第11 泣く速須佐之男命 |
古事記の内容 古事記は伝えています。 速須佐之男命だけは,「命(よ)させし国を治らさずて」泣き続け,「青山は枯山(からやま)の如く泣き枯らし,河海は悉に(ことごとに)泣き乾(ほ)しき」。その結果,「惡しき~の音(こえ)は,さ蝿(ばえ)如(な)す皆滿ち,萬(よろず)の物の妖(わざわひ)悉(ことごと)に發(おこ)りき」。「伊邪那岐大御神」は,「何由(なにし)かも汝(いまし)は事依させし國を治らさずて,哭きいさちる」,すなわち,命令した国を支配しないで泣いてばかりいるのはなぜかと聞いた。 速須佐之男命は,「僕(あ)は妣の国(ははのくに)根の堅州国(かたすくに)に罷らむ(まからむ)と欲ふ。故(かれ),哭くなり」と答えた。そこで「伊邪那岐大御神」は怒って,速須佐之男命を追放した。そして「伊邪那岐大神」は,「淡海の多賀」に鎮座した。
速須佐之男命は,「海原」の支配を命令されたのでした。 ところがここを読むと,海は忘れられて,地上の国の支配を命令されたかのようです。 青山も河も,海にはありません。「さ蠅如す」云々は,葦原中国を悪く言うときの常套文句です。 ちゃらんぽらんな古事記ライターは,一体何を考えているのでしょうか。 特に,悪しき神が満ちたというところ。「惡しき~の音は,さ蝿如す皆滿ち,萬の物の妖悉に發りき」というところは,天照大御神の石窟隠れで有名な場面にも出てくる表現と,まったく同じです。そこでは,天照大御神が石窟に隠れ,葦原中国が真っ暗闇になったので,「萬の~の聲は,さ蝿なす滿ち,萬の妖悉に發りき。」とあります。明らかに,国土を対象とした形容です。 もっとはっきり言えば,葦原中国を前提とした表現なのです。決して,海原ではありません。 こんなことからも,海原の支配を命じられたというのは,よたった古事記ライターの何かの間違いではないか,と考えてしまうのです。そうとでも受け取っておかない限り,わけがわかりません。 この古事記ライターの頭の中身,思考過程を,誰か説明してください。
その,よたり具合は,伊邪那岐命の呼び方にも表れています。もうこうなると,揚げ足取りではないかと言われるようで恐縮してしまうのですが,仕方がありません。 3神に支配を命令するところでは,「伊邪那岐命」。速須佐之男命を問いつめ,怒って追放するところでは,思いっきり居丈高になって「伊邪那岐大御神」。 「大御神」なんて,よく言った。「天照大御神」と同格ですよ。いいですか。わかりますか。古事記における「大御神」の研究というお題で,誰か研究してみてください。古事記を信ずるならば,むしろ,やらなければならないお題です。 よくここまで言い切った。日本書紀第1段本文(しかもテキスト1ページめ)には,至貴を「尊(そん)」といい,自余(その余)を「命(めい)」という,以下皆これに倣え(ならえ),という分注が,突然出てきます。日本書紀は,これに従って,しっかりと神々をランク付けしています。大神,神,尊,命,の順です。その下には,何の尊称もない神がいます。たとえば第5段本文に出てくる木の祖(おや)句句廼馳などがそうです。いわゆる自然神がそうです。 確かに,日本書紀自体の問題はあります。神々をランク付けするなんて,素朴な神話じゃないよね,なんて。神話の1ページめからこれじゃ,しらける。
しかし,それとはまったく別個に,古事記自体のこのよたり具合。さあ,どうしてくれる。 日本書紀編纂者は,当代一流の官僚であり文化人でした。ですから,文章をまとめるときは,きちんとやってしまう。至貴を「尊」といい,自余を「命」という,以下皆これに倣え,という分注。きちんとやってしまう性格。その官僚根性が,よく表れていますね。 これに対し,古事記ライターは,よくわからない。何の脈絡も根拠もないのに,「天照大御神」と「伊邪那岐大御神」とを,いきなり並立させてしまう精神が,よくわからない。古事記ライターは,世界観をどうとらえているのでしょうか。 文庫版のテキストの,わずか1ページちょっと。この程度の分量の日記の中で,A君がA閣下となり,最後にA様になったようなもんです。B様は出てきませんが。 何度も言いますが,ここにもリライトの痕跡があります。しかもそのリライトたるや,私には,あさましさや卑しささえ感じられてしまうのです。こんな古事記ライターを信用しろと言う方がおかしい。いやしくも文章を作ることを生業にしている者ならば,誰でもみなそう思う。私はそう考えます。
さっさと本題に入りましょう。今までのことは,じつは,些末的なことです。 問題は,やはり速須佐之男命です。速須佐之男命は,ただひたすら泣くだけのダメ男として描かれています。よく読んでください。「青山は枯山の如く泣き枯らし」とか,「河海は悉(ことごと)に泣き乾しき」とか,すべて,泣いてばかりいる男という文脈です。 しかも,あろうことか,「妣(はは)の国根の堅州国」に行きたいというのです。お母さんのいるところへ行きたいと言ってメソメソ泣くだけの,ダメ男として描かれているのです。 決して,暴虐無道の男ではありません。古事記では,暴虐のために人が死んだとかいう表現は出てきません。単に泣くだけの男とされているところが,問題なのです。 じつは,古事記ライターが手本にしたと思われる日本書紀第5段本文の素戔鳴尊は,単なるメソメソ系ではありません。泣くには泣きますが,「勇悍(いさみたけ)くして安忍(いぶり)なる」というのです。勇猛で残忍だということです。ですから,国民をたくさん殺してしまいました。
自分の子供に「悪魔」と命名してよいものか。一時,新聞の話題になりました。「鬼」,「悪魔」という命名は,尊称という面もあります。それだけ生命力が強いという意味です。ですから,日本書紀における素戔鳴尊には,生命力の強い神という側面から,幼児のように泣く性格まで,幅広い性格があったということなのでしょう。 それは確かに,わかるような気がします。世の中で傑物と言われる人は,そうしたものです。 それはともかく,日本書紀第5段本文の素戔鳴尊には,凶暴な面と泣き虫の面とがありました。それは,言ってみれば,情にもろい傑物,情もわかるが,いくさも強い戦国武将のような存在だったということなのでしょう。ですから,日本書紀編纂者たちは,素戔鳴尊を尊敬しています。少なくとも,そのありようをきちんと伝えています。 古事記はどうでしょうか。 暴虐無道という側面は大胆にカットして,単に泣くだけの,ダメ男にしてしまいました。弱々しく女々しい神。支配という任務を放棄してしまう神。 私はここに,古事記ライターの悪意を感じてしまいます。 これが,速須佐之男命を貶める第1の要素です。
速須佐之男命は,命令された国を支配しないで,「八拳須(やつかひげ)心(むね)の前に至るまで,啼(な)きいさちき」,とされています。 これを読むと,30歳になるまで言葉が話せなかった垂仁天皇の子,誉津別王(ほむつわけのみこ)を思い出します(垂仁天皇23年9月)。 泣いてばかりいるのは幼児だ,一人前の大人ではないという認識です。幼児同様どうしようもない。立派な大人ではないという感覚です。 古代の人々が,子供をどのような視点で見ていたのかという問題があります。生産力が著しく低い時代の話です。現代とは異なり,子供だからといって甘やかされることはなかったでしょう。大人になる前の未完成な人間。それが子供です。 時代も場所も違いますが,ブリューゲルの絵には,大人のだぶだぶの服を着た子供が出てきます。現代の目で見るとかわいいと受け取るしかないのですが,よく考えると,子供服なんてなかったということなのです。大人こそが人間であり,子供は,人間になる前の中途半端な存在。生産に参加できない存在。子供を子供として受け止めて,子供にあわせて服を作ってやるなんて,考えてもみなかったのでしょう。 古事記における速須佐之男命には,立派な大人の年齢になっても,子供のように泣くだけの,箸にも棒にもかからない奴,という意味合いが込められているのではないかと思います。 これが,速須佐之男命を貶める第2の要素です。
速須佐之男命を貶める第3の要素は,ほかでもありません。「妣(はは)の国根の堅州国」に行きたいという点です。支配を放棄して,母のいる所に行きたいという,情けない神になっているのです。 古事記ライターの意図がそうだったことは認めます。 後の展開をみてみましょう。 ですから,速須佐之男命は,行きたいと願った「妣の国」,すなわち黄泉国に行ったことになるのでしょう。黄泉国は伊邪那美命がいる所でもあります。古事記ライターは,「妣の国」を黄泉国とし,根の堅州國と同視しているのです。 たくさんの人が,古事記のこの展開を取り上げて,速須佐之男命の性格を述べています。また,伊邪那美命は黄泉国にいるはずですから,黄泉国と根の堅州国とが同一視される根拠も,ここにあります。
しかし本当でしょうか。 伊邪那岐命は,伊邪那美命がいる黄泉国から逃げてきて,黄泉比良坂で事戸渡して,すなわち絶縁して,それから禊ぎを行って速須佐之男命を生んだのです。 私は,速須佐之男命が母のいる国へ行きたいと言って泣いたなんて,とんでもない誤解であり,駄話だと考えます。 古事記ライターには,小学生程度の作文能力さえありません。 私がこんなことを言っても,信じようとしない人が一杯いることは,容易に想像できます。なにしろ,日本最古の古典ですから。 しかし,叙述と文言をきちんと読む限り,駄話と言うほかないのです。 しかも,問題の根は深いのです。古事記ライターは,伊邪那美命が速須佐之男命の母であると決めつけたうえで,後の物語を展開しているのですから。もしも,伊邪那美命が速須佐之男命の母でないことになったら,大国主神の根の堅州国巡りの話が,宙に浮いてしまうことになるのです。
あまりにもひどすぎます。もしかしたら,私の原文の読み方が間違っているのかもしれません。 まず,基になったと思われる第6の一書を検討してみましょう。 原文は,「吾欲従母於根国」となっています。ここにいう母は伊奘再尊を指すのではなく,一般的な言い方の母であり,むしろ母なる大地を意味しているとする説もあります(小学館・新編日本古典文学全集・日本書紀1)。 ですが,速須佐之男命は,「この國に住むべからず」とされて追放されるのです。母なる大地は天の下の世界ですから,これでは速須佐之男命が天の下から追放されたことになりません。問題が解決されていません。もう一歩踏み込んで言うならば,「母」とある文言は,もはやごまかしようがないということです。 でも,とにかく,屁理屈でも何でも,理屈がつけられそうな気もいたします。母なる大地であれば,誰もが納得しそうだ。
古事記はどうでしょうか。 古事記は,「僕(あ)は妣の国(ははのくに)根の堅州国(かたすくに)に罷らむ(まからむ)と欲ふ。故(かれ),哭くなり」としています。ここでは,「妣の国」という字をあてています。 「漢字源」によれば,「【妣】 《訓読み》 はは 《意味》{名}はは。死んだ父(=考)に対して、死んだはは。▽生前には母といい、死後には妣という」とあります。 どうでしょう。古事記ライターの勘違いが,第6の一書よりも明白ではありませんか。「母」であれば,母なる大地と逃げることができる。しかし「妣の国」では,もはや逃げようがありません。
古事記ライターは,なぜ,小学生でもやらかさない過ちを犯したのでしょうか。 頭の中に,伊邪那岐命と伊邪那美命の結婚から生まれる,日本書紀本文やらの伝承があったに違いありません。ですから,異伝を採用した古事記ライターには,伊邪那美命が速須佐之男命の母であるという思い込みがあったと言うほかありません。 こういうのを,恥の上塗りというのでしょう。 私は,ここに,古事記ライターのライターとしての本質が顔を見せていると思います。これをしっかりと捕まえなければなりません。 このように古事記は,古い伝承のリライト版であり,かなり新しい成立です。それは,第6の一書にも言えることです。 じつは,この背景には,素戔鳴尊は伝承上利用されているだけであるという,日本書紀の体系的理解(すなわち日本神話に関する体系的理解)にかかわる問題があります。ここでは詳しく触れませんが,利用されているだけですから,徹底的に貶められるのです。それを見抜かなければなりません。
古事記ライターは,とにかく,速須佐之男命を貶めようとしています。暴虐無道な性格をカットして,お母さんのいるところに行きたいと言ってめそめそ泣くだけの,幼児のような速須佐之男命を描いています。 ところが一方で古事記ライターは,前述したとおり,大国主神の根国訪問の場面で,男性的で豪快な「大神」を描いています。速須佐之男命は,根の堅州国で大神になっていました。「生太刀(いくたち)」と「生弓矢(いくゆみや)」と娘「須世理毘賣」を奪って逃げる大国主神に対し,立派な宮殿を造って栄えよ,こいつめ,と言葉を投げかけます。まったく違う速須佐之男命を描いています。 どちらが本当の速須佐之男命なのでしょうか。 私の考えでは,「妣の国根の堅州国」というのは何かの間違いですから,単に,「根の堅州国」へ行きたがったというだけのことです。古事記ライターによって貶められる前の速須佐之男命は,暴虐無道な性格をもつ神でした。これが本来の性格です。根の堅州国に行って「大神」となるのは当然です。念のため,「根の堅州国」は「妣の国」ではないのですから,「黄泉国」ではありません。まったく違う世界です。これについては後述します。 これに対し古事記ライターは,「妣の国根の堅州国」とやってしまったがために,伊邪那美命がいる黄泉国と根の堅州国とが同じ世界であるという誤解を,後世の人々に与えてしまいました。その結果,根の堅州国,すなわち黄泉国に行った速須佐之男命が「大神」になっているという,さらなる大矛盾をやらかしています。 何が矛盾かって。わかりませんか。伊邪那美命が顕し国に帰ることを相談した「黄泉神」と,「黄泉津大神」となった伊邪那美命と,「大神」となった速須佐之男命と,いったい誰が一番偉いのでしょうか。 私にはさっぱりわかりません。古事記ライターの世界観にはついて行けません。「妣の国根の堅州国」という古事記ライターの誤解がこうした矛盾を招いたと,はっきりと認識すべきなのです。単なる駄話であると割り切るべきなのです。 古事記と同様の伝承を伝える日本書紀第5段第6の一書も,いわば駄伝承だったのです。日本書紀編纂者は,こうしたいい加減さを知っていたからこそ,公定解釈として採用しなかったということになります。
ところで,禊ぎによる神生みを終えた伊邪那岐命は,その後どうなったのでしょうか。 学者さんは,どちらに伊佐奈伎神社があるとか,ないとか,論じているようです。そんなことよりも,文献自体はどうなっているのでしょうか。 日本書紀を読んでみましょう。履中天皇の時代,履中天皇が淡路島で狩りをしていると,伊奘諾尊が現れて,河内飼部(かわちのうまかいべ)がしていた刺青の「血の臭きに堪へず」と言います(履中天皇5年3月)。やはり淡路島で狩りをしていた允恭天皇の前に現れて,我に赤石(あかし,現在の明石)の海の底にある真珠を奉れと述べた島の神も,伊奘諾尊なのでしょう(允恭天皇14年9月)。 ですから,「淡海の多賀」という古事記が間違っているのでしょう。もっとも古事記にも,「淡海の多賀」という真福寺本と,「淡路の多賀」という道果本とがあるようです。 余談ですが,神は死にません。別の世界に行くだけです。「霊運当遷」というのは,「霊運」が「当(まさ)」に「遷」るということなのでしょう。神話の表舞台から退くだけなのですから,「隠れましき」となるのです。
伊邪那美命はどうでしょうか。 古事記では,「黄泉津大神」になったとしています。しかしそこには,「黄泉神」との関係がわからないという,論理矛盾がありました。黄泉国と根の堅州国とを同視する学者さんや一般の研究者の立場からすれば,根の堅州国で「大神」になっていた速須佐之男命との関係が,さらにわからなくなります。 私は,伊邪那美命が「黄泉津大神」になったという,古事記の伝承を信じていません。と言うのも,日本書紀では,伊奘再尊が消えてしまうからです。 日本書紀第5段本文と第6段本文を,続けて読んでみてください。 ところが,第6段本文で,素戔鳴尊の根国行きを「許す」と言ったのは,なぜか伊奘諾尊1人でした。一続きの場面で,その直前まで伊奘再尊が一緒にいたはずですが,なぜか無視されています。そして伊奘再尊にはお構いなしに,前述したとおり,「神功」すでに達成したので淡路島に鎮座したと伝えています。その直後に異伝を引用していますが,これは,伊奘諾尊が事の成果を天に上って報告したという内容になっています。 要するに,伊奘再尊を無視し,国生みや神生みの「神功」はすべて伊奘諾尊1人のものだったというのです。そして,前述したとおり,伊奘諾尊は淡路島の神として登場しますが,伊奘再尊の消息は,以後,ぱったりと途絶えてしまいます。 ここからは日本書紀を論ずることになってしまいますので,詳しくは語れません。私は,伊奘再尊は,日本書紀の基本原理たる陰陽2元論に基づき,国生みをするために作り出された神ではないのかと考えています(第5段第6の一書で黄泉国に行ったではないかという人がいるかもしれません。しかしそれは異伝です。異伝と公定解釈である本文を,ごっちゃに読んではいけません。そんなことをしているから,いつまでたってもわけがわからず,日本神話の森をうろうろとさまようことになるのです)。 こうしたことから,伊邪那美命が「黄泉津大神」になったという古事記の伝承は,古事記ライターの創作だと考えるわけです。
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