第5 国生みのあとの神生み

 

人間,自然,神に対する日本書紀と古事記の態度

 さて,古事記です。国生みを終えた伊邪那岐命と伊邪那美命は,続けて神生みを行います。しかも延々と生み続けます。読んでいて辟易するくらい生み続けます。

 なぜ延々と神々を生むのでしょうか。国土の次は,国土の上の自然じゃないか。人間ではないか。それはどうなった。神話を読もうと意気込む読者としては,当然そうした期待があるわけです。

 しかし古事記ライターは,人間なんて無視して,熱心に,神々の生成を説明します。明らかに,神々中心の世界観を世に残したかったに違いありません。国土の上には,人間よりも何よりも,まず神々がいるというのです。古事記ライターは,そうした世界観をもっています。
 ところで日本書紀本文も一書も,人間の発生については沈黙しています。その点では,神話としての資格があるか疑問です。

 しかし日本書紀本文の構想は,古事記とは明らかに違います。
 たとえば,国生みに続く叙述は以下のとおりです。「次に海を生む。次に川を生む。次に木の祖(おや)句句廼馳(くくのち)を生む。次に草の祖草野姫(かやのひめ)を生む」。こうして,「吾(われ)已(すで)に大八洲国及び山川草木を生めり。何(いかに)ぞ天の下の主者(きみたるもの)を生まざらむ。」と宣言して,天照大神ら3神を生む場面に行ってしまいます。
 神生みとも言うべきくだりはありません。日本書紀編纂者は,神生みには関心がありません。山川草木と伝承上の自然神を,ちょこっと並べてみましたというだけのようです。

 要するに,古事記ライターは,国生み(大八洲国という地理的な国土)+神生みにより,初めて葦原中国が完成すると考えています。その葦原中国を平定して,人間社会としての国を作るのは,大国主神(大己貴神)です。人間の登場は,大国主神を待たねばなりません。これに対し日本書紀編纂者は,国生み(大八洲国という国土)だけで葦原中国が完成すると考えています。だからこそ,神生みをすっ飛ばして,天照大神ら3神が生まれてくるのです。

 これをどう受け取るべきなのか。古事記には,古代の素朴な信仰がそのまま残っていると取るのでしょうか。それとも,神をも信じない日本書紀編纂者と同時代の書物として,神の復権を目指して作られた,復古調の書物なのでしょうか。見解が分かれるところです。


神生みに異常に熱心な古事記

 神生みに対する古事記ライターの執着は,尋常ではありません。ここで古事記が嫌いになる人も,たくさんいるのではないでしょうか。その概要をまとめると,以下のとおりです。

@ 国生みに続いて行われる神生み。
A そこで生まれた迦具土神に伊邪那美命が焼かれて生成する神。
B 伊邪那岐命が迦具土神を殺して生ずる神。
C 黄泉国から逃走する際に生まれる神。
D 伊邪那岐命が禊ぎをする際に生ずる神。

 神生みは,伊邪那美命の死(Bの部分)によっても中断されません。それは,夫である伊邪那岐命に受け継がれます。

 黄泉国まで伊邪那美命を追ってきた伊邪那岐命は,「愛しき我が汝妹(なにも)の命,吾と汝と作れる國,未だ作り竟(お)へず。故,還るべし。」と言います。伊邪那美神は,きちんと国を生んだあとで死んだのでした。国土にいる神,火の神を生んでいる最中に死んだのでした。してみると,「吾と汝と作れる國,未だ作り竟(お)へず。」というのは,神々がいる国ということです。古事記ライターは,文字どおり,「神国日本」を考えているのです。神生みが終わっていないから国が完成していないと言いたいのです。
 そしてその最後に,神々しい天照大御神が生まれてくる。そうした構想なのです。だからこそ伊邪那岐命は,「吾は子を生み生みて,生みの終(はて)に三はしらの貴き子を得つ。」と言って,喜ぶのです。

 だから,古事記ライターの気持ちをしっかり捕まえるならば,「神国日本」の最高神天照大御神が生まれてきたことを,ありがたがらなければならないのです。

 この過程で生まれてくる神々は,決して,支配神がいる高天原の神ではありません。自然神や,水門の神や食物の神や土の神など,とにかく現実に生きている人間の周囲にいる神々なのです。人間は全然まったく登場しないくせに,人間の周りにいる神々だけが登場するのです。そして,Dの神生みの最後の最後に,神々しい天照大御神が生まれてくるのです。

 どうです。古事記ライターの執念が,少しずつわかってきませんか。

 古事記は古事記で,きちんとした構成があるようです。この点,古事記ライターはたいしたものだ。しかし私には,君たちの周りにはこんな神々がいるんだよ,その一番偉い神様が天照大御神なのだよ,と説教されているような気がいたします。これほど熱心に説明されると,神々の解説書のような気がいたします。神話の世界から遠のいてしまった人たちに向けた,解説書のような気がいたします。

 少なくとも,天照大御神に対する信仰が確立してから,神々を整理しましたという書物だと言えるでしょう。


学者さんの説を笑う

 叙述と文言をしっかり読むということを理解していただくために,ある学者さんの説を批判しておきましょう。

 ある学者さんは,神生みは伊邪那美神の死で中途半端なまま終わってしまうと言っています。そして,伊邪那岐命が国作りを完成することもなく,未完のまま終わると言います。その未完の国作りは,大国主神によって果たされると言います。その全体に,古事記冒頭で高天原にいるとされた,高御産巣日神の「産霊」の思想が関与していると言います。国作りは,そうした産霊の思想に裏付けられた,古事記全体のテーマだと言いたいようです。

 要するに,「愛しき我が汝妹(なにも)の命,吾と汝と作れる國,未だ作り竟(お)へず。故,還るべし。」という伊邪那岐命の言葉,叙述と文言をどう考えるかということに尽きます。「吾と汝と作れる國,未だ作り竟(お)へず」という文言を無視してよいのかという問題です。国生みの次に,間髪をおかず延々と神生みを語り続ける古事記の構成をどう考えるかという問題です。天つ神による修理固成の命令は,大国主神にも及ぶのかという疑問も生まれます。

 大国主神が「始めて國を作りたまひき」と叙述されている,その意味を考えることにもなります。ここでやっと,国生みが完成するのでしょうか。

 私の考えは,大国主神の国作りは,人間社会作りであるというものです。いわゆる国生みとは関係がありません。
 大国主神は,速須佐之男命の「生太刀」と「生弓矢」を使って,「八十神」を征伐して,「始めて國を作りたまひき」とされるのです。ここにいう「國」は,もはや自然的存在や神々がいる場所としての国土ではありません。戦争をして人を殺す人間と,その人間がいつき祭る神々がいる,人間社会そのものです。人間を制圧して,「始めて國を作りたまひき」となったからこそ,その直後に高志國の沼河比賣への夜這いの話が続いて語られるのです。

 まさに,現実に生きている人間の物語です。それはまさに,大国主神の王朝物語です。それが証拠に,大国主神の物語は,大国主神の神裔,すなわち子孫を語ることで終わります。修理固成の命令に基づいた国生みと神生みとは,もはや何の関係もありません。

 あとは,読者各自で考えてみてください。


「この漂へる国」を修理固成する命令なのになぜ高天原の神が生まれるのか

 細かいことを言います。

 古事記ライターは整理したつもりなのでしょうが,なぜ天つ神が生まれてくるのか,私にはわかりません。たとえば「天之水分神」と「国之水分神」。「天之久比奢母智神」と「国之久比奢母智神」。「天之狹土神」と「国之狹土神」。「天之狹霧神」と「国之狹霧神」。「天之闇戸神」と「国之闇戸神」。

 これらは天と地を対比させたつもりなのでしょう。しかし,「この漂へる国を修め理り(つくり)固め成せ」というのが修理固成の命令だったはずです。だからこそ,天降って,淤能碁呂島(おのごろしま)で神生みをしているのです。ならばなぜ,「天」の神を生むのでしょうか。「漂へる国」を統括する地の神,国つ神だけを生めばよいのではないでしょうか。

 そもそも,「国之狹土神」は,日本書紀本文によれば,混沌とした中で生まれてきた国常立尊に続いて生まれた神です。そうした原初的な神なのです。古事記では,なぜか,ここでやっと生まれてくるのです。
 さらに,「天鳥船(あめのとりふね)」や「大宜都比賣神(おおげつひめのかみ)」も,高天原の神です。「天鳥船」は,国譲りという名の侵略の際,建御雷神に添えて派遣される神です。「大宜都比賣神」は,速須佐之男命が追放される際,高天原で五穀を作り出す神です。「この漂へる国」の修理固成に,何の関係があるのでしょうか。

 私には,さっぱりわかりません。


大宜都比賣神は死んだり生き返ったりする

 さて,生まれてくる神々をひとつひとつ説明することはできません。ここでは,大宜都比賣神(おおげつひめのかみ)だけ取り上げましょう。

 大宜都比賣神は,食物の神です。話は飛びますが,速須佐之男命が高天原を追放されて出雲に降る途中,この大宜都比賣神(大気都比賣神と表記)に食物を乞います。大宜都比賣神は,鼻,口,尻から食物を出します。汚いと言って怒った速須佐之男命は,大宜都比賣神を殺してしまいます。その死体の各部から,五穀と蚕が生成します。ちょっと変な話ですが,要するに,五穀と蚕の起源を語っているのです。

 それはよいのですが,じつはこの大宜都比賣神,死んでいなかったのです。速須佐之男命の子孫大国主神は,国を作ります。その子孫も栄えます。大年神(おおとしのかみ)の子孫に,羽山戸神(はやまどのかみ)というのがいます。この神は,大宜都比賣神(表記は大気都比賣神)と結婚して子供をもうけるのです。

 普通の人であれば誰でもおかしいと思うはずです。ですが,日本最古の古典がそんな馬鹿な誤りを犯すはずがないと思っていますから,誰も変だと思わないのです。何かの間違いだろうで片づけてしまうのです。

 私は,こうしたところに,古事記ライターの,ライターとしての資質がはっきりと表れていると思います。古事記は,この程度の書物なのです。日本最古の古典であり,大変なことが書いてあると思ってはいけません。


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