第1 方法論の問題 |
古事記駄本説(古事記無価値論) 古事記は日本最古の文献であり,日本神話の古典だとされているようです。本屋さんには,古事記をこう読んだという本が,たくさん並んでいます。しかし,それらを何冊読んでも,何もわかりません。古事記を真面目に読もうとすればするほど,苛立ってきます。 じつは,古事記だけを読んでいても,わかるわけがないのです。そのおおもととなった日本書紀の神話を理解しなければ,いつまでたっても,何もわかりません。たいていの人は古事記しか読んでいませんから,たいていの本は,古事記のあらすじをなぞっただけで終わっています。ちょっと頑張る人は,自分勝手で強引な意味づけをして,古事記はこう読むのだという本を書いています。特に,他の分野でお勉強をたくさんしてしまった人ほど,主観的傾向が強いようです。 わからないならわからないと,はっきり言うべきです。おかしいならおかしいと,はっきり言うべきです。 私は,古事記は駄本であり,日本神話を語る価値がないと考えます。日本神話は,風土記を除けば,ほぼ日本書紀で語り尽くされており,古事記は,日本神話に茶々を入れるだけであると考えます。日本書紀の神話と対等に読むと,日本神話の理解を誤ると考えます。
今まで,なぜ,こんなことに気づかなかったのでしょうか。 @ 彼らは,日本書紀の神話や古事記の神話を,一読者として,1つの物語として読んでいません。読者不在の態度です。自分がお勉強した専門分野から古事記を俯瞰して,あたかもクジラの解体かの如くして,神話の意味をとらえていきます。そんなかけらを食ってみても,旨くも何ともありません。味気ないだけです。日本神話は,学者の一生とメンツをかけた,お勉強の対象だと考えています。もっと,肩の力を抜いてほしいです。読者は,物語としての全体を理解し,味わいたいと思っているのです。 A 戦前に古事記神話が悪用された歴史があるので,叙述と文言を真剣に検討しようとしません。叙述と文言,すなわち日本神話の全体を,そのままススッと受け入れようとしません。自分がお勉強した専門分野から,好き勝手なことを言っています。それが学問だと思っています。 B 真剣に検討しようとする人も,たまにはいます。しかし,矛盾や齟齬があると,神話なんてこんなものサ,ここで創作したのサ,などと平然と言い放ちます。そこで諦めてしまうから,いつまでたっても何もわかりません。そんなんじゃ駄目なんだけどなあ。 C そのくせ,自分の著作で引用したいときには,ちゃっかり引用したりするのです。学者さんが引用すると,一目置きます。でも,民間人が引用しても,見向きもされません。これには,本当に嫌になります。日本神話関係の本など,誰が読むかという気になります。 こんな議論もあります。おまえは日本書紀や古事記の神話をそのまま信じるのか。これは造作ではないか。 ものを考える人たちにとっては,論外中の論外の議論です。 叙述と文言という事実に即して論ずるのが正しいのであって学者さんたちが言っていることは何の根拠もない改変であり推測であり新たなる神話の創作である 推測など,決してしてはいけません。事実こそが問題です。日本神話を考える場合は,文献の叙述と文言という,目の前にある事実に依拠してものを考えるしかないのです。 叙述と文言という事実が目の前にあります。その中で,著作者の叙述意図をくみ取りながら,どこまでものが言えるのか。これ以上行ったらトンデモ本となる境はどこか。そうしたことを考えながら,叙述と文言という事実を読み取るべきなのです。この世界で競うのが,日本神話学という学問のはずです。これを一歩越えると,言いたいことをなんでも言うという,単なる「論」の世界になってしまいます。 これが,日本神話を考える基本的態度なのです。文献の内容をきちんと把握すれば,体系的理解が得られます。 学者さんたちは,そうした努力をしないで,矛盾があれば何かの間違いだと言います。本来の神話はこうだったなどと,推測に推測を重ねて言います。何の実証的根拠もないのに。彼らが実証的根拠と言っているのは,間接的なうえに間接的な,中国の文献とか,その他いろいろです。 民俗や,他国の神話伝承や,中国の文献や,その他いろいろは,日本神話にとって間接的な事実にすぎません。再々再々間接事実でしかない場合も多々あります。 なぜ,こんな簡単なことに誰も気づかないのか。 推測をしたいのならば,日本神話を材料にした,「学者○○版日本神話」という小説を発表すべきなのです。妄想や幻想や,古代社会の経済に取材した小説として。 考古学や神話学や民俗学その他は,極論すれば,叙述と文言を把握した後に勉強すべき問題です。何よりもまず,叙述と文言を通して,日本神話の作者が何を伝えたかったのかを知るべきです。こうして,日本神話の骨格を身につけたうえで,諸学問を学んで修正していけばよいのです。 だってそうでしょう。小説でも論文でもレポートでも上司に提出する報告書でもプレゼンテーションでも,その文章がすべてであり,書かれていないことは無です。だからこそ皆,少なくとも文科系の人たちは,文章に心血を注ぎます。
たとえば小説家は,一字一句に心血を注ぎ,削って削って文章を作っていきます。言葉も選び抜きます。読者は,その文章から,小説家が言いたかったことを読み取るわけです。 ところが日本神話の学者さんたちは,おおよそ1300年もたってから,後付けの言い訳を,日本神話作者の「身に即して」いろいろ考える。これにはこうした神話的意味がある。アジアの神話にこうしたのがある。その影響であろう。出雲神話は製鉄に関係している。出雲神話は,巫覡の徒が全国に広めた。うんぬんかんぬん,うんぬんかんぬん。 私には理解できません。そんな本を何度読んでも,腑に落ちません。それどころか,ほとんどトンデモ本の世界のような気がしてきます。頭が痛くなります。日本神話作者としては,とんでもなく迷惑でしょうね。 少なくとも日本書紀は,律令国家黎明期の一流の官僚が作成した文書です。最先端の文明国,中国の文献を身につけ,その世界を理解し,詩文なども作っていたような人たちです。学者や官僚という概念を越えた,文化人です。 後付けの言い訳を考えるよりも,文献を,直接,とことん読み込むことが大切です。
じつは,1300年たってから後付けの言い訳を考えるくらいなら,まだましなのです。 ひどい人になると,高天原神話(そんなもの古事記の話であって,日本書紀の神話として本当にあるのかどうかが,そもそも問題ですが。それはいいです。)に出雲神話や日向神話をくっつけた意味がわからないなどと,平気で公言します。結構有名な,昔の学者さんです。そこから,本来の神話はこうだったと,「推測」を始めてしまいます。 現に目の前に文献として存在する日本書紀や古事記を「添削」して,本来の日本神話を再現するなんて,私には,狂気の沙汰としか思えません。現に目の前にある文献を,詳細に検討すればいいじゃありませんか。現に目の前にある文献に匹敵する,直接的な証拠があるのならば,私も納得しますが。 じつは,こうした態度が学者の態度,学問だと錯覚している人が多いのです。 ちょっと待ってください。古事記はともかく,少なくとも日本書紀は,当代一流の官僚が作った公文書です。わけもわからず出雲神話や日向神話をくっつけたはずがありません。彼らは,必要だからこそ,出雲神話や日向神話をくっつけたのです。それを真摯に受け止めて,その理由を追究するのが学者さんではありませんか。学問的態度ではありませんか。 おかしいと言って突き放す心の底には,神話なんてしょせんこんなものさ,という蔑視もあるのかな。 少なくとも,日本神話に対する謙虚さはありません。そんなことでは,決して,日本神話がわかりません。
読者自身の態度にも,問題があります。自分でものを考えていないということです。 日本神話を理解するためには,学識が必要だなどと思っています。学者さんたちを無視できていません。だから,自分の著書の最後に,いろいろ雑多な参考図書を羅列する。私は,こんな本を読んでいますよ。片寄らず,全部網羅してるでしょ。その結果,この結論に達した。だから,私が言っていることには権威があるでしょ。 私は,笑ってしまいます。 知識や情報の面では,学者さんたちに勝てるわけがありません。仕事と家庭がある身の上なのに,年がら年中,一生かけて日本神話を考えている専門家と張り合おうなんて。
学者さんも読者も,同じ間違いを犯しているのです。 叙述と文言の軽視。 現に眼の前に,文献として存在する日本書紀や古事記。これこそが,直接的かつ客観的な資料です。誰がなんと言おうとも,叙述と文言をねじ曲げることはできません。考古学や神話学やその他いろいろを考えるのは,個人の自由です。しかしそれは,どう料理しようとも,間接的です。 これを,きちんととらえ直さなければなりません。 文献の叙述と文言という土俵のうえでは,学者さんも,一読者も,私も,まったく同じ立場です。テキストは目の前にあります。本屋さんですぐ手に入ります。その叙述と文言をどう考えて,日本神話の体系をいかにつかまえて,その中で細部をどのように考えるか。他の部分と読み合わせて,整合性ある把握の仕方はどこにあるのか。 学者さんも,一読者も,私も,見て考えている対象は同じです。日本書紀と古事記。これをどう料理するかが問題です。ですから,学者さんの権威など無視して,同じ平面で争えるし,争わなければなりません。叙述と文言を軽視している学者さんたちと,簡単に格闘できます。 いや違う。日本書紀や古事記にも「版」というのがあって,うんぬんかんぬん,うんぬんかんぬん。そう言う人は,学者さんと対等に,ためを張って議論すればよい。人生,すり減るでしょうが。 あなたは,机の上にごちゃごちゃと本を並べていませんか。頭の中がごちゃごちゃになっていませんか。
玄人学者の見解など,愚の骨頂。単なる参考程度と思ってください。そんなものはさっぱり忘れて,自分の頭で納得のいく解決を考えてください。学者さんの説は,よく咀嚼してみると,見落としがわかるくらいです。そこから逆に,自分の考えを広げていけるくらいです。 本当に,そんなもんです。日本神話論の世界は,そんな程度なのです。 学者さんの日本神話論は,それぞれお勉強した観点からなんとでも言える神話論です。「論」の段階に留まっています。論争の「論」です。 いまだかつて,パラダイムや体系がない世界なのです。ですから,それぞれ言いたいことを言って,いつまでたっても拡散しているだけの世界です。いまだに学問になっていません。 津田左右吉という,偉い学者さんがいました。しかし,日本神話の文献をそのまま受け入れる人ではありませんでした。時代的制約もあったでしょう。ですから,日本神話の体系がわからないのはもちろん,細部の解釈にも,何の役にもたちません。 ですから,学説に惑わされてはいけません。そんなことはほっといて,とにかく謙虚に,丹念に,叙述と文言を拾って拾って,物語としての日本神話を読むべきです。そうした地道な作業をするべきです。こんな作業,どこの学者さんがやってくれたでしょうか。だれでも,1人の物語読者にすぎません。その立場を徹底して,日本神話を読み込むべきなのです。 古事記伝を著した,かの有名な本居宣長が,いかにこりこりに凝り固まった精神の持ち主だったか。その結果,いかに日本神話を歪曲したか。一読者として,謙虚に古事記を読まなかった人間は,歴史を偽造するのです。
日本書紀の神話をきちんと読みもせず,コンパクトで手軽な古事記だけを読んで日本神話を語るという態度など,論外です。 古事記の方が成立が古いのだと,文句を言う人もいるでしょう。 成立年代を一応信ずるならば,2つの書物は,同時代の書物なのです。古事記の方が古いなどという大雑把なとらえ方では,議論が発展しません。
日本神話を論ずるあなたは,何を根拠に,口かど泡を飛ばして主張するのか。古事記ですか。日本書紀ですか。日本書紀の本文ですか。それとも第3の一書ですか。古事記であれば,それに矛盾する日本書紀の本文や一書は,なぜ無視するのですか。 あなたは,この問いかけに答えたうえで日本神話を考えてきましたか。 要するに,日本書紀本文,異伝である一書,そして古事記を,それぞれ独立した伝承として,分析的に読まなければなりません。まかり間違っても,日本書紀と古事記をごっちゃにして,全体的観察をしてはいけません。「記紀神話」によれば,という語り口を許す頭では,いつまでたっても日本神話が理解できません。古事記の方が古いと言い張る人に限って,分析的思考ができず,「記紀神話」によればという全体的思考に陥るようです。 日本書紀の本文と,異伝である一書。そして古事記。これらを分けて考える思考を,「分析的思考(ないし観察ないし把握)」と命名します。ごっちゃにして考える思考を,「全体的思考(ないし観察ないし把握)」と命名します。いわゆる「記紀神話」によれば,という語り口は,全体的思考です。
ひとまず,私の方法論から俯瞰した日本書紀,古事記の神話にお付き合いください。俯瞰と言いましたが,むしろ,叙述と文言という地べたに,汗を垂らして,はいつくばるような読み方です。 原則を羅列するとしたら,以下のとおりです。 1 余計なお勉強はしない。人の頭を信用せず,自分の頭で考え抜く。 要するに,日本書紀と古事記という文献を,文献として尊重し,とりあえずそれを受け入れて,何が言いたかったのかをとことん考え抜くということです。
日本書紀の神話と古事記の神話との関係について,ひとこと言っておきましょう。 日本書紀は,我が国最初の官撰の歴史書です。神話の部分が歴史とは言いませんが,神武天皇以下の歴史叙述の頭に置かれています。 日本書紀には,そうした客観性があります。そして本文は,日本書紀編纂者が採用した,神話の公権的公定解釈です。これ以上の権威は,国家的にはもちろん,民間にもありませんでした。 これに対し古事記は,ある1人の古事記ライターが作成したものにすぎません。古事記ライターの癖は,古事記の文章のいたるところに残されています。その癖を把握すれば,古事記の価値が評価できます。古事記の価値は,古事記ライターの文章作成能力や誠実性に,大きく寄りかかっています。ともすれば主観に偏りがちな書物です。
いろいろ抽象論を述べてきました。異論のある人には本文を読んでもらうべきところですが,ここで,具体的な問題提起をしましょう。まず,これを考えてください。 従来あまり指摘されていないようですが,たとえば日本書紀によれば,「神武東征」は「天孫降臨」の「179万2470年」後に行われます(神武即位前紀)。 でも,「179万2470年」後なんて,私は笑っちゃいます。要するに,「神武東征」と「天孫降臨」とは,因果関係がまったくなかったということです。風が吹けば桶屋が儲かるという意味での,因果関係さえありません。なぜ179万2460年じゃないのか。なぜ,きりのいいところで100万年じゃないのか。 これを,自分の頭で,よーーっく噛みしめてください。
優秀で頭の切れる日本書紀編纂者は,神話をまとめてはみたけれど,神武天皇以下が「天孫降臨」後の子孫だなんて,これっぱかしも信じちゃいません。現実社会の政争を身をもって経験してきた優秀な律令官僚たちは,天皇が神だなんて,鼻っから信じていませんでした。 逆に言えば,神代とそれ以後を別に章立てて,明確に区別する日本書紀では,神武天皇以下は神ではなく実在の人間,あるいは伝承上実在したと信じられていた人間として描いているということなのです。 「179万2470年」という一片の文言は,神話の話はおいといて,ここから現実の話が始まるという,日本書紀編纂者の気持ちの表れというしかありません。 日本書紀の,「179万2470年」という一片の文言から,これだけのことがわかります。こうして物事をどんどん腑分けしていって,いろいろ考えるのが,科学というものではないでしょうか。 ところが古事記には,「179万2470年」という文言はありません。大真面目に,天孫降臨とその後の神武天皇を論じています。
古事記が成ったのは712年。日本書紀が成ったのは720年。一国家の大事業であれば,8年の違いなど考慮に値しません。2つの書物は,同時代の書物なのです。 現代の我々は,いったいこれをどう受け止めたらよいのか。 律令国家は律令制と氏族制の二重構造であり,律令制を代表するのは太政官−国司の体制であり,官僚制の原理であるのに対し,氏族制を体現するのは郡司であり,神話と血縁系譜を紐帯としていた,という見解があります(吉田孝「日本の誕生」136頁,岩波書店)。 こうした問題意識をもつのも,理解の手助けになります。
私は,日本書紀の神話という土俵の中で,古事記神話と遊んでみました。かなりいろいろな発見があって,楽しくて仕方がありませんでした。 とにかく,日々の通勤電車の中で,場合によっては読み下し文の1,2行を毎日ぼんやりと考えているような読み方をすればよいのです。時間はたっぷりあります。片道1時間の通勤時間は,至福の時間です。机に座って,参考資料をたくさん並べて悦に入っていてはいけません。物語読者であることを放棄した学者さんたちに翻弄されるだけです。 神話ゆかりの地を訪ねるなど,時間の無駄です。愚の骨頂です。そんなことで真実に迫れるのであれば,世話ありません。若いうちからそんなことをやって,人生を浪費してはいけません。それは老後の楽しみにとっておいて,その前に頭を絞り,知恵を絞り,やるべきことが山ほどあります。 なお,テキストとしては,岩波文庫版日本書紀と古事記を基本に(電車の中で立って読めます),小学館の新編日本古典文学全集版日本書紀,古事記を参照しました。 学者さんの説として登場するのは,主に,これらの注釈書によっています。特に,岩波文庫版日本書紀の注や補注は,大変参考になりました。日本神話は初めての私にも,神話論の土俵がどこにあるかがわかりました。ちょっと内容が古いかもしれませんが。 学者さんの説に乗っかって,あれは駄目,これも駄目,だからこうという,自分自身が存在しないしょうもない議論は,していません。人の頭は借りていません。まったく無視しています。 引用した読み下し文は,岩波文庫版によっています。神名などの表記は,統一していません。日本書紀を論ずるときは日本書紀の表記によっています。
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