の存在であることを知りました。誰もが、
神様から与えられたかけがえの無い価値を持っています。

 ご父母様の言葉、行動、父である神様を思う思い。その一つひとつを学ぶことに
より、私たちも、神様が自分にとっての父であると感じられてきます。自分の実際
の親に求めながらも、親からは得られず、なんとなく違うと感じていたのは、実は
本当の親が神様であり、神様を求めていたのだとわかるようになります。聖霊が、
背後から私たちの心に、神様の愛の思いを注いでくださり、引き上げてくださる母
のような役割をします。

「神様の愛」は過去学んだように、愛されたいと待っているよりも、人のために何
かしよう、愛そう、許そう、理解してあげようとすると、自分の心の中に、どっと
溢れてくることがわかります。愛の実践なくして、神様は実感できないのです。

 そして神様の愛の中で、それまでの自分の人生がいかに親の思いからかけ離れた、
罪深いものだったかがわかってきます。

 「盗み」「万引」「堕落性」「情欲の思い」のたぐいではなく、神様を知らずに
生きていたこと自体が、どれほど神様の悲しみであり、苦しみであったかがわかっ
てきます。本当の意味での、罪の自覚ですね。そして、そういう人類の罪を許すた
めに、あえて苦難の道を選んだご父母様。そしてそれを見つめておられる神様です。

 二千年前のことを考えてみましょう。父である神様が、一番親孝行なイエス様を
犠牲にしても、神様を忘れ、神様を否定する人類の救いの道を選ばれたという、恐
るべき神様の愛が迫ってきます。

「神はそのひとり子を賜(たまわ)ったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
ヨハネによる福音書三章十六節

 私たちは、イエス様以上の価値ある、充実した生きかたをしているのでしょうか?
もちろん、とんでもない生きかたをしているわけですよね。でも、神様はそれほどま
でに、私たちの可能性を信じ、期待し、愛してくださっているのです。

 イエス様のみ言葉と十字架の犠牲を通じて、私たちを救おうとされている神様の愛
を知ることができます。しかし、これは台風の海の中で、救命浮き輪につかまってい
る状態のようなもので、完全な救いではありません。ですからキリスト教徒も信仰生
活でのさまざまな悩みをかかえることになってしまいます。

 罪の許しについて、多くの教会員がその本質をわかっていません。祝福を受けても、
救われた実感がない、許された実感がないという人が多いのです。

 罪は、人間の側に感じられるものではなく、親である神様の心に突き刺さっている
鋭い釘であり、神様の恨みなのです。最大の痛みはアダムとエバの堕落の時です。

 エバは神様にとっては最愛の娘であり、最愛の花嫁でした。その最愛の娘の、晴れ
の結婚の日を楽しみにしていたのに、ルーシェルに裏切られ、エバはルーシェルと関
係を結び、すべての理想が崩れさってしまったのです。神様は目の前が真っ暗になり、
希望もない辛い日々となりました。どうしていいかわからず、神様は誰に相談するこ
ともできず、泣きたい思いです。

 エバから子供が生まれましたが、その子供が無邪気で可愛いほど、神様は辛いので
す。「可愛いね」と素直に喜べないのです。
 抱きしめてあげられないのです。子供の顔を見る時、あの忌まわしい堕落が思い出
され、「あれさえなかったら。時間が戻って欲しい。あの堕落を無かったことにした
い。」という思いになるのです。

 最初の罪、原罪により、親である神様の心の痛みと恨みが残り、それで神様と人間
の距離が生まれたのです。
 エデンを追われたアダムとエバは、自分たちが追われた悲しみで泣いていましたが、
罪の痛みを感じていたわけではありませんでした。

 罪人は罪を感じず、認識できないのです。「堕落を無かったことにしたい」という
神様は、カインとアベル、エソウとヤコブ、ペレスとゼラと摂理を進め、生まれたの
に生まれなかったことにして、堕落が無かったことにしました。ここで罪のない救い
主が地上に生まれる基準が立ったのです。

 救い主は、人類を救うために、まず神様の人類への心の恨(うら)みを解放してあげ
なければなりません。ご自分の真心で「あなたはこんなふうに辛かったのですね、苦
しかったのですね」と、人間の中で初めて神様を慰める祈りをしたのです。そして
「この者は私と同じ志をもってあなたのために働こうとする者ですから、アダムとエバ
の堕落の時に感じた痛みを忘れてください、許してやってください」と、とりなしの
祈りをし、許しの条件として、聖酒式や祝福をしてくださるのです。

 こうして、神様がそのわずかな条件で、許してくださるということなのです。以後、
神様が素直に私たちを愛することができるようになります。そして私たちは、少しずつ
神様を心に感じることができるようになります。

 神様が親であるからこそ、ご自分が受けた原罪の痛みと苦しみを、救世主の立てた
条件ゆえに許してくださったのです。このことをよく理解しておく必要があります。