第8 禊ぎによる神生み

 

禊ぎから神が生まれるというおかしさ

 さて,いろいろ述べてきましたが,伊邪那岐命は,禊ぎによって汚穢を洗い流そうとします。その際に次々と神を産みます。その最後の締めくくりとして,天照大御神ら3神が生まれてきます。これで「神国日本」が完成します。国生みと神生み。この2つが揃って,葦原中国が完成するのです。これが,古事記の構成です。大国主神の国作りによって完成するのではありません。大国主神は,人間社会としての国を作ったのであり,意味がまったく違います。古事記ライターは,地理的存在としての国生みを語ったあと,人間には目もくれずに,神生みを描いていきます。この点はすでに述べました。

 しかし,考えてみてください。神が禊ぎをするのでしょうか。禊ぎ祓いは,人間的な行為ではないでしょうか。人間が神を畏れ,神の前で行うのが禊ぎ祓いではないでしょうか。しかも,汚れをはらい落とす行事を,禊ぎ祓いという完成された宗教的儀式に高めたのは,誰あろう,人間だったのではないでしょうか。


古事記は新しい

 私は先に,古事記は,神に仮託して人間を語っていると述べました。国生みのところで,天つ神が太占で占いをするのはおかしいと言いました。ここでも同様な批判ができます。こうした一連の伝承は,かなり新しいのではないでしょうか。

 その新しさは,祝詞のような言葉を多用している点に明らかです。そもそも古事記の始まりからして「鹽(しお)こをろこをろに」であり,祝詞の感覚で始まっていました。今検討している部分でも,「しこめしこめき穢き国」というのがあります。第6の一書では,「しこめき汚穢き処」です。ですから古事記は,新しいと思われる第6の一書の表現よりも,さらに一歩,新しい表現なのです。
 もちろん,祝詞の成立がいつ頃であるかという問題にリンクしています。それを調べるのも一興でしょう。

 これと同様に,禊ぎという極めて人間くさい行為,人間が神の前で行う行為から最高に貴い神が生まれてくるなんて,どうも胡散臭い気がします。

 日本書紀編纂者は,第5段第6の一書を,本文として採用しませんでした。それは,こうした事情をよく知っていたからなのでしょう。ですから,古事記は,かなり新しい伝承を基に作られた書物だということになります。


伊邪那岐命が禊ぎをした地名こそ天照大御神の故郷だ

 さて,禊ぎはどこで行われるのでしょうか。

 日本書紀も古事記も,きちんと地名を残しています。古事記によると,「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)」となっています。

 ここで禊ぎをして,天照大御神ら3神を産むのですから,天照大御神の故郷はここです。それが,叙述と文言上,当然の帰結となるはずです(後述するとおり,速須佐之男命は利用されているだけですから別です)。天照大御神の原像を探ろうとするならば,まず何を置いても,この地名を追究しなければならないはずです。

 ところが,この地名はあまり重視されていないようです。叙述と文言から離れて伊勢神宮の成立を研究したり,せいぜいのところ,日本書紀の崇神紀あたりを検討してみたりという程度のようです。みんな,日本書紀や古事記の叙述と文言を無視して,勝手なお勉強をしている。それが現状です。

 私には,なぜこんなに具体的な地名を無視するのか,さっぱりわかりません。日本書紀や古事記の神話を読むとよくわかるのですが,これほど具体的な地名が出てくるのは珍しいのです。よっぽど確実な伝承だったのでしょう。


伊奘諾尊は禊をするために淤能碁呂島に帰った

 さて,禊ぎをした場所でした。これについても,日本書紀の神話を検討しないことには,結論が出てきません。古事記の叙述は,情報量が落ちてぼんやりしているからです。
 以下,例によって,日本書紀第5段第6の一書を基に話を進めましょう。

 伊奘諾尊は,黄泉国から「既に還りて(すでにかえりて)」,我が身の汚らわしきものを洗い流そうと決意しました。決意したのは,「既に還りて」とされる,その場所です。それから,「則ち往きて(すなわちゆきて)」,すなわち移動して,「筑紫の日向(ひむか)の小戸(おど)の橘(たちばな)の檍原(あわきはら)」で禊ぎをします。
 帰った場所と禊ぎをした場所は,違うようです。

 伊奘諾尊は,黄泉国から泉津平坂を経て,現実の世界に帰ってきました。帰ってきたその場所が,「既に還りて(すでにかえりて)」というからには,もといた場所に帰ったと考えるしかありません。もといた場所は,国生みに続いて神生みをした淤能碁呂島(おのごろしま)しかありません。

 ですから,淤能碁呂島に帰ってきたのです。そこで禊ぎを決意したのです。


古事記はどうか

 古事記はどうでしょうか。すでに検討したところですが,黄泉国で伊邪那美命に会った伊邪那岐命は,「吾(あ)と汝(いまし)と作れる国,未だ作り竟(お)へず。故,還るべし。」と述べていました。伊邪那岐命は,伊邪那美命を,国作りをした場所に連れ戻そうとしたのです。
 そこは,淤能碁呂島以外にありえません。
 黄泉国から逃げ帰った伊邪那岐命は,やはり,現世にある淤能碁呂島に戻ったのです。

 これには反論が出るでしょう。古事記ライターは,黄泉比良坂は「今,出雲国の伊賦夜坂(いふやざか)と謂ふ。」と書いているではないか。伊邪那岐命は出雲に戻ったのではないのか,と。
 しかし,古事記ライターのライター能力を疑っている私は,まったく意に介しません。論理的破綻は,古事記ライターの常習性です。

 それどころか,私はすでに論証しました。日本書紀第5段第6の一書は,驚くべき記述を残しています。「其の泉津平坂にして,或いは所謂(い)ふ,泉津平坂といふは,復別に(またことに)処所(ところ)有らじ,但(ただ)死る(まかる)に臨みて気絶ゆる際(いきたゆるきわ),是を謂うか」。泉津平坂がどこにあるのか,地理的概念としては,結局のところわからなかったのです。だから,人間が息絶えるその時を示す時間的観念だと考えるしかないと言うのです。

 日本書紀の叙述に従うべきです。

 それはおくとしても,仮に古事記がいうとおり,出雲に黄泉比良坂があったとしても,それは,黄泉国と現世との境界にすぎません。そこを経由して現実世界のどこへ戻ったかは,確定できません。出雲に戻ったという叙述も文言もありません。
 いや,むしろ,「吾と汝と作れる国,未だ作り竟へず。故,還るべし。」という伊邪那岐命の言葉からすれば,古事記においても,やはり淤能碁呂島に戻ったというほかないのです。


禊ぎをした場所は筑紫の日向であり現在の宮崎県が神話の故郷だ

 日本書紀に戻りましょう。
 淤能碁呂島で禊ぎを決意した伊奘諾尊は,「則ち往きて」,禊ぎをします。移動しています。禊ぎをした場所は,淤能碁呂島じゃなかったのでしょうか。

 「則ち往きて」は,どれくらいの距離でしょうか。

 私は,たいした距離ではないと考えます。泉津平坂での伊奘諾尊の行動を読み返して確認してください。
 伊奘諾尊は,伊奘再尊に対して,泉津平坂からこっちの世界に来るなと言って,汚穢にまみれた杖,帯,衣,褌,履を,すでに投げ捨てています。禊ぎを決意していたのではないのですが,あたかも,うんちがついたので汚いとでも言うかのごとく,身につけていたものをすべて捨てたのです。

 要するに,淤能碁呂島に帰ってきたときには,もはや裸に近い状態だったのです。これでは,長距離を移動することは不可能です。

 ですから,「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」は,淤能碁呂島自体の中か,その近郊にあるはずです。国生みと神生みがなされた淤能碁呂島,すなわち神話の故郷は,「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」近辺だったことになります。

 この一連の地名は,筑紫 → 日向 → 小戸 → 橘 → 檍原と,大きい地名から小さい地名の順序で並んでいます。「筑紫」を北九州の筑紫ととることもできます。その場合は,日向を北九州のどこかに探すしかありません。しかし,日本書紀第4段の国生みでは,九州を「筑紫洲」と呼んでいます。九州全体を筑紫と呼んでいるのです。

 神話の故郷は筑紫の日向であり,現在の宮崎県を中心とした地域です。そこで禊ぎが行われたことになります。


日本書紀の他の叙述もそれを証明する

 先に述べましたが,第6の一書に続く第7以下の一書は,第6の一書に関する補足ないし異伝です。第11の一書は別にして,第10の一書までは,第6の一書を補足するものとして構成されています。

 そこで第10の一書を読んでみましょう。黄泉国から戻った伊奘諾尊は,禊の場所として「粟門(あわのみと)」と「速吸名門(はやすいなと)」を見ますが,潮が速いのであきらめ,「橘小門(たちばなのおど)」に「還向り(かえり)たまひて」禊を行います。
 この叙述からすれば,伊奘諾尊が元々いた場所は,やはり「橘小門」だったことになります。他の場所で禊ぎをしようとしたがうまくいかないので,「橘小門」に「還向りたまひ」たというのです。その「橘小門」は,もちろん,「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」にいう「小戸の橘」です。

 第6の一書によれば,伊奘諾尊は,天照大神ら3神を生むに先立って,禊ぎの過程で住吉大神(すみのえのおおかみ),すなわち底筒男命(そこつつのお),中筒男命(なかつつのお),表筒男命(うわつつのお)の3神を生みます。

 そして一方,神功皇后摂政前紀には,この3神が,「日向国の橘の小戸(たちばなのおど)の水底に所居(い)て,水葉も稚(わかやか)に出で居る神」とされています。
 ここにも,はっきりと地名が出てくるのです。

 この神功皇后摂政前紀の「橘の小戸」は,確かに「日向国」にあります。したがって,「筑紫」を北九州の筑紫ととる見解は,誤りだということになります。

 行政区画としての「日向国」がいつできたかは,確かに問題でしょう。しかし,日本書紀編纂の時点で,日本書紀編纂者が「日向国」と呼んでいた地方であることは確かです。

 要するに,日本書紀の叙述と文言からすれば,伊奘諾尊と伊奘再尊の神話の故郷が「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」とか「橘小門(たちばなのおど)」だったことは間違いありません。それは,「日向国」すなわち現在の宮崎県方面にあります。


南九州の吾田地方に伊奘諾尊と塩土老翁がいる

 さて,意外なところにも,上記した結論の根拠があります。

 第9段第4の一書を読んでみましょう。
 天孫降臨した天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)は,「吾田の長屋の笠狭の御碕(かささのみさき)」にやって来ます。そこで出会った事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)から国を献上されます。ここまでは別段どうと言うこともありません。

 問題は,「其の事勝国勝神は,是(これ)伊奘諾尊の子(みこ)なり。亦の名は塩土老翁(しおつつのおぢ)」という点にあります。
 「吾田の長屋の笠狭の御碕」は,古代の薩摩国,現在の鹿児島県の薩摩半島西南部にある加世田市付近です。長屋という地名は,加世田市と川辺郡との境にある長屋山にその名を留めています。この近くの岬といえば,川辺郡西端にある野間岬ということになります。
 事勝国勝長狭は,降臨後の天孫が初めて出会った人間です。「吾田の長屋の笠狭の御碕」あたりを支配していたことになっています。だから,国を献上したのです。

 その事勝国勝長狭が,じつは伊奘諾尊の子であり,またの名を塩土老翁というのです。塩土老翁は,天津彦彦火瓊瓊杵尊の子である彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を,海神(わたつみ)の宮に案内する老人でした。すなわち,海のことをよく知っている海人系統の人でした。

 なぜこんな辺鄙な所に,突然,伊奘諾尊の子が出現するのでしょうか。


南九州の日向から薩摩あたりが日本神話の故郷だ

 その謎を解く鍵は,海幸彦と山幸彦の物語である第10段第4の一書にあります。

 天孫降臨して「吾田の長屋の笠狭の御碕」あたりにあった国を献上された天津彦彦火瓊瓊杵尊は,そこに「就(ゆ)きて留住り(とどまり)」,その国の鹿葦津姫(かしつひめ)と結婚します。そして,彦火火出見尊(いわゆる山幸彦)らをもうけて,「筑紫日向可愛(つくしのひむかのえ)」にある墓に葬られます(第9段本文)。結局,ここに骨を埋めたのです。

 第10段の海幸彦山幸彦の物語は,「吾田の長屋の笠狭の御碕」あたりの国を舞台にしたお話なのです。兄の釣り針を無くした彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと,即ち山幸彦)は,海浜をさまよいます。もちろん,「吾田の長屋の笠狭の御碕」近辺の海辺に違いありません。すると塩土老翁(ここでは塩筒老翁と表記)が出現し,海神(わたつみ)の乗る駿馬は八尋鰐(やひろわに,大鮫のこと。)であり,それが「橘の小戸(たちばなのおど)」にいると教えてくれます。それで彦火火出見尊は,塩土老翁と一緒に行って八尋鰐に会います。

 さてさて,「橘の小戸」という地名が,またも現れました。もちろん,淤能碁呂島があり,国生みと神生みがなされ,伊奘諾尊が禊ぎをした「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」のことです。

 長々と日本書紀の物語を紹介してきましたが,要するに,天孫が住み着いたのは,古代の薩摩国にあった「吾田の長屋の笠狭の御碕」であり,現在の鹿児島県の薩摩半島西南部にある加世田市付近だったということです。ここに伊奘諾尊の子である塩筒老翁がおり,伊奘諾尊が禊ぎをした「橘の小戸」があったというのです。ですから,その近くには,淤能碁呂島もあったはずです。住吉3神もここにいたはずです。この海域には,海神が乗る八尋鰐がおり,海神の宮もこの近辺にあったのです。第10段の海幸彦山幸彦の日向神話もまた,ここを舞台にしていたのです。

 「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」(第6の一書)も,「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」(古事記)も,同じ地点を指し示しています。

 伊奘諾尊と伊奘再尊の神話の故郷のみならず,日本書紀と古事記の神話の故郷は,出雲神話は別にして,南九州の日向から薩摩にかけての地方にあったのです。
 それが証拠に,神武天皇は,「日向国の吾田邑(むら)」にいて,その村の吾平津媛(あひらつひめ)と結婚していました。そこから「東征」に旅立つのです(神武天皇即位前紀)。

 禊ぎによって生まれた天照大御神の故郷も,ここにあるのです。


淤能碁呂島は瀬戸内海にも北九州にもない

 淤能碁呂島は瀬戸内海にあるという見解があります。大和朝廷のある大和地方を中心に漠然と考えていると,こうなるのでしょう。ですが,今まで私が述べてきた日本書紀の叙述と文言は,いったいどうなるのでしょうか。古事記も地名が一致しています。

 「筑紫の日向」とあることから,北九州の日向だという考えもありえます。これは前述しましたが,補足しておきましょう。

 日本書紀は,日本書紀編纂時点での行政区画たる国を基準に,地理を説明しています。たとえば神武天皇の時代には「日向国」はありませんでした。
 しかし,後世いわゆる「日向国」という意味で,「日向国の吾田邑(むら)」と表記しています。また,経津主神(ふつぬしのかみ)らが降った地名を「出雲国の五十田狭(いたさ)の小汀(おはま)」と表記しています(第9段本文)。これが,地理を説明するときの日本書紀の表記方法です。これは,「筑紫の胸形君」(第6段本文)という場合とは異なります。こちらは,地理の説明ではないからです。
 ですから,「筑紫」とだけある場合は,後世いわゆる「筑紫国」をいうのではありません。

 日本書紀は,国生みの段で,九州の島全体を「筑紫洲(しま)」と表記している(第4段本文)。だから,「筑紫」とだけ表記する場合は,後世いわゆる「筑紫国」ともとれますし,地理上の「筑紫洲」ともとれます。ですから,後世いわゆる「筑紫国」,すなわち北九州と断定することはできません。


学者さんの説を笑う

 学者さんたちはどう言っているのでしょうか。

 学者さんは,「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」という地名を,神話的思考の産物であるから特定する必要はないと言っています。日向という文言さえ,日に向かう場所というイメージを伝えたいだけであると言います。

 私は,冗談ではなく,驚いて腰を抜かしてしまいました。ウッソー,てなもんです。

 日本書紀と古事記を通じて,「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」という地名が,いかに具体的かつ詳細な地名であるか。一読すれば誰にでもわかります。これは,日本書紀と古事記を一度読んでみれば,誰にでもわかることです。学識も経験も必要ありません。厳然たる事実の問題です。叙述と文言上の問題です。

 それはともかく,理屈をこねるとこうなります。
 だったら,「大和」という地名さえ,大きな和という意味を示したかっただけなんでしょうか。特定する必要はないのでしょうか。たまたまそこが,結果として天皇の故郷になっているからいいようなものの,それ以前については,追究しなくてもよいのでしょうか。

 しかも,一方では,伊邪那美命が「出雲国と伯伎国との堺の比婆の山」に葬られたという古事記の叙述は信用するのです。

 とんでもない学者さんだと思いませんか。私は,こんな学者さんたちが,日本神話を神秘のヴェールに包み込んできたと考えています。

 日本書紀にも古事記にも,天孫降臨の地名や,黄泉比良坂が「今,出雲国の伊賦夜坂(いふやざか)」であるとか(古事記),具体的な地名がでてきます。こうした極めて具体的な地名に並んで,「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」(第6の一書)や「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」(古事記)が登場します。
 この地名だけが神話的思考の産物なんて,明らかに,合理的理由のない差別ではありませんか。

 淡路島に伊邪那岐命が祭られており,御食つ国といって,朝廷に海産物や禽獣を貢納していた国であるから,淡路にあった神話が取り入れられたのだろうという人がいます。
 ですが,私が言っているのは,いわゆる天皇が大和を支配する前のもっともっと昔の,神話の原像とも言うべき時代を考えているのです。住吉大神も,確かに難波にいますが,長門や筑紫にもいます。


禊ぎによる神々の生成はきちんとまとめ直されている

 さて,日本書紀から離れて,古事記に戻りましょう。

 古事記は,「阿波岐原」で禊ぎを始める時に,初めて服を脱いだとしています。これに対し第6の一書では,黄泉国から「既に還りて」となる以前,すなわち淤能碁呂島に帰って来る前に,あたかもうんちが付いた服であるかの如く脱ぎ捨てています。古事記では,脱ぎ捨てられたものから成る神が,禊ぎの場面に一括してまとめられているのです。禊ぎを始めてから一括して生まれてくるのです。

 この点,古事記の方が,原伝承をまとめ直したという感があります。

 私が言いたいのは,「神国日本」を語る古事記ライターの几帳面さです。古事記ライターは,君たちの周りにいる神々はこうして生まれたんだよと言いたいのです。ですから,種々雑多な神々を,整理整頓してまとめようとするのです。

 ですから古事記は,第6の一書よりもさらに新しいのです。


禊ぎによる神生み

 ここで伊邪那岐命が生んだ神々は,やはり,現実に生きている人間の回りにいる神々です。陸路の神や海路の神の他に,たとえば人間に不幸をもたらす神「八十禍津日神(やそまがつひのかみ)」に加えて,「大禍津日神(おおまがつひのかみ)」というのさえあります。「和豆良比能宇斯神(わずらひのうしのかみ)」,すなわち,煩いの主という神まであります。これらなどは,人間と関わりなくいる神ではなく,人間がいるからこそ出現したと言うべき神です。

 古事記は,人間の周りにいる神々を描くことに熱心です。そうした神々の総体としての「神国日本」を描こうとしているのです。必ずしも,天皇中心主義に凝り固まっているわけではありません。
 なお,蛇足気味ですが,「八十禍津日神」と「大禍津日神」については,「この二神は,穢繁国(けがらわしきくに)に到りし時の汚垢(けがれ)によりて成れる神なり。」という説明文がくっついています。もちろん日本書紀にこんな文章はありません。これは,神々を整理するときに,古事記ライターがくっつけた作文です。


正々堂々「伊邪那伎大神」

 さて,ここにまた,笑うべき事態が生じてしまいました。

 禊ぎの場面は,「ここをもちて伊邪那伎大神詔りたまひしく」で始まります。それまでの,黄泉国の物語では一貫して「伊邪那岐命」でした。それが突然,「大神」ときた。これから天照大御神ら3神を産むからです。ただ,生んでいる途中は「伊邪那岐命」に戻ります。しかし,泣く速須佐之男命を叱責して追放する場面では,「伊邪那伎大神」に戻ります。

 ここまでくると,私は,古事記ライターに,あさましささえ覚えてしまいます。

 神世七代として登場した場面では,神々(こうごう)しくも「神」。修理固成の命令を受けるところでは,天つ神の下働き,将棋の駒だから「命」。その後ずっと「命」で通しますが,伊邪那美命については,迦具土神を生んで神去る(かむさる)あたりは「神」。その後「命」に戻って,最後は「黄泉津大神(よもつおおかみ)」となるのでした。これに合わせるように,伊邪那岐命も最後は「大神」となるのです。
 これは,決して,素朴な伝承だから混乱したまま伝えられたということではありません。明らかに,意図的なライターが一貫した叙述をしたのです。何らかの伝承をリライトした痕跡なのです。

 日本書紀の「神」と「大神」の使い分けは厳密です。「大神」としていつき祭られているのに,「神」とか「命」とか呼んでしまうと,いつき祭っている人たちが怒ります。官撰の歴史書にくっついた神話なのです。いい加減にすると,史書としての信用性がなくなってしまいます。だからこそ厳密なのです。

 しかし,そんな大上段の話をしなくても,普通の人だって,「命」をいきなり「大神」に昇格させることはしないでしょう。日記に登場するA君B君が,話の途中でいきなりA様B様と呼ばれるようなもんです。日記を書いた人が分裂気味ではないかと疑われかねません。


Top page
Close