総論(問題提起) 第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第6章 第7章 第8章 第9章 第10章 第11章 第12章 第13章 あとがき |
第1 魏志倭人伝に残された数多くの問題
「今,使訳の通ずる所三十国なり」の「今」 「倭」や「日本国」の成立の源(みなもと)を語るとき,邪馬台国から始めるのが常識のようである。 しかし,肝心の魏志倭人伝冒頭にこうある。 「漢の時に朝見する者有り。今,使訳の通ずる所三十国なり」(倭国伝・中国正史に描かれた日本・講談社学術文庫,93頁,以下同様)。 その「今」は,もちろん陳寿が魏志倭人伝を書いた「今」だ。のちに詳しく検討するが,西晋の285年頃である。 漢の時には,わずか1国しか使訳を通じて朝見する者がなかったが,285年の「今」は30のクニグニが使訳を通じているというのである。邪馬台国が使訳を代表しているわけではない。これを「使節が往来している」(105頁)と読んで,使節が通過していたかのように読むのはおかしいだろう。 この一文は,魏志倭人伝が成立した西晋の285年頃には,「倭」の30のクニグニが王をもち,それぞれ独自に通交していた,すなわち独自外交をしていたという意味ではなかろうか。
その西晋の285年頃の「倭」の王たちは,男子だった。 「其の国,本(もと)亦(ま)た男子を以って王と為す」(101頁)。 「本(もと)亦(ま)た」の解釈が問題となっているが,これは魏志倭人伝編纂者にとっての「本(もと)亦(ま)た」である。 「本(もと)」は,昔はという意味。「倭国王帥升」のことだ。 ノンフィクションである魏志倭人伝が成立した「今」という時間設定がわかっていれば,その「今」を基準にして「亦(ま)た」と書いていることがよくわかる。
これに対し「なんとなく通説」は,「其の余の旁国」まできちんと数えて30国とし(93頁,他に岩波文庫版などの注釈も同様),「三国時代の魏との通交のこと」(鳥越憲三郎「倭人・倭国伝全釈」中央公論新社,42頁)とするから,邪馬台国の時代に使訳の通ずる所30国とするようである。 しかし私にはそう読めない。 「使訳」は,「通訳つきの使者」(93頁)であるから,外交団である。 そもそも,卑弥呼を「共立」して倭王となし,帯方郡の公孫氏や魏との外交を卑弥呼1人に任せているのに,なぜ「今,使訳の通ずる所三十国なり」なのだろうか。
こうなると,魏志倭人伝をもう一度読み直さなければならなくなる。 「女王国自(よ)り以北は,其の戸数・道里,略載することを得べけれど,其の余の旁国は遠く絶(はな)れて,詳らかにすることを得べからず」(95頁)。 「其の余の旁国」まで含めれば確かに30にはなるが,遠絶ゆえ詳細不明で国名しかわからない「其の余の旁国」まで自由に外交を行っていたというのはおかしい。 それどころか,「其の余の旁国」は,邪馬台国が知らないうちに勝手に独自外交を行っていたことになり,「邪馬台国の支配」や「盟主邪馬台国」や「倭王卑弥呼」や「倭国の成立」など,どこにもなかったことになりはしないか。 そんなことよりも,中国人にさえ遠絶ゆえ詳細不明で国名しかわからなかった「其の余の旁国」を含めた30国が,じつは中国と独自外交を行っていたなんて,あり得ない話である。
「王」の解釈1つにしても,魏志倭人伝を読めばすぐわかるとおり,王がいたのは伊都国と狗奴国と「親魏倭王卑弥呼」だけである。邪馬台国は,「女王の都する所」でしかない。 これは,邪馬台国王卑弥呼が「倭国大乱」を勝ち抜いた王かどうかという点に関わっている。 勝ち抜いた王であれば「共立」される必要はない。自分で倭王位につき「盟主邪馬台国王」「倭王卑弥呼」を名乗るだけである。 魏志倭人伝は,なぜわざわざ「共立」と書いているのだろうか。 邪馬台国は,鬼道をよくする「一女子」が都としたクニでしかない。魏志倭人伝は,それを「女王国」と言っているだけではないのか。 そこらへんの解釈も考え直さなければならなくなる。
そもそも卑弥呼は,「倭国大乱」の末に「共立」された。乱の原因は交易の支配だと言われている 黄巾の乱に端を発した後漢末の韓半島を含めた混乱の中,204年に公孫康が帯方郡を設置して韓とワイを討伐し,交易路が安定したために卑弥呼が「共立」されたのではないか。 卑弥呼の「共立」は,「倭」の支配を争った倭人たちの主体的・自主的な選択ではなく,中国と韓半島情勢の都合にすぎないのではないか。 卑弥呼「共立」は,後漢末の混乱で生じた交易を巡る戦いが,204年の帯方郡設置で矛先を収めた結果にすぎない。だとしたら,卑弥呼は戦いに勝ち抜いた王ではない。 卑弥呼が邪馬台国王として「倭国大乱」を戦い抜いたのであれば,なぜ「一女子」としか書かないのか。
だから,交易を巡る倭人の野心は,「卑弥呼共立体制」の地底でマグマのようにくすぶり続けていたのではないか。「いつかオレこそが」という倭人が何人いたことか。 卑弥呼が死ぬやたちまち男王が立ったが,国中が服せず「更に相誅殺」して「当時千余人を殺す」(105頁)というのは,西晋の285年頃の「今」から考えても凄惨な戦争だったということではないのか。 男たちのとどまるところない野心は,想像してあまりある。 つまり「倭国大乱」のあとの卑弥呼「共立」は,オレこそが権力を握るという歴史を中断させ停滞させた事件ではなかったか。 日本の戦国時代では,とことん戦い抜いて徳川家康が勝ち残り,幕藩体制を築いて「徳川の平和」を実現した。しかし邪馬台国時代の「倭」は,中途半端な「共立」で成立した,「つかの間の平和」でしかなかったのではないか。
中国からすれば,そんな「倭」の内情など知ったこっちゃない。「共立」に至った理由や経緯など関係ない。交易先の「土人」によれば王がいると言っているから,それを信じるだけだ。 もしかしたら,公孫氏の指導で卑弥呼が「共立」されたのかもしれない。魏の使者はそれを知らない。 交易目的の中国側から見れば,「倭」という地域の代表者を決めてほしいに決まっている。 だから,「代表者を決めてくれ」。 こうして「倭」という地域の人々は戦いをやめて,交易の代表者を卑弥呼に託した。卑弥呼を「共立」したクニグニは,独自外交を行ったのではなく,交易目的のために戦いをやめて,代表者を決めた。 それが「共立」の経済的意味ではないか。 そして卑弥呼は,その後「親魏倭王卑弥呼」にめでたく就任した。 「共立」という国内関係は,魏ではなく帯方郡時代での関係だ。その意味をどうとらえるのか。
「共立」だから,「倭国大乱」を勝ち抜いた勝者はいない。卑弥呼は勝ち抜いた王ではない。 もし勝ち抜いていれば,自分で倭王を名乗ればいいだけのことだ。勝ち抜いた王はいないし,かといって戦ってきた敵の王を選ぶわけにはいかない。戦いの相手を選んでも,壱与の前の男王のようになるのがオチだ。 だから戦いとは関係ない,権力にも関係ない「一女子」にすぎない卑弥呼を,倭王として「共立」したのではないか。 卑弥呼は「親魏倭王卑弥呼」であり,邪馬台国の王だったとはどこにも書いていない。「漢委奴国王」からすれば,卑弥呼は「親魏倭邪馬台国王」と呼ばれなければ筋が通らない。(親)魏の倭の邪馬台国王だ。 ところが「邪馬台国」はすっ飛ばして,単なる「親魏倭王」である。そこに「卑弥呼」という個人名を付け加えるのも異例だ。どうも,邪馬台国より卑弥呼という個人に重点があったようである。 卑弥呼と邪馬台国との関係がなくなれば,卑弥呼の権力はなくなる。クニを持たない個人に信頼した「共立」ということになりそうだ。 だから「共立」の意味を考え直さなければならなくなる。
となると,「倭国大乱」によって,それまでのクニグニの体制にそれほど変化がなかったことにならないか。クニグニが渋々矛先を収めて,代表者を決めただけのことではないのか。 時代は違うが,日本の戦国時代のように戦いを勝ち抜くことによる体制の変革はなかったわけだ。 西晋の285年の「今」になってやっと30のクニグニが独立し,その王が中国との独自外交を展開できているのだから,邪馬台国時代に「倭国の成立」を考えるのは間違っているのではなかろうか。 むしろ,西晋の285年の30のクニグニの分立体制を起点として,そこから倭国の成立を論ずべきではなかろうか。 204年の帯方郡設置,動乱の収束,卑弥呼「共立」からすれば,邪馬台国とは何の関係もない,鬼道に仕えて人気のある「一女子」卑弥呼を倭王にいただき,邪馬台国を都にした「だけ」と考える方が,筋が通っているのではなかろうか。 なぜ誰も,「邪馬台国の女王卑弥呼を共立した」ではなく「一女子」としか書いていないことに疑問を呈さないのだろうか。
このような歴史認識が正しいとすると,邪馬台国時代の「倭」は,「漢委奴国王」や倭国王帥升以降,1つのクニへのまとまりを順調に歩んでいた一場面ではなく,勝ち抜いた王がいない「停滞の時代」にすぎなかったのではなかろうか。 上り階段の踊り場の時代ではなかったか。 その停滞を,卑弥呼の死後,壱与の擁立によって2度までも繰り返した時代ではなかろうか。 公孫氏による帯方郡の設置という韓半島の都合によって,歴史の歩みを止められた時代。韓半島の都合によって,権力を握ろうとする力が押さえつけられていた時代ではないのか。 それが卑弥呼「共立」の社会ではなかったか。 クニグニの有力者は,はけ口のないまま鬱積していた。だから卑弥呼が死ぬや,たちまち1人の男王が立ったが国中服せずとなったのではなかろうか。 煮えたぎる「倭国大乱」を卑弥呼「共立」という上蓋によって閉じこめたが,壱与もまた,2枚目の上蓋だったのではあるまいか。 卑弥呼時代の「倭」は,歴史の歩みを止められた「つかの間の権力均衡」「つかの間の平和」の時代にすぎなかったのではなかろうか。
となると,卑弥呼は本当に最高権力者だったのだろうか。 勝ち抜いた王がいない「卑弥呼共立体制」に,卑弥呼が権力を行使した実態はあるのか。中国の皇帝とは違い,「姿を見せない王」「見えない王」にそのような権力があったのか。 そもそも,鬼道だけで権威を保てるものだろうか。畿内ヤマトまで支配する「倭国」を成立させたと人が言う卑弥呼に,いったい,いかなる鬼道があったのか。 畿内ヤマトまでの全倭人が納得できる鬼道。倭人は「国邑」に分かれて生活しているのに,「国邑」を越えて畿内ヤマトまで通用する普遍性のある鬼道が3世紀の「倭」にあったのだろうか。 その後の日本書紀・古事記の神話でさえ,各地の神々が地祇として登場するではないか。地祇の神々以前は全国共通の自然信仰だから,九州でも畿内ヤマトでも通用したというのだろうか。 九州から畿内ヤマトまで共通した「鬼道」。その内容を実証した「なんとなく通説」はあるのだろうか。 ところで景初2年=238年の政治史で「親魏倭王卑弥呼」は華々しいが,その後難升米に黄幢が与えられたように読めるのはなぜだろうか。そうした読み方は間違いなのだろうか。
西晋の285年の「今」いた30人の王たちは,交易のために「共立」されて便宜上「倭」の代表者となった卑弥呼とは,その本質がまったく異なるだろう。 ここには,交易国家と領域国家という,「国」のあり方の問題がある。もちろん,生産力の問題もからんでくる。 「なんとなく通説」は,285年ころの「倭」の状況を,邪馬台国時代に持ち込んでいないだろうか。 「今,使訳の通ずる所三十国なり」の解釈は,こうした疑問に行き着く。いくつもの論点が互いに絡み合い,歴史認識への疑問までふくらんでいく。
疑問を後押しするのは,「今」の解釈だけではない。 九州説であれ畿内説であれ,それは当面どちらでもいい。 とにかく遠絶ゆえ詳細不明な「其の余の旁国」は,言ってみれば倭人にとっての「異界」ではないか。国名以外,何もわかっていないではないか。 「女王国の東,海を渡りて千余里」の「倭種」のクニグニも「異界」ではないか。 考えてみれば狗邪韓国〜対馬国と同じ1000余里にすぎないのだが,3世紀の「倭」の東は,わずか1000余里でも「侏儒国」「裸国・黒歯国」と並ぶ異界だったのではなかろうか。 ましてや,「倭種」のクニグニと同列に書いてある「侏儒国」「裸国・黒歯国」(101頁)は,3世紀当時の倭人にとって,明らかに「異界」である。 となると,中国人がとらえた倭人が住むクニグニは,「女王国自(よ)り以北」だけになるのではないか。 それは重要な交易ルートであり,それだけである。魏志倭人伝が描く3世紀の「倭」はそれだけであり,それ以外は「異界」だったということになりはしないか。 これは,3世紀当時の「倭」という世界が,「国邑」=拠点集落を数珠つなぎにした交易ルートの世界にすぎず,面としての支配に踏み出していない交易国家であったことを意味しないか。 点と線。しかも交易のチェーンのうちの,韓半島に一番近い西端を描いただけではないのか。 そして西晋の485年の「今」でさえ,面としての支配をする領域国家の時代に踏み出していなかったのではないか。 「中国人が認識した3世紀の『倭』」「魏志倭人伝が描いた『倭』」「邪馬台国時代の『倭』」は,じつは,主要交易ルート上にある拠点集落を描いただけの,ちっぽけな地域にすぎなかったのではなかろうか。
これに関連して,1つ指摘しておきたい。 「侏儒国」「裸国・黒歯国」の存在を証明しようとした人もいるが,魏志倭人伝が描く3世紀の「倭」という広がりは,人工衛星から見た「倭」ではない。魏志倭人伝は,あくまでも「中国人が認識した3世紀の倭」の記録にすぎないからだ。 だから,「詳密日本地図」を広げてみたり,考古学者が言う武器や土器や墓の変遷を考えてみても,魏志倭人伝から読み取れる3世紀の「倭」は見えてこない。 人工衛星から3世紀の「倭」を見れば,もちろん倭人は畿内ヤマトどころか東日本にも広がっていたことだろう。「倭種」というのは中国人の偏見かもしれないが,もしかしたら,まだ血が混じり合っていない,そうした民族的状況だったのかもしれない。 考古学はそれを明らかにしようとする「客観的な科学」だが,文献学は,中国人の「倭」認識という主観を明らかにしようとする「客観的な科学」である。 「中国人が認識した3世紀の『倭』」を追究しないで,もはや魏志倭人伝は議論され尽くしたから考古学に期待するというのは,いかがなものであろうか。
このように考えてくると,奴国 → 倭国王帥升 → 邪馬台国 → 謎の4世紀を経て「倭の五王」という,なんとなく一直線に考えてきた日本古代史を考え直さなければならない。 「国」について厳密にいえば,邪馬台国時代の「倭」は,まだ「国邑」(93頁),すなわち拠点集落の集合体でしかない。 この段階で支配を巡る戦争が起こったとしても,それは,他人の土地やそれを耕す人々を支配しようとする戦争ではない。だから,「人を支配する体制」がどこまでできていたのか。 「交易国家における支配」のあり方を,一度考え直さなければならないだろう。 それはともかく「漢委奴国王」は,漢によって奴国王と認められただけであり,その実態は拠点集落にすぎない。ましてや「倭国王」ではない。そもそも邪馬台国時代には奴国に王がいるとされていないから,衰微したのかも知れない。 その後の倭国王帥升については,「倭国王」の実態が史料上不明である。 そして邪馬台国時代の王は,伊都国王,狗奴国王,そして邪馬台国王だったかどうかわからない「親魏倭王卑弥呼」の3人だけである。邪馬台国は,「女王の都する所」でしかない。 魏志倭人伝には「女王国」という言葉がしきりに出てくるが,必ずしも女王が統治していた倭国という意味として使われていない。「女王の都する所」すなわち邪馬台国という意味で使われている場合がほとんどである。 そして,西晋の285年頃の「今」になってやっと,「使訳の通ずる所三十国」である。つまり,「共立」した王に委任するのではなく自らが外交の主体となる「国」が30あったのである。 とすると,倭国王帥升も「女王国」の卑弥呼も,本当に「倭」と呼ばれる地域を支配する王だったのかという問題が出てくる。 これは,歴史の逆行だったのであろうか。 「なんとなく通説」は,「国」の成立が早すぎるのではないか。 285年頃いた30のクニグニの王たちが1人の王を育て上げていく母体になった。それはまだ交易国家にすぎなかった。領域国家の体裁を整えるのは「倭の五王」を待たなければならない。となるのではなかろうか。 3世紀の邪馬台国時代を経て一直線に「倭国」が育っていったという「なんとなく通説」とは異なる日本古代史があるのではなかろうか。
卑弥呼は正始8年=247年頃に死んでいる。それから約40年。「卑弥呼共立体制」はとっくに終わり,西晋の285年頃には,30のクニグニに王が育って独自外交を行っていたことになる。 そしてこの「今」,邪馬台国が存続しているとは書かれていない。30のクニグニのうちの1国が邪馬台国であれば言及してもいいのに,なにも書かれていない。 中国人は,邪馬台国に興味がないのだ。それは,彼らが接した「倭」にある1つのクニにすぎなかった。邪馬台国を中心に話を進めるのは,中国に認めてもらったことを喜んでいる日本人だけではなかろうか。 だから,むしろ285年頃までには「邪馬台国は消滅したらしい」と考えるのが無難な文献解釈ではなかろうか。 泰始2年=266年の遣使も,「倭人,来たりて方物を献ず」(晋書武帝紀)とあるだけで,それを邪馬台国の使節だとか壱与だとか言うのは,文献学者として勇気のいることではなかろうか。 後漢書倭伝以降の中国文献に邪馬台国が出てくるが,それらは,基本的に魏志倭人伝の「漫然引用」でしかない。 それに気付いて倭国伝と日本国伝とを並立させたのが旧唐書であり,完全解決には新唐書を待たなければならなかった(これについては「天語人版・倭国伝を読む」参照)。
陳寿は,西晋朝における「今,使訳の通ずる所三十国なり」を語ってから,「(帯方)郡従り倭に至るには」と書き起こして,過去の「倭」を語り始める。 魏志倭人伝を含む三国志は,西晋の時代に書かれた同時代史であるから信用できると言われている。 285年頃すでに邪馬台国が消滅していたのであれば,邪馬台国を軸にして「倭国」や「日本国」の成立を論ずるのはおかしいことになる。 日本古代史全体を見直さなければならないはずだ。
邪馬台国や卑弥呼を軸にして,「倭国」や「日本国」の成立や消長を語るのが,本当に正しいのか。 たとえば邪馬台国は九州にあったが,それとは別に畿内ヤマトに政権が育っていたという可能性もあり得る。 日本書紀神功皇后摂政39年以下が中国史書を引いて,神功皇后が卑弥呼だったかのように書いている。 彼らは,自分たちが「倭」であると思っていたが,先祖に「卑弥呼」という言葉を見いだせなかったのだ。 これは,邪馬台国が発展して大和朝廷になったことを,日本書紀編纂者自身が知らなかったことを示している。
日本書紀の解釈の問題はある。 魏志倭人伝に限って言えば,問題は邪馬台国や卑弥呼にあるのではなく,「中国人が認識した3世紀の倭という地域」の解明である。「邪馬台国時代の倭」または「魏志倭人伝が描いた倭」と言ってもいい。 「邪馬台国は消滅したのか」という表題や問題提起さえ,私には「ずれている」と感じる。邪馬台国は,3世紀にあった「女王国自り以北」の1つでしかなく,しかも「女王の都する所」でしかなかったからだ。 女王ないし王が変われば,王都も変わっていたかもしれない。 邪馬台国の女王卑弥呼が「倭国大乱」を勝ち抜いて「倭国」を支配し,魏との輝かしい外交を展開したという「いわゆる邪馬台国史観」は,そろそろ根本的に見直すべきではなかろうか。
以上の,私が提起した「今」の解釈は横に置いておこう。285年の「今」からさかのぼって,40年以上前の邪馬台国時代に眼を移そう。 そもそも「倭」という地域は,狗邪韓国から始まる「女王国自り以北」(95頁)のクニグニと,「其の余の旁国」から構成されている。東の海の彼方には倭種がいて,裸国や黒歯国もある。 これが,人工衛星から見た3世紀の「倭」の鳥瞰図だ。 中国人がどこまでを3世紀の「倭」と認識していたか。「倭人」や「倭種」が実際に住む広がりと,中国人が認識した3世紀の「倭」とは明らかにずれているが,とにかく邪馬台国は,中国人が認識した範囲内の3世紀の「倭」という地域のクニグニの1国にすぎない しかも,仮に卑弥呼が邪馬台国の女王だったとしても,壱与がどうだったかはわかっていない。「宗女」という文言だけから論者が推測しているだけである。 卑弥呼が邪馬台国とは関係のない,鬼道をよくする「一女子」だったのであれば,その鬼道をよくする家系の「宗女」という解釈だってあり得る。 邪馬台国は,「倭」という地域の1国にすぎないのである。
となると,当たり前の話だが,私が提起した「今」の解釈とは関係なく,魏志倭人伝に描かれた「倭」の統治機構の解明が大切だと気付く。 その基本的な読み解きを,「なんとなく通説」はやってきたのだろうか。解明の結果,邪馬台国が「盟主」だという結論に至ったのだろうか。 「いわゆる邪馬台国史観」のもとで,どれだけ解明されてきたのだろうか。「いわゆる邪馬台国論争」のなかで,「卑弥呼共立体制」「一大率」「大倭」「官と副」という統治機構がどれだけ議論されてきたのだろうか。 私の狭い個人的経験を言えば,邪馬台国に興味をもってから読んだ本では,上記した統治機構はもはや議論されていない。「統属」を当然の前提として,邪馬台国の所在だけを議論している。
ここでは問題提起にとどめておくが,たとえば,卑弥呼ないし邪馬台国が一大率を任命してクニグニを検察し,「倭国」を支配していたという「なんとなく通説」がある。 しかし,一大率による検察は「女王国自り以北」に及んでいるにすぎない。それは,狗邪韓国から邪馬台国に至る重要な交易ルートそのものだ。 その交易ルートからはずれた,女王国より「南」と「其の余の旁国」と東1000余里の「倭種」と侏儒国,裸国・黒歯国は,一大率の検察を受けていない。ちなみに西は海しかないから,魏志倭人伝は決して触れない。 それをどう考えるのか。 3世紀の「倭」全体ではなく,交易路だけをしっかり検察した一大率は,誰の指令で動いていたのか。
これについては「統属」の問題が重層している。 魏と通交している30のクニグニ全部が邪馬台国に統属していたという「なんとなく通説」がある。すべて統属していたのに,なぜ伊都国だけ「統属」と書かれているのかという転倒した問題提起さえある。 じつは「倭」のクニグニ全部が邪馬台国に統属していたのではない。伊都国に「世(よよ)王有り。皆,女王国に統属す」(94頁)でしかない。 統属していたのは交易の中心地であり「津に臨みて捜露」(100頁)という臨検を行っていた伊都国だけである。これ以外の他のクニグニは,「其の余の旁国」も含めて,すべて,邪馬台国に統属していない。 ならば,邪馬台国が任命したという「なんとなく通説」の一大率は,何をやっていたのか。邪馬台国に統属していない諸国は,なぜ一大率を恐れていたのか。 その「検察」は,「統属」とバッティングしているのではないか。 邪馬台国による支配=統属は,伊都国だけ。 ここには明らかに「二重権力構造」がある。
「なんとなく通説」は,「統属」と一大率による「検察」とのバッティングを指摘して議論し,解明しているのだろうか。 「倭」の国内的権力関係として邪馬台国に「統属」しているのは伊都国だけ。 対外的権力関係というのは,もちろん帯方郡や中国のことだ。 これをどう考えるのか。 「倭」の30のクニグニ全部が邪馬台国に統属していたとする「なんとなく通説」は,遠絶ゆえ詳細不明なはずの「其の余の旁国」を数えているという,その出発点からしておかしくはないか。 遠絶ゆえ詳細不明で,国名しかわかっていないクニグニが,邪馬台国に統属できるはずがないではないか。 「なんとなく通説」は,「統属」の前後にある魏志倭人伝の「叙述と文言」を,きちんと読んでいるのか。 「二重権力構造」は解明されているのだろうか。
さて,「其の余の旁国」に話を戻すと,これは遠絶のため国名以外は詳細不明のクニグニである。倭人から情報を聴取したはずの中国人でさえ,国名を羅列することしかできなかった。 支配−統属の関係が考えられないことはもとより,「倭国大乱」に参加して「倭」の支配を争ったとも思えない。たとえ「お岩」という名前が付いていても,幽霊と戦うわけにはいかないからだ。 魏志倭人伝に描かれている倭人の風習だって,「其の余の旁国」や東1000余里の「倭種」のクニグニはまったく参考にされていないのではないか。魏志倭人伝編纂者自身が,情報がないと言っているからだ。 ならば,ここに描かれた風習は,「女王国自り以北」と,せいぜい狗奴国を加えた情報にすぎないことになる。 「倭国大乱」により邪馬台国が勝ち抜いて,人工衛星から見える客観的な3世紀の「倭」全部の支配を強めたとか,107年の倭国王帥升の時代からさらに歴史が進歩したとかいう「なんとなく通説」は,本当に正しいのだろうか。
「倭国大乱」はともかく,邪馬台国時代の「倭」という地域で確かなクニとして存在したのは,狗邪韓国〜邪馬台国の「女王国自り以北」のクニグニと,敵対する狗奴国だけである。 「其の余の旁国」は国名がわかるだけで詳細不明のクニグニにすぎない。中国との通交なんて,もってのほか。中国人自身が遠絶ゆえ詳細不明と明言している。もちろん,「倭」という地域内で邪馬台国との通交さえなかったのである。 それをどう考えるのか。 私の疑問は,もはやぐるぐる巡り始めている。 それは,上記してきた論点が,それぞれ密接に絡み合っているからだ。
第2 中国人の「倭」認識を考える(考古学との関係)
魏志倭人伝の主役は邪馬台国ではない さて,言いたいことから書き出してしまったが,この論文では,「いわゆる邪馬台国論争」で取り上げられるベタな議論はしない。 すべて自分の頭で考えて作り上げる。 有名な「邪馬台国への里程問題」は,本当は書きたくなかった。それは魏志倭人伝問題のほんの一部であり,魏志倭人伝を読んで,中国人がとらえた「倭」認識を探る方が重要だからだ。邪馬台国の位置は,そこから自然に浮かび上がってくる。 というより,「邪馬台国への里程問題」を論点として取り上げること自体が,魏志倭人伝を真面目に読むことや「倭」の成り立ちを考えることから「はずれていく」と考える。 魏志倭人伝の主役は邪馬台国ではない。ましてやその所在など,ごく一部の論点にすぎない。邪馬台国は,3世紀の一時期にたまたま脚光を浴びて歴史に名を残したクニにすぎず,主役は,あくまでも3世紀の「倭」という地域である。
私が提起した疑問を解決するためには,結局,魏志倭人伝の「叙述と文言」に戻ってくるしかない。 今まで,あまりにも多くの人が,考古学を始めとしたあまりにも多くの知識を投入してしまったがため,魏志倭人伝を巡る議論は極端に偏り,しかもゆがんでいる。 日本神話を論じた「日本書紀を読んで古事記神話を笑う」も,旧唐書・新唐書問題を論じた「天語人版・倭国伝を読む」も,「叙述と文言」に徹底してこだわった。 日本神話や旧唐書・新唐書問題と同様,「なんとなく通説」は一度忘れて頭をリセットして,自分の頭で考え直してみた方がいい。 私は,普通の人が無前提の常識と思っている根本的なところをあぶり出し,批判し,新たな解釈を試みるつもりだ。
となると,最近の邪馬台国論者が尊重する「考古学的成果」をどう位置づけるかという問題が出てくるので,ここでまとめて述べておきたい。 たとえば長野県から伽耶の鉄剣が出てくると,北九州から長野までの交易ルートを想定し,長野までの大きな社会体制を考えなければならない(大塚初重「邪馬台国をとらえなおす」講談社現代新書,113頁)というのが,考古学者のみならず魏志倭人伝研究者一般の理解のようである。 土器も武器も鏡も,すべてこの発想である。 しかし,交易の当事者は,通常,その相手方しか見ていない。自分が売った(物々交換した)モノがどこまでたどり着くか,誰が使っているかなど考えない。それができるのは近代以降の我々だけだ。 というより,現代の商社でさえそれはわかっていない。大商社は商流をすべて把握して差配し勝者になるが,それがわからないのが普通の取引である。 交易のチェーンのさきっちょまで確認しないと魏志倭人伝が描く「倭」が考えられないというのは問題だ。 だから魏志倭人伝には限界がある。その限界の中に邪馬台国があるのではなかろうか。どうしても邪馬台国の所在にこだわりたいのなら,その限界を知ればいいだけのことではなかろうか。
要するに,「人工衛星から見た3世紀の『倭』」と,「魏志倭人伝に描かれた『倭』」とは別問題なのである。 その「ずれ」を前者や考古学で無理矢理修正しようとすると,魏志倭人伝の読み方をゆがめることになる。もちろん参考にはなるが,大切なのは魏志倭人伝という中国人が認識した3世紀の「倭」であり,その主観性をそっくりそのまま「客観的に」読み取らなければならない。 また統治機構については,基本的には考古学ではわからない。 ここに,文献学独自の存在意義がある。
だからこの論文は,基本的に考古学的成果を考慮しない(少々読んではいる)。「詳密日本地図」も使わない。「日本書紀を読んで古事記神話を笑う」や「天語人版・倭国伝を読む」同様,文献にしがみつき,文献から出てくるものの整合性を考え,それを(とりあえず)信用する。 文献解釈から出てくる結論と考古学とはまったく別であり,まず文献解釈による骨格を作ってから考古学との調整を考えるべきだと考える。 だからこの論文は,魏志倭人伝の「叙述と文言」に特化している。
「考古学を考えなければ,もはや邪馬台国を論じられない」という意見があるのはわかる。 たとえば白石太一郎は,倭国成立の問題は北九州の地域的な問題ではなくより広域に考えるべきだと主張し,その根拠として以下のように述べる。 「2世紀前後には,玄界灘沿岸を中心とする北部九州以外でも,山陰地方,吉備地方といった範囲で,小さなクニグニが連合した地域的な小国連合がいくつも成立していたと考えるからです」(白石太一郎「考古学と古代史のあいだ」ちくま学芸文庫,59頁)。 考古学者として当たり前の主張である。反論のしようもない。 魏志倭人伝が描いている「倭」とは別に,そのような政治的動きがあっても何らおかしくはない。 魏志倭人伝を読み解く目的は,中国人が3世紀の「倭」という地域をどうとらえていたのか,その眼にクニグニがどのように映ったのか,という点にある。
邪馬台国所在論争に余念がない人々は,どうも,「魏志倭人伝が描く3世紀の『倭』」を考えないで,「人工衛星から見た3世紀の『倭』」を統一的に考えようとしているようだ。 しかし,邪馬台国が北九州にあったとしても,それとは別に畿内ヤマトに政権が育っていて一向におかしくない。 仮に魏志倭人伝に九州のことしか書いていなかったとしても,畿内ヤマトに倭種がいなかったとは書いていない。いや,ちゃんと東方に倭種がいると書いてある。 極論すれば,魏志倭人伝における邪馬台国が九州にあって,それとは別に畿内ヤマトに,それに匹敵する国があってもいいわけである。 中国人の知見がそこまで及んでいなかったというだけのことであるから,魏志倭人伝を読む時にむりやり畿内ヤマトにまで広げて考える必要はないし,それはかえって解釈をゆがめることになる。
中国人は,3世紀の「倭」を面的に占領しようとしたのではない。 陣地の取り合いという意味では,中国人は中国大陸ですでにそれを成し遂げている。そのうえで周辺国に対しては,たとえば楽浪郡など4郡を設置して交易による収益を上げて,皇帝の財政を豊かにすればよいと考えていた。 要するにしぼり取るということだ。それが辺境の経営である。 西域のシルクロードを考えればそれはよくわかる。彼らは,西戎のクニグニを否定しなかった。ただ,交易の監督官を置いて,軍事支配した。 だから,交易における「倭」の代表者を決めて,その当事国を相手にすればいい。それ以上「倭」に干渉するのは財政の無駄遣いであり,人的資源1つ考えても意味のない余計なことである。 中国人は,「倭」と交易をしに来たのであって,畿内ヤマトや東国や,本州全体の「倭」,すなわち「人工衛星から見た3世紀の『倭』」を探索しに来たのではない。
さらに言えば,交易の当事者の向こうにどんな国があるか,どんな文化が栄えているかは,交易が破壊されない限りどうでもいいことである。 それは,交易相手である「親魏倭王卑弥呼」が都する邪馬台国までの里程を詳細に記述するくせに,「女王国自り以北は,其の戸数・道里,略載することを得べけれど,其の余の旁国は遠く絶(はな)れて,詳らかにすることを得べからず」(95頁)として,国名だけ羅列して終わらせる魏志倭人伝編纂者の叙述態度からも,明らかである。 探索すれば容易にわかったかもしれないのである。 邪馬台国などが国内で相手にした交易の相手方にも,同じ考え方が当てはまる。交易の相手方の先,交易チェーンの端っこにどこの誰がいるかは関係ないし知ろうともしない。 それが魏志倭人伝の世界だ。 東の方には倭種がいて,侏儒国,裸国・黒歯国があるという書き方でしかない。 要するに,中国人にとって,狗邪韓国に始まる交易ルートだけが重要なのである。
だからまず,魏志倭人伝を通して,中国人の3世紀の「倭」認識を確定しておく必要がある。 それは,考古学が対象とする「人工衛星から見た3世紀の日本列島」とは違う。 「魏志倭人伝が描いた3世紀の倭」を探ることにこそ,文献学の独自性と真骨頂がある。その中に邪馬台国があるのだから,中国人の認識を探ることが「いわゆる邪馬台国論争」に決着をつけることにもなる。
魏志倭人伝が畿内ヤマトまでの「倭」を描いていて,畿内ヤマトに邪馬台国があると主張しているのであれば,現段階の考古学的成果とよく調和するのであろう。 魏志倭人伝が九州中心の「倭」を記述していて,九州にあるクニとして邪馬台国を描いているのであれば,次の作業として,畿内ヤマトで発達したクニとの関係を考えればいいだけのことである。 その時,邪馬台国の存続にこだわるのであれば,東遷を考えざるを得ないだろう。 邪馬台国が九州の場で消滅したと考えるならば,1つの勢力が衰えて畿内ヤマトの勢力が出てきたという,世界史上どこにでもある話になるだけのことである。
最後に学者さんの説を紹介しておこう。 邪馬台国畿内説に傾いている吉村武彦でさえも,根拠は示さないがヤマト王権の誕生は4世紀前半と想定したうえで,「3世紀半ばの邪馬台国とヤマト王権との直接的関係はない」と断言している(吉村武彦「ヤマト王権」岩波新書,52頁以下)。 これは,今話題の纏向遺跡を検討したうえでの結論だ。
テキストは,「倭国伝・中国正史に描かれた日本」・講談社学術文庫(2010年9月13日第1刷発行)である。 以下,特に断りのないかぎり,ページ数は,上記テキストのそれである。 なお,邪馬台国の表記だが,テキストは「邪馬壱国」と表記して「壱は台の誤り」とし,「やまとこく」と読ませている(95頁)。 これについては古田武彦の問題提起がある。文献表記の問題はわかるが,「邪馬壱国」の「壱」が納得できない。それを論ずることがこの論文の趣旨ではないので,注意書きにとどめておく。
第3 魏志倭人伝の文章構造
さて,各論に入る前に,魏志倭人伝の文章構造をまとめておこう。私は,単純かつ明快な文章構造があると考えている。 1 倭人は帯方郡の東南〜国邑を為(つく)る:前文 ・表題は「韓」にならって「倭」ではない 2 郡より倭に至るには〜北岸狗邪韓国に至る七千余里:「倭」を構成するクニグニのカタログの始まり (1)女王国より北のクニグニ ・主要交易ルート上にあり詳細判明 (2)其の余の旁国 ・女王国の西と南にある(東は海の向こう1000余里の倭種) (3)狗奴国 ・卑弥呼に敵対 3 郡より女王国に至るまで万二千余里:クニグニのカタログの締め ・狗邪韓国までの7000余里と差し引き5000里が「倭」という地域 4 男子は大小となく皆黥面文身〜:倭人の習俗記述の開始 ・南国の風俗を書きながら「其の道里を計るに当に会稽・東冶の東に在るべし」と強い推測を入れてみたり(これは中国人の誤解) 5 女王国の東,海を渡りて千余里〜:「異界」を描く ・中国人が認識できない「倭」,すなわち「異界」を描く 6 〜倭の地(理)を参問するに:中国人の「倭」認識のまとめ ・前文→「倭」のクニグニのカタログ→倭人の習俗→「異界」と述べてきた 7 景初2年6月〜:外交記事
魏志倭人伝が各種資料のつぎはぎだらけという指摘があるが,記述自体は一貫しており流れている。
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