第6 火の神迦具土神殺し

 

古事記は異伝である

 神生みのA以下に入りましょう。

 じつは,A以下の神生みは,日本書紀第5段第6の一書とほとんど同じです。火の神迦具土神が生まれ,伊邪那美命が焼かれて神去(かむさ)ります。こうして,伊邪那岐命の黄泉国訪問と禊ぎによる天照大神ら3神の生成に話が発展していきます。この間,物語の途中で,数々の神が生成してきます。前述した神生みの,AからDです。黄泉国訪問と禊ぎは,国生みの後延々と続く神生みの一環であり,その神生みの最後に,集大成として,天照大神ら3神が生まれてくるという仕掛けになっているのです。「神国日本」というわけです。

 それはともかく,古事記は,日本書紀編纂者が公定解釈として採用しなかった,異伝なのです。本文には採用しませんでした。伊邪那岐命と伊邪那美命といえば黄泉国巡りというほど有名ですが,日本書紀では異伝にすぎません。今後,同様な関係がしばしば出てきますが,古事記は異伝であることを忘れないでください。高天原と高御産巣日神ら3神という古事記冒頭も,異伝にすぎませんでした。

 なぜ日本書紀では異伝扱いなのか。日本書紀を論ずることになりますが,由緒正しい天皇の系譜と神々の系譜を述べるためには,陰陽2元論による神生みが必要だった,無性生殖による神生みでは駄目なのだ,と言うに留めておきましょう。


泣澤女神はどこから来たか

 伊邪那美命を失った伊邪那岐命は,迦具土神と愛する伊邪那美命を交換したようなものだと言って嘆きます。問題はその泣き方です。枕辺に腹這い,足の方に腹這って泣きます。単に泣くのではなく,身体全体にまんべんなく腹這って泣くのです。その涙から,泣澤女神(なきさわめのかみ)が生まれました。

 こうした風習をもった人々は誰でしょうか。

 日本書紀にはこうあります。允恭天皇が亡くなると,新羅国の王が弔いの使いを大和に遣わしました(允恭天皇42年)。その使いは,対馬に泊まっては「大きに哭る(みねたてまつる)」。筑紫にやってきては,また「大きに哭る(みねたてまつる)」。その後難波津から大和に至るまでにも,「或いは哭き泣ち(いさち),或いは舞ひ歌ふ」。そうしてようやく,殯(もがり)の宮(葬礼の場)にたどり着いた。

 要するに,故人を偲び泣くことを一種の儀式にしている一行なのです。こうして,哀悼の意を表するのです。

 もちろん,葬式にあたって泣く役割の女は,日本にもあるようです。日本書紀第9段本文中の異伝には,天稚彦(あめわかひこ)が死んだとき,鷦鷯(さざき)を以て哭者(なきめ)としたとあります。
 ただ,そのほかにも,欽明天皇32年8月には,欽明天皇の死にあたって,新羅が弔の使いを遣わして殯に「奉哀る(みねたてまつる)」としています。天武天皇元年3月には,天智天皇の死を知った唐の官人郭務宗(かくむそう)は,筑紫にいて,3回「挙哀(みねたてまつる)」とあります。泣くことを儀式とした人は,新羅や中国の人だったようです。

 ただ,天武天皇朱鳥元年9月には,天武天皇の死にあたって家臣が「発哭(みねたてまつる)」ことが記されています。このころには,日本にも哭き女の風習が広まっていたのでしょう。ただ,新羅の王子金霜林(こむそうりむ)は,筑紫においてやはり3回,「発哭」しています(持統天皇元年9月)。

 哭女(なきめ)の風習は,中国や新羅からやって来たのではないでしょうか。泣澤女神は,新羅からやって来た神ではないでしょうか。


神殺しにより神が生まれるという伝承は血なまぐさい

 伊邪那美命を失った伊邪那岐命は,歎きのあまり,十握剣(とつかのつるぎ)で迦具土神を斬り殺します。その滴る血から,神々が生成します。刀の柄に集まった血が,手の股からあふれ出て成った神さえあります。

 神を殺して,そこから神が生ずるという神話は,かなり血なまぐさいものです。ここで生成した建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)は武神であり,いわゆる国譲り,実際には剣を突き立てた脅しの主役となります。

 こうした神話をもっていた人たちは,いったいどこから来た人だったのか。興味深いところです。

 また,細かいようでいて古事記らしいのは,几帳面に神々を並べていく,その並べ方です。血から神々が成った後,迦具土神の死体の頭,胸,腹,陰部,左手,右手,左足,右足からも,それぞれ神が成ります。これは,表から見た身体のすべてを几帳面に示しています。
 これは,すぐまた繰り返されます。すぐ後に続く黄泉国巡りでは,伊邪那美命の死体の頭,胸,腹,陰部,左手,右手,左足,右足のそれぞれに,8つの雷神がいたといいます。

 神生みに熱心な古事記は,ここまで几帳面なのです。古事記ライターの1つの側面です。


Top page
Close