第9 天照大神ら3神の生成

 

天照大神,月読尊,素戔鳴尊の特異な出自

 禊ぎの最後に,と言うよりも,国生みに続く神生みの最後に,天照大御神ら3神が生まれてきます。左の「御目」を洗ったときに天照大御神,右の「御目」を洗ったときに「月読命」,「御鼻」を洗ったときに「建速須佐之男命」が生まれました。こうして,「神国日本」が完成します。

 くどいようですが,この3神は,国生みに続く神生みの最後に生まれてくるのです。大八洲国の生成に続いて,現実に生きている人間の回りにいる神々を位置付け,古事記の読者を納得させ,そのうえで,その長となるべき3神を登場させるという手法をとっているのです。国生みだけでは葦原中国は完成せず,神々に取り囲まれてこそ完成するというのです。

 さて,なぜ目や鼻を洗ったのでしょうか。例によって,古事記だけをにらんでいても,何もわかりません。
 日本書紀第5段第10の一書が答えてくれます。「親ら(みずから)泉国(よもつくに)を見たり。此既に不祥し(さがなし)。故,其の穢悪(けがらわしきもの)を濯ぎ除はむ(そそぎはらわむ)と欲して」とあります。汚らわしいものを見てしまった目も洗わなければならないのです。
 当然,汚らわしい空気を吸った鼻も洗うのでしょう。これは理解できます。

 かなり潔癖ですね。

 目,光,太陽,月という連想がありますから,目からは天照大御神と月読命なのでしょう。また,日本人にとって神聖な左から天照大御神が生まれたというのも理解できます。鼻から建速須佐之男命が生まれたのは,暴風神というイメージだからでしょうか。


天照大御神は生まれたときから天照大「御」神だ

 さて,古事記では,「天照大御神」という表記になっています。

 「大神」の間にさらに「御」の字が入っています。古事記ライターの気まぐれで,「伊邪那岐命」が突然,正々堂々の「伊邪那伎大神」になることを述べました。しかしこれは違う。天照大御神は,生まれたときから最後まで,あくまでも「天照大御神」で一貫しているのです。私はここに,古事記ライターの執念を感じてしまいます。古事記ライターは,明らかに,天照大御神を格別高貴な神の中の神だと考えています。それは,「月読命」,「建速須佐之男命」という表記からも明らかです。これらはたんに「命」でしかありません。「神」や「大神」を飛び越えた,ありがたいありがたい神様として,「大御神」と呼んでいるのです。

 古事記においても,「大神」はたくさん登場します。これまででも,黄泉津大神(よもつおおかみ),道敷大神(ちしきのおおかみ),道反之大神(ちがえしのおおかみ),黄泉戸大神(よみどのおおかみ)などがありました。

 日本書紀は,「天照大神」です。異伝である一書にも,「天照大御神」という表記はありません。私は,わざわざ「御」の字を入れた点を,天照大神を称揚するかなり新しい時代思潮の反映であるばかりか,リライトの痕跡でもあると考えるのです。
 そんな色眼鏡で見てみると,伊邪那岐命の目や鼻についても,左の「御目」,右の「御目」,「御鼻」というように,みな,「御」の字がついています。もちろん,第6の一書は「眼」,「鼻」です。「天照大御神」を生む伊邪那岐命は,正々堂々の「伊邪那伎大神」ですから,「御」の字が入るのです。ここらへん,古事記ライターは細かい。

 現実に生きている人間の周囲にいる神々を羅列して位置付け,その長として「天照大御神」と表記する古事記ライターは,伝承の発端にいた人でしょうか。それとも,伝承を咀嚼したうえで,現実に生きている人間を教育しようとした人でしょうか。古事記は,じつに不思議な書物です。


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