第7 黄泉国巡り |
黄泉国の物語 さて,いよいよ黄泉国(よみのくに)巡りの物語です。 私は,うっかり伊邪那美命が死ぬという表現をしているかもしれませんが,正確に言えば神は死にません。前述したとおり,神に,終末という意味での死はありません。古事記はこれを,「火の神を生みしによりて,遂に神避(かむさ)りましき。」と表記しています。現世から違う世界へ避る=去るだけなのです。迦具土神はどうなのか。大宜都比賣神は死ぬではないか。そうした疑問もあるでしょうが,これらは死と再生を語る神ですから,やはり死ななければならないのでしょう。例外です。 それを知っている伊邪那岐命は,伊邪那美命に「相見むと欲(おも)ひて」,黄泉国に行きます。しかし,「蛆たかれころろきて」という伊邪那美命の凄惨な姿を視てしまった伊邪那岐命は,黄泉国から逃走します。 じつはこの部分は,日本書紀第5段第6の一書の改悪となっています。第5段第6の一書をきちんと理解しないと,古事記を評価できません。そこで以下,まず日本書紀の叙述を検討してみましょう。
軻遇突智を切った伊奘諾尊は,伊奘再尊を追いかけて黄泉国まで行きます。そこで「共に語る」。つい話し込んで,気づいたら,夜の寝る時間だったのでしょう。伊奘再尊は,なぜこんなに遅くなったのか,私は既に黄泉戸喫(よもつへぐい)をしてしまいましたと言って,伊奘諾尊をなじります。黄泉国の食事をしたことで黄泉国の住人になってしまっており,顕し国(うつしくに)すなわち現世には2度と戻れないというのです。 今まで一緒に国生みや神生みをしてきた,いとしい妻です。動かなくなった妻の身体を見て,黄泉国まで追いかけてきた伊奘諾尊です。せっかく会えたのに,抱きしめて寝たいと思うのが通常です。
なによりも私は,「共に語る」という一句を取り上げたいのです。 軻遇突智に焼かれた伊奘再尊。物言わず動かなくなった伊奘再尊の身体を前にして,伊奘諾尊は,「唯,一児(このひとつぎ)を以て,我が愛(うるわ)しき妹(いも)に替えつるかな」。すなわち,このたった1人の子供といとしい伊奘再尊を取り替えてしまったなんて,と慨嘆します。そして,枕元に腹這ってはおいおいと泣き,足元に腹這ってはおいおいと泣きます。動かなくなった伊奘再尊の身体をなで回さんばかりです。その気持ちは痛いほどわかります。 黄泉国でやっと出会ったいとしい伊奘再尊は,驚くべきことに,生きている時と同じ姿でした。驚喜した伊奘諾尊は,息せき切って話し始めたに違いありません。妻を失ったと誤解したときの絶望から語り始めます。絶望と慟哭。黄泉国にまで追いかけてきて,それまでと変わらない伊奘再尊に出会ったときの喜び。くめども尽きぬ話があったはずです。 しかし日本書紀は,この夫婦の出会いを,「共に語る」の一語ですませるのです。 これは胸にしみます。伊奘諾尊と伊奘再尊の心情が,この簡潔な一句に凝縮されています。何を語ったかは,もはやどうでもよいのです。とにかく語ったのであり,その内容は,読者各自が想像すればよいのです。そうした,突き放したところに芽生えるポエムがあります。語った内容をこと細かに描写しようとするライターがいるとしたら,それはもう2流,3流のライターでしょう。
さてそれでは,黄泉戸喫とはいったい何でしょうか。 古代人には,他界の食物を口にするとその世界の構成員になってしまうという信仰ないし確信がありました。 要するに,食べることと生きていくこと。もう少し大袈裟に言えば,食べることと人生そのものが,密接不可分の関係なのでした。古代人にとって,共食とは,一緒に生きていく証なのでした。生きていくためには,群れに参加して一緒に生活し,一緒に労働しなければならなかったのです。その結果,一緒に食べる群れを変更することは,住む世界を変えたと受け取られることになったのでしょう。 分業が進んだ現代人には,このことがわかりません。牛ひとつとってみても,飼料を作る人,牛を飼う人,屠殺し解体する人,肉を売る人,解体後の皮や骨を利用する人,等に分かれています。そして肝心の,牛肉を食べる人は,牛とは何の関係もない仕事をしています。ですから,まさに「個食」ができるのです。「共食」する必要性も必然性もありません。ですから,目の前にいる動物をその場で殺して食べる,発展途上国の人たちを,野蛮だとか残酷だとかいう誤解さえ生まれます。 これが,共食の思想です。黄泉国で一緒に食事をすることは,黄泉国の構成員になるのです。これを,黄泉戸喫といったのです。だから,黄泉国で食事をしてしまった伊奘再尊は,黄泉国の住人,すなわち死者になっていたのです。 一方,異界の者は異形の姿をしています。鶴の恩返しという話があります。人間の前に現れるときは人間の姿をしていますが,機を織って忘我の境地に至るときは,異形の姿に立ち戻ります。だから,見られたくないと言うのです。 黄泉戸喫には,@共食の思想,A異界の者の異形の姿,という2つの要素があります。
こうした,共食によってその世界の人になるという思想は,日本書紀の神話に繰り返し登場してきます。 まず,豊玉姫(とよたまひめ)と彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の話(第10段)があります。海神(わたつみ)の宮に招き入れられた彦火火出見尊は,豊玉姫を妻として3年間滞在します。釣り針が見つかっても,すぐには帰ろうとしません。美しい豊玉姫に酔ってしまったのでしょうか。 じつは,ここでも共食の思想が問題になっていると思います。 海神の宮は魚の世界です。そこで豊玉姫の供する食事をとった彦火火出見尊は,既に,海神の世界の構成員になっていました。だからこそ彦火火出見尊は,帰れなかったのです。もはや,釣り針など返してもらっても仕方がなかったのです。ですから,見つかった釣り針を受け取ってもいませんでした。 海の世界は魚の世界であり,人間の世界ではありません。海神(わたつみ)の世界で彦火火出見尊が出会った豊玉姫は,彦火火出見尊にあわせて,人間の姿をしていました。しかし,子を産んでいるとき,すなわち忘我の境地のときには,異界の異形の姿に戻ります。それが「竜」(第10段本文)なのか「八尋の大熊鰐」(第10段第1の一書)なのかは不明ですが,海神の娘である以上,とにかく海の世界の王者の姿になります。だから,出産中の自分を見るなと禁じたのです。これを見てしまった彦火火出見尊は,豊玉姫との離婚を余儀なくされます。
崇神天皇8年12月の歌謡もそうです。崇神紀は,人々の反乱や凶作の叙述から始まります。そうして,その混乱が収まった後,以下の歌謡が叙述されます。 此の神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭成す 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久 (崇神天皇8年12月) 一般には,この酒は私のものではない,倭国を造った大物主神が醸した酒である,幾代も栄えよ,という意味にとります。それでよいのですが,それだけではこの歌謡の意味を捉えきっていないと思うのです。 崇神天皇が,日本に侵入してきた騎馬民族だという見解には同調できません。しかし崇神天皇は,たぶん,大和ないし河内への侵入者だったのでしょう。少なくとも,倭という世界とは違う世界からやってきたのです。それは,崇神天皇5年以下の大変面白い記述を分析すればわかります。とにかく崇神天皇は,支配地倭が治まると,土地の者「活日(いくひ)」が造った酒を,地主神である大物主神を祭った神社で飲むことで大物主神と共食し,一体化し,ここで初めてその世界の人になったのです。 崇神天皇は,共食により,晴れて倭の構成員となりました。これは,崇神天皇による倭の国支配の完成であると言えましょう。だからこそ,崇神天皇10年7月では,「今,既に神祇を礼ひて(いやまいて),災害皆耗きぬ(つきぬ)」と宣言するのです。日本書紀の叙述は,これ以降,倭の国内の叙述から倭の国外の叙述,すなわち他国への遠征の話に変化していきます。
神功皇后摂政13年2月の歌謡も同じです。政権を安泰にした神功皇后は,都の磐余(いわれ)に帰ってきた誉田別皇子(ほんだわけのみこ,のちの応神天皇)を迎えて酒宴を張り,以下の歌を詠みます。 此の御酒(みき)は 吾が御酒ならず 神酒(くし)の司(かみ) 常世に坐す いはたたす 少御神(すくなみかみ)の豊寿き(とよほき) 寿き廻(もと)ほし 神寿き 寿き狂ほし 奉り来し御酒そ あさず飲(ほ)せ ささ この酒は,「常世に坐す いはたたす 少御神」,すなわち常世国の少彦名命が,慶事を狂おしいほどに讃え,醸し奉った酒だというのです。その酒を,政権安泰を報告した敦賀の神,「笥飯大神(けひのおおかみ)」と共に飲むのです。その笥飯大神は,朝鮮とのつながりが強い神です。
以上を理解したうえで,古事記を読んでみてください。 読み流すと,一見,日本書紀の叙述と同じように見えます。しかし,全然違います。古事記では,物語が小説的方向に振られており,しかもライターの技量が足りませんから,ヨモツヘグイの焦点がぼけて,話の筋がおかしくなっています。 伊邪那岐命は,何よりもまず,「愛しき我が汝妹(なにも)の命,吾と汝と作れる國,未だ作り竟(お)へず。故,還るべし。」と呼びかけます。その意味が,神生みの途中であり,「神国日本」を作り終えていないという意味であることは,前述しました。これに応える伊邪那美命は,家の前に出て伊邪那岐命を迎えます。そして,「悔しきかも,速(と)く来ずて。吾は黄泉戸喫(よもつへぐい)しつ」と悔しがります。 一般には,ストレートに愛情表現をしているとか,おおらかな古代人の感性を表現しているとか言われるようです。私にとっては,単なる小説趣味にすぎません。これくらいの作文は,誰にでもできます。いずれにせよ,「共に語る」ですませる日本書紀の簡潔さ,潔さ,ライターとしての技量の深さには,到底及びません。
そして,古事記ライターの馬脚が現れてしまったのが,以下の叙述です。 伊邪那美命は言います。黄泉戸喫をしてしまったが,愛しい伊邪那岐命が来てくれたのはうれしい。だから「還(かえ)らむと欲ふを,且く(しばらく)黄泉神(よもつかみ)と相論はむ(あげつらわむ)。我をな視(み)たまひそ」。すなわち,帰ることを黄泉神と話し合ってみる。その間,私を見ないでね。 しかし伊邪那美命は,家の中に入っていったまま,なかなか出てきません。しびれを切らした伊邪那岐命が家の中に入って見たら,伊邪那美命は「蛆たかれころろきて」,しかも身体の各所に雷神(いかづちのかみ)がいる状態でした。恐れおののいた伊邪那岐命が逃げると,伊邪那美命は,「吾に辱(はぢ)見せつ」,すなわち私に恥をかかせたと言って追ってきました。 どうです。ここに黄泉戸喫が書かれていましたか。 いとしい伊邪那岐命がせっかく来てくれたのだもの。だから私も戻りたい。ちょっと帰れるかどうか黄泉神と話し合ってくる。これが黄泉戸喫でしょうか。黄泉国の構成員になり,死者の姿になり,元に戻れない。これが共食の思想です。そして,死が不可逆的なものだからこそ,悲劇なのではないでしょうか。 古事記ライターは,黄泉戸喫をしたから遅すぎた,悔しい,などと伊邪那美命に語らせています。しかし,黄泉戸喫の意味など,何もわかっちゃいません。黄泉神との話し合いで元に戻れるのなら,戻りゃいいじゃありませんか。遅すぎたとか悔しいとか,歯の浮いたようなことを言ってもらっては困る。そもそも,いったい何が遅すぎたの。何が悔しいの。結局,この伊邪那美命は,夫がわざわざ黄泉国まで追いかけてきてくれたことに感動して,戻ると言っているのでしょうか。 少なくとも,黄泉戸喫の悲劇性は,完全に消し飛んでいます。 さらに,共に語っているときは現世の時の姿ですが,忘我の境地には真実の姿に戻ってしまうという,異界の接点と共食というモチーフも,完全に崩壊しています。 まったく,わけがわかりません。とんでもない描写だと思いませんか。
だからこそ,伊邪那岐命が逃走した理由がわからないのです。 真実の姿を見て真実を悟り,それが不可逆的なものだから,逃走するのです。古代人にとって死は,身体が腐っていく恐ろしい過程であり,忌むべきものでした。平安時代の人たちでさえ,ペットの犬が死んだという理由で,物忌みをしました。 ところが古事記では,帰ろうと思えば帰れるのだから,恐怖はありません。悲劇性もありません。逃走する理由も必要もありません。黄泉神との話し合い。それが2人の会話の本題となるはずです。帰れるか帰れないかが,夫婦間の話の焦点のはずです。 そこまで古事記を読んできて,「我をな視(み)たまひそ」などという文章が,どこから出てくるのでしょうか。禁止する必要があるのでしょうか。忘我の境地でこそ真実の姿に戻るという,異界の接点の問題が理解できていません。伝承の中の,禁を破ったという形式的な点にのみ目がいっています。だからこそ,「我をな視(み)たまひそ」という伊邪那美命の言葉が,完全に浮いています。 そして,本当に愛情があるのなら,「蛆たかれころろきて」という伊邪那美命を見ても,黄泉神との話し合いを待っていればよいはずです。私などは,伊邪那美命を愛していれば愛しているほど,じっと待つべきだなどと考えてしまいます。 私には,わけがわかりません。この場面を論じた書物は,山ほどあるはずです。誰か,教えてください。
古事記ライターは,なぜこんな,よたった叙述をしたのでしょうか。私は,古事記ライターの作文能力がこの程度だったからだと割り切っています。それ以上考えても無駄です。文章自体が,ライターとしての能力を正直に語っているからです。 古事記には,伊邪那岐命と伊邪那美命の夫婦愛が描かれているという人がいます。古代人の素朴な感情がストレートに表現されているという人がいます。 黄泉戸喫本来の意味をきちんととらえていた日本書紀と,「見るな」という禁止を破ったことを,形式的にとらえることしかできなかった古事記。小説的加筆(じつは駄話)をしたがために,悲劇性も叙述の論理性もぼけてしまった古事記。 いったいどちらが古いのでしょうか。私は,古来の伝承を理解できなかった古事記ライターが,リライトしたのではないかと考えてしまうのです。
伊邪那岐命が黄泉国から逃げていく場面の描写も,古事記ライターは小説的興味で描いています。 古事記では,日本書紀に登場する黄泉醜女(よもつしこめ)だけでなく,伊邪那美命の身体の8箇所にいた8つの雷神が追いかけてきます。日本書紀では泉津醜女8人だけですから,恐ろしさが増すわけです。そしてその8雷神は,なんと,「千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)」を従えて追ってくるのです。げに恐ろしげですね。伊邪那岐命は,こうしたゾンビのような妖怪を,振り向き振り向き,十握剣(とつかのつるぎ)で切り倒しながら逃げるのです。 古事記の方が,恐怖を引き立たせようとしています。小説的です。
それだけではありません。上記した8雷神は,じつは,ほぼ日本書紀第5段第9の一書に登場しているのです。 第9の一書 首に大雷 胸に火雷 腹に土雷 背に稚雷 尻に黒雷 手に山雷 足にの雷 陰に裂雷 そして,古事記に登場する,桃の実を投げつけたらそれらが退散したというお話しも,この第9の一書が伝えているのです。 すなわち古事記ライターは,第6の一書を下敷きにしながら,第9の一書をも加味して書き下したのだと言えます。この逆,すなわち,総合的な古事記の伝承があって,それを基に第6の一書と第9の一書が別々に成立したということはありえません。
さて,逃げに逃げた伊邪那岐命は,顕し国(うつしくに。現世。)との境界までやって来ます。そこは,「黄泉比良坂(よもつひらさか)」でした。 その黄泉比良坂は,どこにあるのでしょうか。 古事記は,「今,出雲国の伊賦夜坂(いふやざか)と謂ふ。」としています。これを根拠に,黄泉国は出雲の地下にあるとか,出雲国は大和に対して貶められているのだとか,ひどい人になると,出雲国は死の臭いがするなどと言う人さえいます。本当でしょうか。 古事記と同じ伝承を伝える日本書紀第5段第6の一書は,地名については何も言っていません。それどころか日本書紀編纂者は,驚くべき記述を残しています。「其の泉津平坂にして,或いは所謂(い)ふ,泉津平坂といふは,復別に(またことに)処所(ところ)有らじ,但(ただ)死る(まかる)に臨みて気絶ゆる際(いきたゆるきわ),是を謂うか」。泉津平坂がどこにあるのか,結局のところわからなかったのです。 これは,第6の一書自体に元々あった叙述ではなく,日本書紀編纂者が挿入した一文です。異伝としての第6の一書を編纂し,原稿として挿入しながら,感想を書いたのです。特別な場所を意味するのではなく,ただ,死ぬにあたって息絶える際(きわ)をいうものか,というのです。泉津平坂は,地理上のどこかという問題ではなくて,人間が息絶えるその時を示す時間的観念だというのです。 「泉津平坂」という紛れもない地名を,地理的観念ではなく時間的観念であると判断するためには,いろいろな調べ物をし,いろいろ悩み,地理的観念であることを諦めたうえでないとできるものではありません。思考上,かなりの飛躍を要するのです。末尾の,「是を謂うか」という書き方からすれば,一応の結論を出した日本書紀編纂者自身も,自信がなかったのです。 要するに,どこに泉津平坂があるのか悩み,数々の文献を調べたがわからないので,時間的観念と考えるしかないと思うのだが,自信はない。そんな結論なのです。
ですから,日本書紀編纂者は,古事記を読んでいません。これははっきりと言えます。古事記には,「今,出雲国の伊賦夜坂と謂ふ。」と書いてあるのですから。日本書紀編纂者が,@古事記を最古の文献として尊重し,Aこれを参照していれば,悩む必要がなかったはずです。 日本書紀編纂者は,当時最高の知識を独占した官僚です。書物をはじめとした知識を独占していた人です。権力の中枢にいた人です。しかも1人ではなく複数でした。延べ人数にすれば,相当の数の官僚が編纂に携わったことでしょう。その編纂者たちが,古事記を知らなかったから悩んだのです。同時代の書物,古事記を知らなかったというのです。もしかしたら,知ってはいたけれど価値がないと判断して無視したのかもしれませんが。 いったい,古事記はいかなる書物だったのでしょうか。 古事記は,ごく限られた者しか知らない,天皇家の私的な文書だったという人がいます。今で言えば,宮内庁の奥深くで密かに作られた,天皇家の秘密文書だというのです。 しかし,旧辞を誦み習わした稗田阿禮について,古事記序文自身が,有名人だったと述べています。「時に舍人(とねり)有り。姓(うじ)は稗田(ひえだ),名は阿禮(あれ)。年は是れ廿八(にじゅうはち)。人と爲り聰明にして,目に度(わた)れば口に誦(よ)み,耳に拂(ふる)れば心に勒(しる)す。即ち阿禮に勅語(みことのり)して,帝皇(すめろき)の日繼(ひつぎ)及び先代の舊辭(くじ)を誦(よ)み習わしめたまいき」。こうした天才が誦み習わし,太安万侶が作成した古事記が秘密の私的文書だったなんて,あり得る話でしょうか。 また,宮内庁という1つの役所を作るほど肥大化した現代ならいざ知らず,当時の天皇の周辺にいた官僚たちに対して,いったいどれだけの秘密がありえたのでしょうか。また,天皇の私生活と私空間が,どれだけあったのでしょうか。天皇の発した言葉はすなわち詔(みことのり)であり,公の言葉であり,天皇の住居は公的な政治の場でした。現在の京都御所よりはるかに小さな御殿に住んでいた天皇に,権力の中枢にいる官僚たちさえも知らない私的秘密文書など,ありえようがないと思われるのです。
そうすると,「今,出雲国の伊賦夜坂と謂ふ。」の「今」とは,いったいいつの時点の「今」なのかが,問題となります。 日本書紀編纂者が,「今」,現にある古事記を軽んじて無視したというのであれば,一応筋は通ります。古事記は確かに712年に成立していました。そして日本書紀編纂者は,私が提唱する古事記駄本説ないし古事記無価値論に立脚していたので,これを無視したということになります。 これでよいのでしょうか。私はまだ最終的な結論を出していませんが。
ここで,日本書紀第5段第9の一書を振り返っておきましょう。 日本書紀第5段本文には,第1から第11まで,たくさんの異伝が羅列されています。その中で,最大の異伝は第6の一書ですが,そこまでの,第1の一書から第5の一書までは,本文に対する異伝です。そして,第6の一書に続く第7の一書は,日本書紀編纂者自身が第6の一書の異伝とみなしています。ですから,第6,第7共通の訓注が,第7の一書の後に記載されています。第8から第10の一書は,第6及び第7の一書の異伝です。第11の一書は,さらにまた特異な意伝ですが,ここでは言及しません。 第9の一書は,第6の一書に対する異伝です。この異伝の特異なところは,伊奘諾尊が伊奘再尊に会う舞台が,「殯斂(もがり)」の場になっている点です。 古代の人々は,人が死んでも,魂はすぐには離れないと考えていました。だから,埋葬する前に,魂が確実に離れていく期間が必要です。それは,死体が腐っていく過程を確認し,人間が土くれに変化していく現実を受け入れる過程でもありました。死という現実を受け入れ,諦めに至るに必要な時間なのでした。それを殯(もがり)と言います。天皇が死んだときは,必ず殯が行われました。 第9の一書では殯の場が舞台になっていますから,伊奘諾尊は黄泉国へ行かないのです。言ってみれば,黄泉国を舞台にした伝承を,日本書紀編纂当時行われていた殯の場に移してしまったのです。 この第9の一書には,黄泉戸喫という言葉は出てきません。生きていた時の姿で再会した伊奘再尊は,「請ふ,吾をな視ましそ」と言って,自分を見るなと禁ずるだけです。黄泉戸喫,共食という古代的テーマは登場しないで,見るな,という禁止だけがテーマになっています。これは,古事記的な問題提起の仕方です。
さて,伊邪那岐命は,黄泉比良坂まで逃げてきたのでした。そこに,死者の姿の伊邪那美命が追いつきます。ここで,2神の絶縁が宣言されます。「事戸(ことど)を渡す」のです。 これについても,まず,日本書紀第5段第6の一書の正確な理解が必要です。 伊奘諾尊は,「千人所引(ちびき)の磐石(いわ)」,すなわち千人かかってやっと引けるような巨大な岩で,泉津平坂の「坂路」を塞いで,「伊奘再尊と相向きて立ちて,遂に絶妻之誓建す(ことどわたす)」。 これに対し伊奘再尊は,いとしいあなたが「如此(かく)言(のたま)はば」,すなわち絶縁だと言うならば,私は,「汝が治す国民,日に千頭縊り殺さむ。」と呪います。伊奘諾尊はこれに答えて,だったら私は,「日に千5百頭産ましめむ。」と言い返します。 これが,日本書紀が叙述する「事戸渡し」なのです。
古事記はどうなっているでしょうか。大事なところなので,読み下し文を引用します。ちょっと大変ですが,お付き合いください。 最後(いやはて)にその妹伊邪那美命,身自ら追ひ來たりき。ここに千引の石(ちびきのいわ)をその黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き塞(さ)へて,その石を中に置きて,各對(むか)ひ立ちて,事戸(ことど)を度(わた)す時,伊邪那美命言ひしく,「愛しき我が汝夫(なせ)の命,かく爲(せ)ば,汝の國の人草,一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ。」といひき。ここに伊邪那岐命詔りたまひしく,「愛しき我が汝妹(なにも)の命,汝(いまし)然(しか)爲(せ)ば,吾一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)立てむ。」とのりたまひき。ここをもちて一日に必ず千人(ちたり)死に,一日に必ず千五百人(ちいほたり)生まるるなり。 さて,どうでしょうか。 「千引の石」で路を塞いだのは伊邪那岐命なのでしょうが,文章としてはっきりしていません。 日本書紀では,@男である伊邪那岐命が絶縁宣言をした後,A伊奘再尊の呪いの言葉と,Bこれに対する伊奘諾尊の言い返しの言葉として,位置づけられていました。それはそれで筋が通っていますし,主語も明確で,叙述が流れていました。 ところが古事記ではこのとおりです。 私は,ぼんやりした古事記ライターが,うろ覚えの記憶を基にリライトしたのだと考えます。だからこそ主語が曖昧になっているのです。だからこそ,絶縁宣言そのものと,その後の呪いの言葉とが,ごっちゃになってしまいました。
リライトというのは,古い伝承を基にリライトしたという意味です。もしかしたら,日本書紀そのもののリライトかもしれません。 それはともかく,絶縁宣言が男女対等な立場で行われるという設定は,かなり新しい考え方なのではないでしょうか。 それだけではありません。ここには,敬語が巧妙に(愚劣に)使われています。死者の姿になった伊邪那美命は,古事記ライターにとっては,もはや用済みの神です。ですから,「伊邪那美命言ひしく,………といひき。」となっています。庶民同様の扱いです。しかし伊邪那岐命は,このあとすぐに,禊ぎをして,天照大御神らを産まなければなりません。ですから,「伊邪那岐命詔りたまひしく,………とのりたまひき。」となります。
黄泉国と顕し国との間に置かれた「千引の石」によって,伊邪那美命は,顕し国に戻ってこられなくなりました。古事記は,伊邪那美命が「一日に千頭絞り殺さむ。」と呪ったことにより,「黄泉津大神」になったと述べます。 しかし,ちょっと待ってほしい。顕し国へ戻れるかどうか,伊邪那美命が話し合った相手は,「黄泉神」だったはずです。黄泉国には,そこを支配する「黄泉神」がいるのに,なぜ伊邪那美命が「黄泉津大神」になれるのでしょうか。 私には,さっぱりわかりません。 論理矛盾があるならば,一方が嘘のはずです。それとも,それまでの支配者「黄泉神」の上に立つ「黄泉津大神」になったとでも言うのでしょうか。「黄泉神」と「黄泉津大神」は,いったいいかなる関係なのでしょうか。今まで古事記を読んできた人たちは,こうした論理的疑問をもたなかったのでしょうか。神話伝承なんてそんなものさ,と言って読み流してきたのでしょうか。 しかし,神話伝承の本質を考えてみると,そんないい加減なことを言ってちゃ,子供にさえ笑われるのです。人口に膾炙した伝承は,人々の疑問という洗礼を受けます。炉端で,おじいちゃんがしたり顔に語ってみても,それは違うよ,おかしいよ,さっき言ったことはどうなるの,おじいちゃん嘘ついてる,と言って笑われるだけです。 天真爛漫で純粋な子供こそ正しい。神話伝承なんてそんなものさ,と言って読み流す大人など,はっきり言って腐っているのかもしれません。 古事記ライターの,ライターの身になって考えてみましょう。
さて,ここで物語を振り返り,伊邪那岐命が黄泉国から逃走した理由を考えてみましょう。と言うのも,伊邪那美命に対する愛情一杯の伊邪那岐命が,死体の姿を見て一目散に逃走する理由がわからないからです。 一部の人が言う夫婦愛の物語なのであれば,哀れに思うのが普通ではないか。私はそう思います。場合によっては,骸骨さえ胸に抱くはずです。西洋の小説で,愛人の生首を抱いたというのがありました。ところが伊邪那岐命は,そんな感傷などひとかけらもなく,一目散に逃げ帰ります。そしてご丁寧にも,黄泉国と顕し国との間に「千引の石」で蓋をして,伊邪那美命が決して現世に来られないようにします。それだけでは足りないのでしょう。追ってきた伊邪那美命に対して,「事戸を渡」します。この念の入れ方は,尋常ではありません。 私は,日本書紀で初めてこの部分を読んだ時,夫婦愛のかけらもないし冷たいなあ,と感じました。しかし今では,これでよいのだと思っています。 当時の死は,恐るべきものでした。老衰による大往生は稀でした。天然痘などの病気や飢饉になると,苦痛と汚穢にまみれて死んでいきました。後世,釈迦如来,大日如来,阿弥陀如来らと並べて薬師如来が成立したのも,よくわかります。死を,さなぎから蝶への変化だととらえ,拘束された現世から自由な来世へのメタモルフォーゼととらえる考え方があります。しかしそんなものは,健康に食っていける時代の,頭の中に芽生えたイデオロギーにすぎません。現実の死は,汚穢に満ち嫌悪すべきもの以外の,何物でもありませんでした。古代人の方が,健康に食っていける現代人よりもはるかに合理主義者であり,ドライだったのです。だからこそ,死を自分の身体から遠ざけようとしたのです。平安時代には,ペットの犬が死んだというだけで,物忌みといって家にこもり,汚穢が流れ去るまで清浄な生活をしました。 話は飛びますが,阿遲志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)は,死んだ親友,天若日子(あめわかひこ)に似ていたがゆえに,その妻たちから夫がまだ生きていると間違えられます。阿遲志貴高日子根神は,「何とかも吾を穢き死人に比(くら)ぶる。」と言って,烈火の如く怒ります。そして,十握剣で,葬式を行っている喪屋(もや)を切り倒してしまいました。 これは,阿遲志貴高日子根神が乱暴だったのではありません。死は単なる汚穢であり,蛆たかる土くれであり,それ以上のものでもそれ以下のものでもなかったのです。 伊邪那岐命は,黄泉国のことを,「いなしこめしこめき穢き国」と言っています。死という穢れの前では,夫婦の愛情など吹っ飛んでしまったのです。
この意味では,日本書紀の方が劇的な効果を獲得しています。 前述したとおり伊奘諾尊は,愛する伊奘再尊と再会し,「共に語る」。その情愛の深さが,この一語に結晶しています。ところが,「膿沸き虫流る(うみわきうじたかる)」伊奘再尊の姿を見て,一目散に逃げ出します。まったく正反対の行動をとります。そのコントラストがすごい。それだけ死は恐ろしいものだったわけです。 古典として,価値が高いのはどちらでしょうか。私は,日本書紀を取ります。
さて,別の観点から,第6の一書と古事記を振り返ってみましょう。 この一連の伝承は,いかにも血なまぐさい。伊邪那美命の死。迦具土神殺し。迦具土神を切った剣から滴る血の描写。その血からさえも神が生まれてくるのです。それらは主に武神でした。そして,死の世界黄泉国の描写。蛆たかれころろきて(膿沸き蛆たかる)という死者の世界。死と殺戮と血に彩られた物語なのです。 だからこそ,禊ぎが必要になります。汚穢を浄化するのです。その結果,支配神とされる天照大神ら3神が生まれてきます。この3神の誕生は,死と殺戮と血に彩られた物語の,浄化の果てにあったのです。 これはいかにも,覇権を争った支配者好みの物語です。剣により自ら死を作り出す。その自ら招いた不浄を浄化するために,禊ぎという観念をしつらえる。人を殺しておいても,禊ぎをすれば安泰。こうして,精神の安定を保つのです。本当に,人間臭い。 ここから先は,日本書紀を読まなければわかりません。古事記だけ読んでいても駄目です。 じつは日本書紀には,血なまぐさい支配者伝承の系譜があります。そして,高天原と高皇産霊尊ら3神の伝承も,これに属するのです。具体的に言えば,この世界観を紹介した第1段第4の一書中のさらなる異伝。伊奘諾尊と伊奘再尊に,「豊葦原の千五百秋の瑞穂の地有り。汝(いまし)往きて脩すべし(しらすべし)」と命令した第4段第1の一書。日本書紀の話になってしまうので省略しますが,これは,ファシズム的だが笑ってしまう,出来の悪い異伝です。神であるのに平気で占いをするという異伝です。これらが,この第5段第6の一書につながっているのです。全体を通読して他の異伝と対照するとよくわかるのですが,世界観だけ指摘しておくと,第6の一書における天照大神は,「高天原を治すべし」とされています。高天原を前提とした伝承なのです。 そして高皇産霊尊は,まったく何の位置づけもなされず無視されていたのに,第9段本文になると,いきなり命令者として,主役として登場するのです。 これを伝えた氏族はどこにいたのでしょうか。「日向国の吾田邑(あたのむら)」にいた人たちでしょうか。
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