劣等感だらけの青春時代


 自分の可能性や価値が、まだよく分からない青春時代には、劣等感が大きな課題となっ
て若者たちの心に重くのしかかっているのではないでしょうか。
 自分の容姿に始まって、学力、才能、親の職業、家庭の経済から言葉のなまりまで、恋
の悩みとともに、自分の悩みもまた大きいものです。
 人間には比較能力がありますから、どうしても他人と比較して、「自分はなんて駄目な
んだろう」と思い込んでしまうのが我々の現状ですが、この劣等感も考え方一つで自己再
創造の大きな力となることができます。
 どうせ生きるなら、明るく楽しく積極的に生きるほうが得であり、どうしたら積極的肯
定的人生を送れるか、かつてあらゆる悩みの中にどっぷり浸っていた私が開発した、酒井
正樹流の劣等感克服方法をご紹介したいと思います。

他人との比較をやめ、宇宙の絶対的価値との間で自己の価値を再発見しよう


 ここで少し観点を変えて、劣等感ということで日本人とアメリカ人との意識の違いを比
較してみましょう。
 日本社会は同族社会ですから、人と同じように生きなければならないという不文律があ
り、常に他人の目を気にした生き方をするようになっています。
 これに対して、あらゆる人種の移民によって建国されたアメリカは、そもそも人間とは
違うものであるということが大前提となっていますから、他人と比較して自分もそうでな
ければならないというような発想は絶対しません。むしろ、自分はこういうところが人と
違いますと個性を主張し、自分は楽器が弾ける、絵がかけると積極的に自己アピールしま
すから、謙譲を美徳とする日本人からすれば鼻持ちならないくらいです。
 日本の社会の構造も、幼稚園から大学、一流企業とかなりワンパターンであり、狭い島
国の中で、いつでも交換できる型にはまった歯車のような人間を育てようとしており、劣
等感もその中で大きな役割を果たしているとさえ言えるかもしれません。
 日本人の国際化が求められている現在、同じ顔をした日本人になる必要はなく、むしろ
アメリカ人のように、人間は違うものであるという前提に立って、もっとおおらかに伸び
伸びと生きていきたいものです。
 映画「007」の中に、よく無表情の不気味な中国人が出てきますが、これこそ世界か
ら見た日本人の顔であり、オリンピックで兵隊のように行進する日本選手団は、不可解で
不気味な集団そのものです。
 劣等感が国際問題にまで発展してしまいましたが、要は我々日本人は人の目を気にしす
ぎるということです。他人が自分をどう見るかということは相対的なことにすぎず、宇宙
の絶対的価値の前にどこまで自分の真価を発揮しているかということのほうが、重要であ
るという認識に立たなければなりません。
 個性や才能は天分と呼ばれるように、その人の誕生の時に、天ないしは神と呼ばれる存
在から与えられているものであり、その本来の価値をどれだけ発揮しているかが、その人
の価値となります。
 「玉みがかざれば光なし」という言葉があるように、どんなに才能が与えられているか
もよく分からないため、どうしても焦って他人と比較し、劣等感に強くとらわれてしまい
がちです。しかし、ここまで説明してくると「自分は駄目な人間だ」ではなく、「どうし
たら自分の本来の価値が分かり、天分として与えられた才能を発揮できるようになれるだ
ろうか」という問題であることに気づいていただけることと思います。
 他人との比較能力は、人の立派な姿を見て、未完成な自分を早く完成させたいという刺
激になるように与えられているのであり、自分を卑下し駄目にするためにあるものではあ
りません。
 人間が正しく生きよう、本来の自分の姿に帰ろうとすると、決まってそれを妨害しよう
とする思いが心に働きかけてきます。
「そのとおりだけどできっこないさ」
「よせよせ、おまえはそんな人間じゃないぞ」
「どうせ三日坊主で終わってしまうんだから」
「おまえは何をやっても駄目な人間さ」
「笑われるにきまっているぞ」
 この思いは宗教的には、魔とかサタンと呼ばれる存在の力ですが、確実に存在し、しか
も人の心に強く働きかけてきます。この存在のために歴史上のあらゆる善意が水泡に帰し、
それらの努力が報いられずに今日の世界となっているのです。
 あなどってはいけません。しかし、恐れる必要もありません。この思いにうち勝つ秘訣
は、決して相対しないことです。そのとおりだと思っても、最終的に自分を駄目にさせ、
社会を後退させるものですから、同意してはいけません。


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