第15 日本書紀と古事記の神話の体系的理解

 

古事記の物語のおかしさ

 さて,誓約に勝ち,神々を生んだ速須佐之男命は,根の堅州国へは降りません。出雲にも降りません。高天原の田を破壊したり,ひと暴れして,有名な天照大御神の天の石屋隠れを引き起こします。それは,皆さんご承知のとおり,天照大御神が出てきてめでたしめでたしとなるのですが,その結果速須佐之男命は,「八百萬の神」により,「神逐らひ逐らひき」となって,ここでやっと出雲に降るのです。

 そもそも速須佐之男命は,「然らば天照大御神に請して罷らむ」とか,「罷り往かむ状(さま)を請さむと以為(おも)ひてこそ参上り(まいのぼり)つれ」と言って,高天原に上ったのでした。その用事は済んだはずです。ついでに神々まで生んでしまいました。なぜさっさと出雲に降らないのでしょうか。
 ここには,2つの追放があります。伊邪那岐命による追放と,八百萬の神による追放。なぜ,この2つの追放があるのでしょうか。
 また,根の堅州国ではなく,なぜ出雲に降るのでしょうか。

 後者について,根の堅州国は,素戔鳴尊が行きたいと願った国にすぎず,伊邪那岐命は,「汝(いまし)はこの国に住むべからず」と命令しただけとも言えます。ですが,「この国」というのが葦原中国であれば,出雲国に行くのはおかしいです。速須佐之男命が命令されたのは「海原」の支配ですから,海原から追放されたのでしょうか。

 日本書紀本文も同じような展開ですから,同様の問題があります。


日本神話の体系的理解

 日本書紀を論ずることになってしまうので,要点だけ説明しておきましょう。

 じつは天照大神は,五穀と養蚕の神なのです。弥生の神なのです。
 日本書紀第5段第11の一書にはっきりと書いてあります。天照大神の命令で葦原中国に派遣された月夜見尊は,保食神(うけもちのかみ)に会います。保食神は,飯と魚と獣肉で,月夜見尊をもてなそうとします。しかし月夜見尊は,これを殺します。その死体から,五穀が生まれます。天照大神は,その五穀を喜んで,「顕見(うつしき)蒼生(あおひとくさ)の,食ひて(くらいて)活(い)くべきものなり」,すなわち被支配者たる人民(ひとくさ)が食べるものであると定めました。そして,「天邑君(あめのむらのきみ)」すなわち天上界における村の長を定め,「天狭田(あまのさなだ)及び長田(ながた)」を作りました。また,蚕も飼い始めて,養蚕が開始されました。こうして天照大神は,五穀と養蚕の創始者となりました。

 縄文時代にも稲作があったと言われています。ですから,保食神のもてなしのメインディッシュは,海でとってきた魚と山でとってきた獣であると言えます。保食神は,狩猟採集社会の神なのです。それを殺して,五穀と養蚕が生まれる。天照大神がその創始者となる。この伝承は,縄文から弥生への変化を,ストレートに語っているのです。しかも,保食神を撃ち殺すという,血なまぐさい伝承です。そうした眼でよく読み直すと,支配命令の体系が露骨な,権威的権力的な伝承です。
 権威的権力的な人々が,武力で縄文社会を打ち倒し,弥生社会を打ち立てた。そんなことを考えさせる伝承なのです。

 第7段本文の天照大神も,高天原で五穀を栽培し,養蚕を営んでいます。田の名前は「天狭田(あまのさなだ)・長田(ながた)」です。同じ名前です。ところが,誓約に勝った素戔鳴尊は,調子に乗って,天照大神が大切にしていたこれらの田をめちゃくちゃにし,新嘗の祭りの神聖な場所に糞をし,その神聖を冒涜しました。さらに,天照大神が神衣(かんみそ)を織っているところへ皮をはいだ天斑駒を放り投げ,機織りを妨害しました。

 素戔鳴尊は,五穀と養蚕を冒涜する神であり,弥生文化を理解しない邪神であり,天津罪(あまつつみ)を負って祓われる神なのです。
 だからこそ,葦原中国に対する侵略が開始されるのです。
 その素戔鳴尊が,次の第8段本文では,出雲に降って国の基礎を作ります。その子大己貴神は,葦原中国を建設することになるのです。こうして,国譲りという名の侵略の対象が用意されます。

 そうした意味で,天石窟の話は,天照大神の偉大さを称揚した物語ではありません。主人公はあくまでも素戔鳴尊です。素戔鳴尊が,天照大神が体現する五穀と養蚕を冒涜することこそが,主題なのです。これによって,国譲りという名の侵略の理由を語っているのです。

 支配を正当化する神々を生んだあと,支配の理由を語るのです。さらに,支配される国を語るのです。こうして,国譲りという名の侵略と天孫降臨になだれ込んでいくのです。


体系的理解の根拠

 根拠は,ひと言では述べ切れません。これも,日本書紀を論ずることになってしまいます。古事記をひっくり返してみても,何も出てきません。

 世の中の皆が,第7段本文の天石窟は,天照大神を称揚したものだと言います。
 では,なぜ第9段本文では,高皇産霊尊が命令者なのでしょうか。なぜ天照大神が命令しないのでしょうか。天照大神など,無視されているじゃありませんか。

 確かに,第6段本文での天照大神は,男装して弓矢や剣で重武装し,雄叫びをあげる剛毅な神を描いていました。
 ところが第7段本文では,機織りの「梭(かび)」(機織りの道具。横糸を通す管のついているもの)で身を傷つけたことが原因で,天岩窟に籠もってしまう,よっぽどか弱い神として描かれています。そして,自分が隠れたことで世の中は真っ暗闇のはずなのに,なぜこんなに楽しくやっているのでしょうと思い,磐戸を少し開けて様子をうかがいます。
 隠れてはみたけれど,やっぱりみんな困っているのかな。自分をとり巻く世間の様子はちょっと気になる。他でもない自分のために,おどけたり踊ったりしてくれる人がいるんだものね。手力雄神(たぢからをのかみ)が,磐戸が開いた一瞬を捉えて,天照大神を引きずり出しました。天照大神とて所詮か弱い女だから,やっぱり,有無を言わせぬ強引な男が必要だったのさ。というお話しになっています。

 それが証拠に,天石窟から出てきた天照大神は,自ら素戔鳴尊を罰しません。素戔鳴尊を追放するのは,他の神々です。天照大神が最高神だというならば,なぜ自ら罰して追放しないのでしょうか。

 天照大神に関する第6段,第7段の叙述は,一貫していません。こうした天照大神を,いろいろな側面をもった神様ですと,のうのうと解説する人がいます。しかしそれは,何も考えていないことを告白するようなものです。

 要するに,天照大神の叙述など,どうでもよかったのです。そこに一貫性がなくても,どうでもよかった。物語の叙述の主人公は,あくまでも素戔鳴尊だったのです。

 素戔鳴尊が天照大神と誓約をして,将来,葦原中国を支配する神々を生み(正統性の契機),素戔鳴尊が乱暴狼藉をはたらいて邪神として追放され(国譲りという名の侵略の理由),出雲に降って葦原中国を用意してくれれば(侵略の対象),それでよいのです。日本書紀と古事記の神話は,そういったものなのです。

 叙述と文言はどうでしょうか。
 第6段本文は,「是に,素戔鳴尊」と始まっています。第7段本文は,第6段本文を受けて,「是の後に,素戔鳴尊の為行(しわざ),甚だ無状し(あづきなし)」と述べ,素戔鳴尊の暴虐無道の行為を叙述していきます。叙述の焦点は素戔鳴尊です。実質上の主語は素戔鳴尊で始まっています。第8段本文は,「是の時に,素戔鳴尊」です。
 一貫して,素戔鳴尊が主人公です。

 どうでしょうか。これでも天照大神が主人公だと言えますか。


速須佐之男命は利用されているだけだ

 要するに速須佐之男命は,利用されているだけなのです。誰によって?日本書紀に残る伝承それ自体が,そうしたものとして作られているのです。日本書紀編纂者が悪いのではありません。また。この点では古事記ライターが悪いのでもありません。

 だからこそ速須佐之男命は,天照大御神に暇乞いをするなどと言って高天原に上り,神々を生成し,暴れて天の石屋の騒動を引き起こしたうえで出雲に降るという,大きな大きな回り道をするのです。そしてやっと,行きたいと願った根の堅州国に納まるのでした。

 では,いわゆる日向神話(日本書紀第10段),海幸彦山幸彦の物語は,いったい何のためにあるのでしょうか。それは後に検討しましょう。


日本書紀第5段第11の一書から出発して日本神話の体系的理解に挑む

 さてここで,古事記を離れて,日本書紀を検討してみましょう。第5段第11の一書をどう理解するかが,キーポイントです。これは,一見特異な異伝ですが,日本書紀の神話の根幹を提示する,重要な異伝です。

 日本書紀第5段の最後に置かれるのが,第11の一書です。第5段の一書のうち,第1から第5までは,本文の補足です。この中には,軻遇突智に伊奘再尊が焼かれる異伝もありますが,日本書紀編纂者の知性を信用する限り,それは,黄泉国巡りや禊ぎによる神生みを伴った異伝ではないでしょう。あくまでも,本文を前提にして,そうした変わり異伝があったという編集です。

 その後第6の一書が,第5段の一書を支配することになります。この一書は,国生みに続く神生みを語る過程で軻遇突智殺しを語り,それだけでは足りず,殺したときに滴った血からも神が生まれたという,第5段の一書の中で,突出して血なまぐさい伝承です。
 その後の第7の一書以下の異伝は,すべてこの第6の一書を基本とした異伝です。第7から第10の一書は,第6の一書を考え直す材料を与えてくれました。

 しかし,ここで取り上げる第11の一書は,天照大神ら3神が生まれた後,さらに月夜見尊により保食神(うけもちのかみ)が撃ち殺されるという,輪をかけて血なまぐさい異伝となっています。

 第6の一書をエキセントリックに発展させたのが,第11の一書なのです。しかも,権威的であり権力的です。
 しかし,死んだ保食神からは五穀と養蚕が生じます。これは,天照大神を象徴するものとなり,天照大神から弥生文化が始まることになります。特異な異伝ではあるのですが,これ以後の日本書紀の神話の中心思想を提示します。極めて重要な異伝です。これを適当に読んではなりません。


天の下支配者が決まらなかったことをはっきりと示している

 この異伝は,伊奘諾尊が禊ぎによって3神を生んだ後,続けて「三の子に勅任して曰はく(ことよさしてのたまわく)」,として始まります。伊奘諾尊は,「天照大神は高天之原を御(しら)すべし。月夜見尊は,日に配(なら)べて天の事を知(しら)すべし。素戔鳴尊は,滄海之原(あおうなはら)を御すべし」と命令します。

 第5段で天照大神ら3神が生まれましたが,天の下を支配する者は決まりませんでした。日の神と月の神(第5段本文の表記)は天上に送られ,素戔鳴尊は根国に追放されましたから,結局,天の下を支配する者は決まらなかったのです。

 そして,その天の下の支配者不在の時代の物語が,第6段から第8段までの物語なのでした。第6段で天の下支配の正当性の契機が語られ,第7段で天の下支配の理由が語られ,第8段で支配される天の下の現実社会が用意され,そして第9段で,いよいよ天の下侵略が始まるのでした。

 この第11の一書によれば,天照大神と月夜見尊は,並列して高天原を支配します。素戔鳴尊だけが「滄海之原」という天の下を支配するようですが,これはやはり第6の一書で月読尊が支配することになった「滄海原の潮の八百重」と同一の意味でしょう。
 すなわち,古代人が容易に行き来できる沿海ではなく遠洋ですから,やはり異界です。常世国がある異界です。素戔鳴尊は,天の下のうちの海を託されたのではなく,異界を託されたにすぎません。すなわち,やはり天の下の支配者は決まっていないのです。


素戔鳴尊が追放されていない

 この第11の一書では,素戔鳴尊は初めから異界を支配するものとされていますから,素戔鳴尊の追放という問題が出てきません。すなわち,素戔鳴尊が暴虐無道であったとか,泣いてばかりいて母のいる国へ行きたいと望んだとかいうエピソードに,つながらないのです。
 もちろん,根国追放というお話も出てきません。

 とにかく,第11の一書では,支配者として失格との烙印を押されたという話がまったく出てきません。素戔鳴尊は,素直に「滄海之原」を支配したようです。根国追放というお話(第5段のモチーフ)がないです,その前に天上界に上って天照大神と誓約(うけい)をするというお話(第6段のモチーフ,正当性の契機)もなかったのでしょう。その後天石窟の騒動を起こし(第7段のモチーフ,天の下侵略の理由),さらに出雲に降るという話(第8段のモチーフ,侵略される天の下の準備)もなかったのでしょう。

 この異伝だけを読めば,そう考えるしかありません。他の読み方ができますか。


権威的・権力的であり天照大神は独裁者である

 さて,「高天之原」に納まった天照大神は,月夜見尊に,「葦原中国に保食神(うけもちのかみ)有りと聞く。爾(いまし),月夜見尊,就きて候よ(ゆきてみよ)」と命令する。月夜見尊は,「勅(みことのり)を受けて」葦原中国に降る。

 保食神は,月夜見尊をもてなそうとしてごちそうを「饗(みあえ)たてまつる」。その出し方が変わっていて,すべて口から出すのです。首を巡らして国に向かうと飯,海に向かうと魚,山に向かうと獣肉等を口から出します。それを机の上に並べます。月夜見尊は,それらがすべて保食神の口から出てきたので,汚らわしいと言って,「剣を抜きて撃ち殺し」てしまいます。
 そして,天照大神に「復命」して,事情をつぶさに報告します。天照大神はこれを聞いて怒ります。「汝(いまし)は是悪しき神なり。相(あい)見じ」と述べたので,太陽と月が一緒に出ることがなくなりました。

 天照大神は,「日に配べて天の事を知す」はずの月夜見尊に対して,「爾,月夜見尊,就きて候よ」と,あたかも斥候を派遣するかのように命令しています。対等な立場であるはずの月夜見尊も「爾(いまし)」,すなわち「おまえ」呼ばわりです。
 その天照大神の言葉は,すでに「勅(みことのり)」です。天皇扱いです。保食神を殺してきた月夜見尊は,天照大神に「復命」しますが,「復命」とは,軍隊でいえば軍務遂行の報告のようなものです。これを怠ると軍法会議ものなのでしょう。「復命」したかしないかは,第9段の国譲りという名の侵略の場面でも問題となります。

 とにかく,この異伝における天照大神は,立派な独裁者なのです。第7段の天の石屋隠れの,なよなよした女っぽい天照大神ではありません。

 そもそも,3神を生んだ伊奘諾尊自身が,「三の子に勅任して曰はく」でした。「勅任」なんて,律令用語でしょうか。伊奘諾尊も偉くなったものです。もはや,国中の柱を伊奘再尊と回ったり(第4段本文),火の神軻遇突智により死んだ伊奘再尊を嘆いて,一人の子供と引換えに愛する妻を失ったと嘆いたり(第6の一書),黄泉国で会った伊奘再尊に「汝(いまし)を悲しとおもふが故に来つ」(第10の一書)という,おおらかで人間的な伊奘諾尊ではありません。

 ここには,神も人間もない,極めてドライで酷薄な思想があります。神は死なないはずでした。しかし,権力の前ではやすやすと死んでしまいます。人間と同様に撃ち殺されます。こうした伝承を伝えた人々は,すでに神を神とも思っていなかったのではないでしょうか。
日本書紀本文は,これを採用しませんでした。

 要するに,この異伝には,絶対的権力を握った天皇の存在をにおわせるような,支配命令の体系が貫かれているのです。古事記に似てはいますが,またそれよりも迫力がある。


権威的・権力的な異伝の系譜は高天原と葦原中国を語る

 そうした異伝が,何の前提も脈絡もなく,「高天之原」と「葦原中国」を登場させています。私は,国生みに関する第4段第1の一書を思い出します。

 この異伝では,「天神」が伊奘諾尊と伊奘再尊に対して,「豊葦原の千五百秋の瑞穂の地有り。汝(いまし)往きて脩すべし(しらすべし)」と命令したのででした。国生みさえなされていないのに,いったい何なんじゃあ,と言ってあきれかえる異伝でした。いきなり国譲りという名の侵略という侵略かよ,という異伝でした。これが古事記の手本となり,「修理固成の命令」に変換されました。

 第11の一書の「爾(いまし),月夜見尊,就きて候よ(ゆきてみよ)」とまったく同じ感覚です。

 命令される者は,伊奘諾尊であろうと伊奘再尊であろうと月夜見尊であろうと,すべて「汝」ないし「爾」です。お前呼ばわりです。しかも,葦原中国が何の脈絡もなく登場します。そして第4段第1の一書は,国生みがまだ行われてもいないのに,「豊葦原の千五百秋の瑞穂の地有り。汝(いまし)往きて脩すべし(しらすべし)」と命令する,とんでもなくいい加減で出来の悪い異伝でした。国生みがこれから行われるのに,「豊葦原の千五百秋の瑞穂の地有り」とは何事だ。

 こうした権力的・権威的で,葦原中国に結びついていて,しかも論理脈絡一切なしで,出来の悪い異伝は,その対立概念としての高天原にも結びついているのです。

 高天原が何の前提もなく登場するのが第6の一書でした。第5段までの本文は,高天原など,まったく無視しています。ところが高天原は,第6の一書で「天照大神は,以て高天原を治すべし」として登場します。

 もっとさかのぼれば,第1段第4の一書のさらなる異伝の,「高天原に所生(あ)れます神の名を,天御中主尊と白す。次に高皇産霊尊。次に神皇産霊尊」に行き着くのです。
 それは,無前提に支配者がいる世界でした。古事記は,その冒頭で,何の説明もなくこの世界観を押しつけようとします。そして葦原中国は,高天原に支配される対象になっています。

 この支配者の思想のうち,「高天原」は,第6段本文でいきなり本文に採用され,「高皇産霊尊」は第9段本文でいきなり大手を振って登場します。その,日本書紀本文への登場の仕方は,唐突という言葉以外に表現のしようがありません。「高天原」,「葦原中国」という文言が,どのように使われているのか。注意して見ていかねばなりません。日本書紀編纂者は,日本神話の中に,きちんと位置づけていないのです。

 日本書紀本文は,「高天原」という用語を使っていないという学者さんがいます。本文では「天」ないし「天上」となっています。第6段本文で「高天原」が出てきますが,これすらも,テキスト自体に問題があり,本来は「高天」だったのではないかと言います(神野志隆光・古事記・174頁・日本放送出版協会)。私の守備範囲を超えた問題ですが,そのとおりだと思います。


再生のために死ぬ神

 さて,月夜見尊は「剣を抜きて」月夜見尊を「撃ち殺し」てしまいます。第11の一書は,「実に(まことに)已に死れり(すでにまかれり)」と述べ,保食神の死を叙述します。

 先に私は,神は死なないと言いました。
 しかし,冬になれば草木は枯れる。春になれば,いったん死んだ草木は芽を出して再生する。死は再生の必要条件です。ですから,死は終末ではない。死は,再びよみがえるためのワンステップにすぎません。世界中の古代人は,毎年繰り返される死と再生に驚嘆し,ある人は詩を読み,ある人は哲学を作りだし,ある人はそれを科学という理屈で答えようとしました。

 保食神が死ななければならないのは,死と再生がここで語られるからです。その限りで,神の死が扱われます。


縄文から弥生へ・五穀と養蚕の起源を述べている重要な異伝だ

 死んだ保食神の身体の各部から,新たな食物が生じます。頭からは牛馬,額からは粟,眉からは蚕,目からは稗,腹からは稲,女陰(女性の性器,保食神は女なのでしょう)からは麦と小豆。
 整理すると,粟,稗,麦,小豆,稲の五穀と,それを耕す牛馬と,蚕です。要するに,「五穀と養蚕」です。

 天照大神はこれを手に入れて喜び,これは「顕見しき蒼生(うつしきあおひとくさ)の,食ひて(くらいて)活く(いく)べきものなり」,すなわち,これこそ人民(ひとくさ)が食べて生きていくものだと言って,種をまきました。こうして粟,稗,麦,豆は畑の作物となり,稲は水田の作物となりました。さらに高天原の農民の長である「天邑君(あまのむらきみ)」を定め,稲については「天狭田(あまのさなだ)」「長田(ながた)」を作りました。

 こうして稲は,頭がたれるほどよく実りました。また,「此より始めて養蚕の道有り」。すなわち,養蚕の風習もできたのです。

 ここには,畑作と稲作と養蚕の起源が,きちんと整理されています。飯,魚,獣肉を口から出してご馳走にした保食神は死に,田畑を耕してつくる五穀と養蚕が生まれたのです。


縄文から弥生へ・狩猟採集社会から農耕社会への変化が叙述されている

 保食神は,国すなわち陸の飯,海の魚,山の獣肉を食料としていた,晩期縄文時代を象徴しているのではないでしょうか。それは,基本的には狩猟採集社会でした。現在の考古学は,縄文時代晩期には,すでに稲作があったとしています。ですから,魚と獣肉だけでなく飯も否定されているのは問題ではありません。

 その時代の食物を司った神が死んで,五穀と養蚕が始まるのです。その創始者,主宰者は,天照大神その人です。これは,縄文晩期の人々がいつき祭っていた神が死んで,弥生の人々いつき祭る神に交代したことを示しています。

 天照大神は,五穀と養蚕の創始者であり,農耕社会を象徴する弥生の神なのです。


縄文から弥生へ・変化は武力により行われた

 そうした変化が,「剣を抜きて撃ち殺」すことにより行われたと書いてある点も重要です。

 伊奘諾尊によって高天原の支配者となった天照大神は,月夜見尊に対して,葦原中国にいる保食神とやらを偵察してこいと命令します。
 保食神は,葦原中国,すなわち晩期縄文時代の,食物の神なのです。その神が,国(すなわち陸地)に向かう飯,海に向かう魚,山に向かう獣肉,すなわち,ありとあらゆる山海のご馳走を差し出して,「饗(みあえ)たてまつ」ったのです。神武紀以降を読むとよくわかるように,天皇が地方を巡幸すると,土地の首長が,やはり「饗(みあえ)たてまつ」りました。ご馳走を出してもてなすのです。

 縄文晩期の神,保食神は,月夜見尊を最大限歓待したのです。ところがそれを撃ち殺して,五穀と養蚕に変えてしまう。
 ここに,血なまぐさい歴史を感じ取らなければなりません。権威的・権力的な第11の一書の異常とも思える雰囲気と共に,殺戮を把握しなければなりません。

 そのご馳走は,なぜか保食神の口から出てきました。その理由は考えても仕方がありません。お尻の穴から出すわけにはいかないのでしょう。ドラえもんのように,お腹から出すわけでもないでしょう。やはり,出すとしたら口から出すのでしょう。

 問題は,とにかく月夜見尊が,これを理解できなかったことです。

 「穢(けがらわ)しきかな,鄙(いや)しきかな」と言って,撃ち殺してしまう。ここに,相互理解不能な,文化の溝があったに違いありません。保食神は,金属器である剣を知らなかったかもしれません。
 この報告を受けた天照大神は,月夜見尊の暴虐をよく思わずに怒りました。しかしそれは,一方的悪者にはなりたくない人間(この神話を作った人間)の浅知恵であり,結局,この保食神殺しによって天照大神は五穀と養蚕を手に入れ,その創始者,主宰者となるのです。

 文化ないし文明が極端に違うと,往々にして,こうしたことが起こります。征服される人々は,征服に来た人々を歓待してしまうのです。南アメリカの原住民とスペイン人とがそうでした。
 縄文から弥生への変化も,縄文人の歓待にもかかわらず,剣による殺戮により行われたのです。

 神の死と,神の交代は,現実に生きている人々の交代を意味します。それが「剣」によりなされました。この第11の一書には,そうした事情が,はっきりと叙述されています。


縄文から弥生へ・第5段第11の一書が第7段本文につながっていく

 この,五穀と養蚕の主題は,第7段本文につながっていきます。

 第5段第11の一書は,五穀の起源を述べ,縄文時代の狩猟採集経済から,弥生時代の農耕経済への転換を叙述していました。そこでの天照大神は,五穀と養蚕の創始者であり,農耕社会を象徴する弥生の神でした。

 これは,まさしく第7段本文の主題なのです。確かに第7段は,第5段第11の一書とは異なり,権威的,権力的ではありません。しかし,ここでも天照大神は,五穀と養蚕を営んでいます。ですから,第5段第11の一書に続けて第7段本文を読むと,その叙述の流れがよくわかるのです。

 たとえば,第5段第11の一書,第7段第3の一書,第8段第4及び5の一書とつなげて読んだ方が,一貫します。その面白さは,後に述べます。


縄文から弥生へ・素戔鳴尊の暴虐は弥生文化すなわち五穀と養蚕に対する文化的反逆なのだ

 延々と,縄文から弥生というテーマを述べてきました。その理由は,天照大神を「五穀と養蚕」の神,すなわち弥生の神として確定することにより,素戔鳴尊を論じたかったからです。

 くどいようですが,第5段第11の一書で,五穀と養蚕が生じます。天照大神はこれを「喜びて」,人民(ひとくさ)が食べるものであると命令して,粟,稗,麦,豆を畑作物とし,稲を水田の作物とします。そしてこれらを作る責任者として,「天邑君(あめのむらのきみ)」すなわち天上界における村の長を定め,自ら初めて稲を植えて,「天狭田(あまのさなだ)及び長田(ながた)」を作りました。これはよく実って稲穂が垂れ,たいへん気持ちがよかった。また,蚕も飼い始めて,養蚕が開始されました。

 だからこそ,農耕や養蚕に対する破壊行為は,天津罪(あまつつみ)になるのです。それは,弥生文化に対する反逆なのだ。

 第7段本文は,誓約に勝った素戔鳴尊の,暴虐無道の行為を叙述しています。誓約に勝った素戔鳴尊は,調子に乗って,天照大神が大切にしていた「天狭田(あまのさなだ)・長田(ながた)」に重播種子(しきまき)し(播いた種の上からさらに種をまいて栽培を妨害すること),畦を壊し,天斑駒(あめのぶちこま)を放って田をめちゃくちゃにし,新嘗(にいなめ)のための神聖な場所である新宮に糞をします。こうして稲の栽培を妨害し,その神聖を冒涜しました。それだけでなく,天照大神が神衣(かんみそ)を織っているところ(養蚕の成果の場面です)へ,皮をはいだ天斑駒を放り投げ,機織りを妨害しました。

 ここには,稲があり,田があり,馬があり,蚕があります。まさに,第5段第11の一書が述べた,五穀と牛馬と養蚕があります。

 素戔鳴尊の行為は,天照大神が創始し,大切にしていた,稲と蚕に対する妨害ないし冒涜行為だったのです。素戔鳴尊は,弥生文化を理解しない,異質の文化に属する神です。それは,縄文文化しかありません。後に検討するように,大八洲国に木の種をまいた,縄文の神だったのです。


縄文から弥生へ・弥生文化を理解できないと一方的に思われた者たち

 日本列島には,古来から縄文人が先住民として生活していました。そして,縄文文化が花開いていました。それは,決して木の実を拾い獲物を捕るだけの,かつかつの生活ではありません。青森の三内丸山遺跡を想起するまでもなく,大木を利用し,場合によっては樹木を栽培して食料を蓄え,集住していました。交易も盛んでした。魚もたくさん捕っていました。

 しかしこのような人々は,五穀と養蚕をもつ弥生人の侵入により,混血しながらも追いやられていきました。そして,征伐の対象になったのです。
 それが,東国の毛人であり,東北の蝦夷です。現在の群馬,栃木地方を指す両毛地方の語源は,毛の国にあります。これは東国の大豪族であったらしく,武蔵国造が跡目争いしたとき,一方は大和朝廷を頼り,一方は毛の国を頼ったほどです。それくらい勢力が強かったのです。その毛の国が上毛野国(かみつけのくに)と下毛野国(しもつけのくに)となり,上野国,下野国となったのです。
 アイヌは,最後まで弥生の血と混血しなかったと言われています。北海道に追いやられて,結果として縄文の血を守ったという,学者さんの見解があります。

 縄文人は,今の日本人の骨格を作っています。日本人は,誰でもみんな,縄文の血と弥生の血の混血なのです。ですから,蝦夷を蔑む者は,日本人の骨格を蔑む者である。東北を蔑む者は,日本古来の文化を理解しない,およそ文化とは無縁の人間と言わねばなりません。


縄文から弥生へ・蝦夷の生活と扱われ方(景行天皇27年2月)

 縄文人は,どのような仕打ちを受けたのでしょうか。

 まず,景行天皇27年2月を見ると,征伐の対象になっています。
 有名な武内宿禰(たけしうちのすくね)は,北陸や東国を巡察して報告します。東国の田舎に,「日高見国(ひたかみのくに)」がある。その男女は髪を結い,入れ墨をして,勇猛果敢である。これらを「蝦夷」という。土地は肥えて広い。「撃ちて取りつべし」。当然,剣で討ち取るのでしょう。そしてそこに,五穀と養蚕を広めるのでしょう。

 怖い人たちがいたもんだ。


縄文から弥生へ・蝦夷の生活と扱われ方(景行天皇40年7月)

 景行天皇40年7月も面白い。有名な日本武尊が,景行天皇の要請に応じて蝦夷征伐を決意する場面です。

 景行天皇は,東国が動乱しており,「暴(あら)ぶる神多(さわ)に起る」と述べます。
 この「暴ぶる神多に起る」という表現は,葦原中国に「道速振る(ちはやぶる)荒振る国つ神等の多なり」(古事記,国譲りという名の侵略の場面)とよく似た表現です。日本書紀にも,葦原中国を描写する際によく出てきます。

 葦原中国は,縄文文化の世界だというとらえ方です。

 さらに景行天皇は,蝦夷征伐を決意した日本武尊に,斧とまさかりを授けて言います。
 東国の田舎に蝦夷がいる。これは非常に手強い敵だ。男女混じって生活しているから,父子関係を定めがたい。冬は穴に寝て,夏は巣に住む。毛皮を着て獣の血を飲む。山には飛ぶ鳥のように登り,草原は獣のように走る。「党類(ともがら)を聚(あつ)めて,辺堺(ほとり)を犯す」。あるいは,「農桑(なりわいのとき)を伺ひて人民を略む(かすむ)」。撃とうとすると草に隠れるし,追うと山に逃げる。昔から今に至るまで,天皇のもとに帰順してこない。

 ここには,定住することなく,大自然を縦横無尽に駆け回っていた縄文人が活写されています。
 さらにここが大切なのですが,蝦夷は,土地の境界など考えていません。素戔鳴尊が,土地の境界をわからなくして祓われる神になったことを思い出してください。土地はむしろ,略奪の対象です。農民にとっては,土地の境界は大切です。しかし,狩猟採集民族である縄文人には,そんなことはわかりません。農耕の成果はよくわかるので,収穫の時を狙って取りに来ただけです。それが何で悪いの。

 縄文人と弥生人との間の,深くて暗い溝を考えるべきです。マーラーの交響曲第2番第1楽章冒頭のように。


縄文から弥生へ・弥生と縄文の併存

 ちょっと待ってくれ。日本神話に縄文時代が登場するなんて,時代設定が合わないんじゃないの,と言う人がいるかもしれません。

 そんなことはありません。日本列島全体が,一気に弥生文化に変貌したのではありません。蝦夷征伐は,たしか,平安時代になってもやっていたじゃありませんか。縄文世界は,まだまだしっかりと,日本列島に残っていました。
 結局,現代の私たちの眼からすれば,弥生が生き残ったから,弥生時代になっていたというだけのことです。歴史なんてそんなもんです。
 理屈を言えば,日本書紀や古事記の編纂当時,面積だけでいえば,現在の日本という国の主流が本当に弥生だったのか。むしろ,まだまだ縄文世界だったのではないかと思います。

 蝦夷は,弥生の時代に生きた縄文人でした。

 一般には,紀元前5〜4世紀頃から紀元後3世紀頃までを弥生時代といいます。その後を古墳時代といいます。しかし,現代の日本列島全体が,突如,弥生文化の波に洗われたのではありません。古墳時代になっても,縄文世界に生きている人々は,たくさんいました。古墳時代を過ぎても,たくさんいました。

 その後彼らは帰順し,混血していきますが,一部は山人になってアウトローとして生き残り,一部は北海道に追いつめられて,アイヌとなったのでしょう。山人となった者たちは,中世まで生き残ります。


縄文から弥生へ・弥生文化を東国に及ぼしたのが神武天皇以降の系譜である

 このように,平気で神を殺し,権威的かつ権力的な思想をもった氏族こそが,五穀と養蚕をもたらして農耕社会を作りました。
 しかもその氏族の伝承には,無前提に,高天原と葦原中国が登場するのです。

 話は飛びますが,第11段本文には,神武天皇,すなわち神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)ら4人の兄弟の名前が列挙されています。通説によれば,これらすべては,稲に関する名を負っているばかりか,天照大神から生まれた正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊以下の皇統を受ける者は,皆,稲に関する名をもっています。

 狩猟採集社会に五穀と養蚕をもたらして農耕社会を作った者たち。弥生時代をもたらした者たちは,神武天皇につながる氏族だったのです。仁賢天皇8年には,「五穀」が豊かに実り,「蚕」と「麦」がよく収穫できたので,天下太平だったとの叙述があります。

 この点は,日本書紀第10段以降に登場する,海幸彦山幸彦の物語にもかかわってきます。海幸彦,すなわち吾田土着の海人,すなわち縄文以来の日本の海人は,山幸彦,すなわち矢,すなわち天羽羽矢を持つ氏族に征服され,混交していきます。それは,五穀と養蚕と矢を持つ人々だったのでしょう。

 天降った天孫は,地元の海洋系の氏族と交わりつつ,支配を確立します。その血の系譜が,日本書紀に書かれています。詳細は,後述します。


縄文から弥生へ・さらに朝鮮につながっている

 さて,五穀と養蚕をもたらした者たちは,どこから来たのか。それは朝鮮だ。

 前述したとおり,死んだ保食神の頭からは牛馬,額からは粟,眉からは蚕,目からは稗,腹からは稲,女陰からは麦と小豆が生じました。
 学者さんたちは,@ 保食神の身体の各部と,そこから生じた五穀との間には,朝鮮語で初めて解ける音韻対応があるといいます。それぞれの朝鮮語の発音が似ているというのです。A そしてその理由として,日本書紀編纂者に,朝鮮語がわかる人がいて,人体の各部分と,そこから成った作物とを整理して結びつけたのだといいます。

 私は朝鮮語がわかりません。わかる人は確認してみてください。ですから,@の部分は,学者さんの仕事を信頼するしかありません。
 素人でも考えられる部分は,Aの後半部分です。これはおかしい。

 そもそも,朝鮮語との関係は,第11の一書という異伝に書かれているのです。日本書紀本文ではありません。
 日本書紀編纂者が叙述したのは,もっぱら本文です。一書は,その参考資料として並べただけです。整理して作為を加えるのは本文です。本文を叙述する基になった異伝は,そのまま異伝として紹介しているのであり,それをさらに整理改編する理由も必要もありません。その証拠に,特に第10段の異伝では,云々云々として,不必要なところは,はしょっています。

 異伝全体が,きちんとありました。本文を確定して,必要な限りで異伝を紹介しました。だから,断片的になっています。場合によっては,本文に匹敵する異伝を,必要な部分だけはっしょって引用しました。云々云々です。それが,日本書紀編纂者の編纂態度です。

 一書には,日本書紀編纂者の作為,すなわち朝鮮語がわかる人の朝鮮語の遊びが入りこむ余地がないのです。


縄文から弥生へ・学者さんの説はおかしい

 この点学者さんは,異伝と本文とを区別せずに,異伝である一書まで適当に改変していると考える人が多いです。
 しかし,そうなると,当時第1級の栄えある官僚,日本書紀編纂者をどうとらえるか。公権的公定解釈である本文と,異伝である一書との関係をどう考えるか。我が国最初の官撰の歴史書である日本書紀をどう考えるか。そんな問題になります。原理原則から,どう考えるかという問題です。

 しかし,そんなことは,まあ,どうでもいいです。私はこだわりません。

 問題は,なぜここでそんな遊びをするのか,合理的理由がないということです。
 日本書紀編纂の段階で,朝鮮語で語呂あわせの遊びをする理由が,まったくわからないのです。保食神の身体の各部と,そこから生じた五穀との間には,朝鮮語で初めて解ける音韻対応がある,と。それはいいです。それを,日本書紀編纂者が結びつけて作ったなんて。いったい何の必要があって作ったの。「日本神話学者さんたちのトンデモ度」で論じたように,後世,後付けの言い訳をしてもらえることを予測して音韻対応を仕掛けたとでもいうのでしょうか。
 誰にも気づいてもらえなかったら,悲しいよね。

 学者さんのトンデモ度,ここに極まれり。

 さらに,身体の5箇所について,五穀等の音韻を当てはめていったら,きちんと当てはまったというのも変です。そう思いませんか。五穀等の音韻が,音韻の変化としては極めて限られた身体の各所にきちんと当てはまったというのは変です。むしろ,初めから対応していたと言うべきでしょう。五穀が先か,身体の各部が先かはわかりませんが。

 この学者さんの説には,根本的には,叙述と文言の解釈態度の問題があります。

 第11の一書に音韻対応があるというならば,もともと音韻対応があったのです。五穀と身体の各部とは,朝鮮語で対応しているのです。素直に受け入れればいいじゃありませんか。
 それをひっくり返す解釈を示そうというならば,学者さん自身の側で,日本書紀編纂者がそんな遊びをした理由を立証しなければなるまい。たぶん,そんな立証はできないでしょう。どうしても推測を立証したいのであれば,その根拠を示してください。そういうことになります。なぜって。客観的に目の前にある第11の一書は,音韻対応しているのですから。

 これを,推測というのです。悪しき推測です。日本神話の世界なんて,「本当に」,こんなもんです。私が言った,「本当に」という部分を,よーく噛みしめてください。わかる人にはわかります。志ある人にはわかります。

 要するに,第11の一書という異伝を残した氏族は,朝鮮半島出身なのです。当たり前の結論かもしれませんが,弥生文化は,やはり朝鮮からもたらされました。


縄文から弥生へ・さらに中国につながっている

 古代社会では,農業を営むことが文化をもっているか否かと同等に論じられた時代がありました。

 斉明天皇の時,遣唐使は,苦難の末に洛陽で時の皇帝高祖に接見します。国の情勢を説明するなかで遣唐使は,蝦夷が毎年大和の朝廷に朝貢していると答えます。それが,大八洲国を平定したという誇りのようです。
 高祖は問います。「其の国に五穀有りや」と。遣唐使は答えます。「無し。肉を食いて(くらいて)」生活していると。さらに高祖は,その国に家屋はあるのかと問います。遣唐使は答えます。家屋はない,深山の中で樹の下に住んでいると(斉明天皇5年7月,伊吉連博徳の書)。

 ここでの蝦夷は,未開の縄文人です。家屋という上等な居住施設は,農耕という定住生活をしているからこそ作られるのです。だから,五穀があるかという質問と並んで,家屋があるかと問うたのです。こうした質問が,未開か否かを図る1つの尺度だったのですね。
 古代社会は,農業を営むこと,すなわち農業の基本である五穀を耕作して定住生活をしているか否かが,文化があるか否かと同等に受け取られる時代でした。

 中国,朝鮮,五穀,牛馬農耕,養蚕。このつながりが,第11の一書に,しっかりと叙述されているのです。


日本書紀における産霊の原理・五穀を喜んだのは天照大神ではなく高皇産霊尊だったのではないか

 第11の一書からどんどん遠ざかって,ほんとかなあ,というところまで行ってしまったかもしれません。

 さて,第11の一書に戻りましょう。第11の一書によれば,五穀こそ人民(ひとくさ)が食べるものだと言って喜び,しかも養蚕の創始者となったのは,天照大神でした。しかも天照大神は,本来高皇産霊尊の世界であるはずの,高天原にいることになっています(第11の一書では「高天之原」)。

 しかし本当にそうでしょうか。本当に天照大神だったのでしょうか。私は疑問に思います。高皇産霊尊だったと思うのです。

 そもそも,産霊とは何か。日本書紀の原理原則に立ち戻って考えてみましょう。

 第5段の一書には,すでに「産霊」の原理が登場していました。第5段第2の一書では,火の神軻遇突智が土の神埴山姫(はにやまひめ)と結婚して稚産霊(わくむすひ)を生みます。この稚産霊の「頭の上に,蚕と桑と生れり。臍の中に五穀生れり」。
 植物を焼いた後に残る灰は,上等な肥料です。焼き畑という農法には,合理的な根拠があります。古代人は,火と土が出会うところに「産霊」,すなわち生産する不思議な霊力が宿ると考えたのです。ここでは,五穀と養蚕が,「産霊」に結びつけられています。

 これを一歩推し進めたのが,第3の一書です。
 火の神と土の神が「産霊」を生むという伝承がありました(第2の一書)。しかし,もっと物事を追究し,考る人たちは,なぜ「産霊」が生まれるのかという疑問に立ち至ります。「産霊」の根源を探ろうとします。それは,火と土とのどちらかに,もともとあった性質なのではなかろうか。どちらかといえば,火であるに違いない。なぜならば,土はいつでもどこにでもあるから。いつでもどこにでもある土が火と出会ったときに限って,植物が繁茂する。だから,そこに「産霊」が生まれる。

 してみれば,「産霊」は,土ではなく火がもっている性質なのです。だからこそ,第2の一書のあとに第3の一書を付け加えて,軻遇突智が,「火産霊(ほむすひ)」という名で登場します。
 「火産霊」という感覚は,「火」自体に,生成の霊力があるというとらえ方です。火がものを生成するという感覚です。第2の一書を前提にして考えを推し進めると,「産霊」の根源は,「火」にあるという結論になります。

 日本書紀編纂者は,確かに,優れた編集者でした。古事記ライター風情とは格が違う。完全に違います。物事をきちんと考えるエリート官僚でした。だからこそ,第2の一書の後に第3の一書を並べました。逆では困るのです。これを理解しなければならない。

 「高皇産霊尊」という神名は,明らかに,これらの伝承の系統に属しています。「産霊」の思想に属する神です。ですから,日本書紀が残した「産霊」の原理からすれば,高皇産霊尊こそが五穀と養蚕の創始者であり,縄文を否定して弥生をもたらした神になるはずです。

 前述したとおり,高皇産霊尊と高天原がセットになった思想は,権力的,権威的であり,場合によってはファシズム的でした。第9段本文では,いきなり命令神として登場します。高皇産霊尊こそが,縄文文化の象徴,保食神を撃ち殺すにふさわしい神でした。


常世国に故郷をもつ海洋神天照大神

 では,天照大神はどうなるのでしょう。五穀と養蚕の創始者としてふさわしいのでしょうか。
 結論から言えば,まったくふさわしくない。むしろ矛盾しています。

 じつは,日本書紀が語る天照大神は,海人がいつき祭っていたであろう海洋神なのです。日本書紀の叙述と文言は,以下のとおりです。

 天照大神は,大和を離れて諸国をさまよい始めます(崇神天皇6年)。そして,「是の神風の伊勢国は,常世の浪(とこよのなみ)の重浪帰する(しきなみよする)国なり。傍国(かたくに)の可怜し国(うましくに)なり。是の国に居らむと欲ふ。」と述べて,伊勢にある五十鈴川の川上に鎮座しました。海の彼方の常世国から打ち寄せる波を愛したのです。

 そしてその「斎宮(いわいのみや)」は,五十鈴川の川上に建てられたにもかかわらず,「磯宮(いそのみや)」と呼ばれました(垂仁天皇25年3月)。いわゆる伊勢神宮の縁起譚です。そしてその宮は,磯の宮と呼ばれたのです。

 そういえば,天の岩窟にこもった天照大神をおびき出そうとして鳴いた鳥は,「常世の」長鳴鳥でした(第7段本文)。常世郷は,海の彼方にある常住不変の国です。私は,そのイメージを前述しました。要するに,天照大神の故郷にいる鳥を鳴かせたのです。

 さらに,天照大神を誘い出すために使った榊には,いくつかの象徴物が取り付けられました。榊の木の上端は八坂瓊の五百箇の御統(やさかにのいおつのみすまる)。中程に八咫鏡(やたのかがみ)。下端に青和幣(あおにきて)と白和幣(にろにきて)。
 八坂瓊の五百箇の御統(やさかにのいおつのみすまる)は,誓約による神々生成の場面(第6段本文)で,天照大神が身につけていたアクセサリーです。ここから正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊らが生まれました。

 八咫鏡は天照大神信仰の象徴です。共に天照大神の象徴です。仲哀天皇8年正月には,筑紫に行く仲哀天皇の一行を,岡県主(おかのあがたぬし)の祖(おや),熊鰐(わに)が,船の舳先に立てた賢木(さかき)に,上から白銅鏡(ますのかがみ),十握剣(とつかのつるぎ),八坂瓊(やさかに,玉のこと)をとりかかげて出迎える話が出てきます。筑紫の伊都の県主の祖,イトデも,同様にして出迎えます。榊に鏡等を取り掲げる慣習は,海洋民と繋がりがあるのです。

 問題は,幣(ぬさ)です。青和幣と白和幣は,青い幣(ぬさ)と白い幣です。通常は白和幣で足ります。なぜ青和幣も必要なのか。これらは,青い海水と白い波を象徴しているのでしょう。海洋神天照大神を誘い出すには,他の神とは異なり,やはり青と白が必要だったのです。

 このように,天照大神は海洋神です。しかも,常世国を故郷にもつ海洋神です。伊勢国に来て,「常世の浪の重浪帰する(しきなみよする)国」と観じたというのは,常世に故郷をもつ神だからです。常世の長鳴鳥(ながなきどり)を鳴かせて天石窟から天照大神を誘い出そうとしたことも,それを裏付けています。

 海人がいつき祭った神ですが,瀬戸内海あたりの,すぐ目の前に陸地や島が見える土地に育った海人がいつき祭る神ではありません。瀬戸内海のようなちっぽけな海の神ではありません。海の向こうに異界を見ることのできない,ちっぽけな海で育った神ではありません。その果てに異界がある,外洋に面した沿岸地方でいつき祭られた神です。大海原の向こうには,船で行けない異界があると信じていた海人がいつき祭った神です。異界をおそれていた海人がいつき祭った神です。
 しかも,太陽神です。

 大海原の水平線に昇る太陽。これが天照大神です。ですから,瀬戸内海あたりの神ではありません。


じつは天照大神は五穀と養蚕にふさわしくない

 この,天照大神のイメージ。これを承認するかどうかが根本問題です。私は承認します。

 その神が,保食神殺しにかかわったという。天照大神が派遣した月夜見尊が,魚と獣肉を出してもてなそうとした保食神を撃ち殺してしまったという。そして,海の魚はもちろん山の獣肉も否定して,田畑と蚕を得たことを喜び,稲は人民(ひとくさ)が食べるべきものだと言ったという。さらに養蚕の創始者になったという。

 これは,明らかにおかしい。

 海洋神のくせに魚を嫌い,漁労採集生活を放棄しています。天照大神は,五穀と養蚕にふさわしい神とはいえません。本来は,海人が信仰していた単なる「日の神」,海の向こうに日が昇るときの日の神であり,天照大神とは関係がなかったのではないか。

 むしろ,高皇産霊尊が五穀と養蚕を始めたと考える方が,筋が通っているのではないか。

 私は,牛馬,粟,蚕,稗,稲,大豆,小豆を喜び,これこそ人民(ひとくさ)が食べるものだと言ったのは,天照大神ではなく高皇産霊尊だったと思います。海洋神であり,海人がいつき祭っていた天照大神(当時は日の神)が,食物としての魚を否定するはずがないと思うのです。

 私は,古代日本の神話とは異質で,侵略的,征服的な気質をもった氏族,魚や獣肉を否定して稲作と養蚕をもたらした氏族,こうした朝鮮系の氏族がいたと考えます。それは,「常世の浪の重浪帰する(しきなみよする)国」を愛する天照大神(当時は日の神)ではありません。
 歴史の都合で天照大神を称揚するということになりましたが,じつは,高皇産霊尊だったのではないか。高天原という世界をもつ高皇産霊尊ではないのか。そうした考えをもっています。


日本書紀の根幹をなすねじれ構造・天照大神が高天原に結びつく(ねじれた接ぎ木構造)

 本来,高皇産霊尊がいるべき場所に,天照大神が居座っています。このねじれは,じつは,日本書紀の神話の根幹をなすねじれです。日本書紀の神話の背骨自体がねじれているのです。

 もともと,天照大神と高天原の結びつき自体が,ねじれていました。

 高天原は,第1段第4の一書の中で,さらに異伝として紹介されている,ほんのちょっとした伝承に,突如登場する世界でした。それは,高皇産霊尊ら3神がいる世界であり,日本書紀編纂者は,まともに扱っていませんでした。神話を語る中で,きちんと位置づけようともしませんでした。
 そして高天原は,高皇産霊尊のいる世界であり,天照大神がいる世界ではありません。

 一方,今まで検討した一書で明らかになったとおり,高天原は,権力的,権威的,支配的な思想と結びついた観念です。支配命令体系の頂点に立つ,支配者がいる世界です。

 また本来は,日の神=大日霎貴であり,天照大神という名ではありませんでした。天照大神も高天原も,本文では採用されない異伝にすぎなかったのです。
 第5段までの日本書紀本文には,天照大神は登場しません。また,「天」,「天上界」という用語を使い,不用意に高天原という言葉を使っていません。

 ところが第5段第11の一書では,高天原(表記は「高天之原」)にいる天照大神が,「産霊」,すなわち五穀と養蚕に結びつくのです。
 これを,どう理解したらよいのか。

 この天照大神と高天原が,第6段以降の本文に堂々と登場し,物語の主人公になります。誓約により神々を生成する第6段では,天照大神が高天原にいることになっています。第7段本文はこれを受け,五穀と養蚕の文化とそれに反逆する素戔鳴尊の物語を展開します。それが天石窟の話です。

 こうして,天照大神が,高天原に接ぎ木されるのです。天照大神が,支配命令の体系に結びついてしまうのです。


日本書紀の根幹をなすねじれ構造・結局高皇産霊尊が支配する(ねじれた接ぎ木構造)

 ところが,このねじれは,日本書紀の屋台骨をしっかりと貫いた思想にはなりませんでした。

 第9段では,いよいよ,国譲りという名の侵略と天孫降臨が行われます。日本書紀神代巻のハイライトです。
 ところが,ここで命令者となるのは,高皇産霊尊なのです。公権的公定解釈である日本書紀本文では,高皇産霊尊が命令者になっています。天照大神は,系図に出てくるだけの,単なる添え物扱いです。天孫降臨する神の祖母という地位しか与えられていません。高皇産霊尊こそが,国譲りという名の侵略を敢行する支配者です。

 日本書紀編纂者は,国家公認の歴史書の冒頭につける神話として,天照大神を選ばず,高皇産霊尊を選んだのです。

 侵略される葦原中国は,縄文文化の象徴世界でした。それを侵略して征服する神は,天照大神ではなく,高皇産霊尊でした。だったら,保食神を殺して弥生文化をもたらした者も,高皇産霊尊だったのではないか。

 違いますか。

 一般には,天照大神こそが,国譲りという名の侵略や天孫降臨等の命令者だと考えられています。でも,それは嘘です。そんな観念が広まっているとしたら,学者さんの怠慢です。場合によっては古事記しか読まない,学者さんの怠慢です。

 またそれは,戦前の誤った教育の残滓にすぎません。日本書紀第9段には,本文の他に第1から第8の一書があります。そのうち天孫降臨を描いたものは,本文,第1,第2,第4,第6の一書です。これらにつき,天孫降臨の命令者とそれに伴うアイテムを分類すると,以下のとおりです。

       (命令者)       (アイテム)
本   文   高皇産霊尊       真床追衾
第1の一書   天照大神        三種の宝物
第2の一書   高皇産霊尊       鏡
第4の一書   高皇産霊尊       真床追衾
第6の一書   高皇産霊尊       真床追衾

 第2の一書は,よく読めばわかるとおり,真の命令者は高皇産霊尊です。俗に,天照大神と共に命令するなどとされているようですが,とんでもない誤りです。学者さんさえも,きちんと文章を読んでいません。
 「高皇産霊尊……乃ち二の神を使して,天忍穂耳尊に陪従へて降す(そえてあまくだす)」。ここで改行して,「是の時に,天照大神」と始まり,例の宝の鏡を天子に持たせようとするのです。命令者はあくまでも高皇産霊尊です。天照大神は,父親のような存在の(じつは単なる外戚の父であって,天孫さえも生まれていないのだから,まったくおかしい。それがこの第2の一書の本質的なトンデモ度なのです。)高皇産霊尊の命令に従い,細々と世話をやく母親の役割にすぎません。

 文章は,きちんと読んでください。天照大神は,降臨する天子(天孫ではない。これも,きちんと読んでいない人が,いい加減に書いています。)を思いやる,世話やきの母にすぎません。天照大神が命令者だなんて,きちんと文章を読んでいない者の言うことです。
 ですから,天照大神を命令者とするのは,第1の一書だけなのです。異伝中の異伝にすぎないのです。

 このように,伝承の大多数が,高皇産霊尊を命令者としているのです。天照大神なんて,日本書紀のうえでは,たいした位置づけがなされていません。


日本書紀の根幹をなすねじれ構造・日本書紀編纂者の意思と第1段第4の一書

 天照大神と高天原の結びつきは,結局,中途半端な尻切れトンボで終わってしまいます。いったんねじれた構造は,さらにねじれて巻き戻ってしまいます。天照大神が高天原の支配者になるようでいて,結局のところ,高皇産霊尊が支配者になるのです。

 なぜこんな構造になっているのか。もちろん,日本書紀編纂者が,人為的に接ぎ木したからです。天照大神の伝承と高皇産霊尊の伝承がありました。それを,強引につなぎ合わせたのです。

 そうした日本書紀編纂者の編纂意思を端的に表しているのが,第1段第4の一書の扱いです。日本書紀編纂者は,国土の生成から説き起こすに当たって,高皇産霊尊と高天原を,この第4の一書という異伝の中の,さらなる異伝として,ほんのちょっと紹介しただけでした。本当は,まったく無視するつもりだったのです。ねじれた接ぎ木構造は,第1段第4の一書に,端的に表現されています。

 しかし,はたして,日本書紀編纂者の意思にとどまる問題でしょうか。
 客観的にも,高天原と高皇産霊尊を支配者とする伝承は,元来,国土生成を何も語っていなかったのではないでしょうか。この,支配的,権力的,権威的な伝承は,権力の正当性を語るのに急で,国土生成と国生みという,本来の意味での神話的な神話をもっていなかったのではないでしょうか。端的に言えば,国譲りという名の侵略と天孫降臨の神話しかもっていなかったのではないでしょうか。

 だからこそ,第6段や第7段では,高皇産霊尊が物語の主役になり得なかったのでしょう。産霊の原理の体現者でありながら,五穀と養蚕の文化を担う役割を,天照大神に譲らざるを得なかったのでなないでしょうか。


日本書紀の根幹をなすねじれ構造・とってつけたような高皇産霊尊の扱い

 それが証拠に,高皇産霊尊は,まともに扱われていません。

 高天原と高皇産霊尊は,第1段第4の一書のそのまた異伝で唐突に登場した後,何の位置づけもなされないで放置されます。そもそも,「登場」というよりも,こんな異伝もありましたが,というだけの「紹介」で終わっています。

 その後高皇産霊尊は,第9段に至るまで,まったく無視されます。前述したとおり,第5段第2及び第3の一書で顔を見せた「産霊」の原理も,結局は第11の一書で,天照大神に結びつけられてしまいます。ですから,「産霊」の原理の長たる高皇産霊尊は,登場しようがありません。

 少々顔を出すことはあります。
 第7段第1の一書では,天照大神を誘い出す方策を考える思兼神の父として言及され,第8段第6の一書では,葦原中国を大己貴神とともに作った少彦名命の父として登場します。しかしいずれも,物語の主題にかかわる神ではありません。

 このように,「産霊」の思想と高皇産霊尊は,何の体系的位置づけもなさません。一貫して,一書という異伝に顔を見せるに過ぎない,端役です。一書という異伝を丁寧に点検すると,「産霊」の原理が転がっている,という程度なのです。

 要するに,高皇産霊尊の神話や思想体系など,日本書紀編纂者は,まともに扱っちゃいないのです。


日本書紀の根幹をなすねじれ構造・高皇産霊尊の扱い方は異常である

 そんな高皇産霊尊が,第9段に至って,突如,日本書紀の神話の主人公として登場する。これをどう考えたらよいのでしょうか。

 これは,異常なことです。
 何が異常か。歴史書編纂者の立場に立って考えてみれば明白です。第9段は,国譲りという名の侵略と天孫降臨を描く,日本神話中の大場面です。これが言いたいがために,日本神話をまとめたのです。
 仮に,日本神話なんて所詮造作さ,と言い放つ津田左右吉さんの立場に立っても,とってもおかしいのではないでしょうか。造作ならば,なぜこんな筋の通らない造作をしたのか。もっときれいにまとめればよいではないか。それが造作というものだ。しかし現実には,こうした編纂しかできなかったのです。異常な編纂態度と言わねばなりません。

 第9段本文は,以下に示す系図を誇らしげに語ることから始まります。

天照大神(女神?) ―― 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(男神)
             ↑
             |―― 天津彦彦火瓊瓊杵尊(男神)
             ↓
高皇産霊尊(男神) ―― 栲幡千千姫(女神)

 この系図を見ればわかるとおり,男系男子の皇統譜から見る限り,高皇産霊尊は単なる外戚にすぎません。皇太子に娘を嫁がせて,見事男の子を産ませた父親にすぎないのです。
 その父親が,「皇祖(みおや)」高皇産霊尊と尊称され,生まれた男の子を「崇て(かてて)養(ひだ)したまふ」。そして,ついにその男の子を「葦原中国の主とせむと欲す」。こうして,国譲りという名の侵略と天孫降臨を命令するのです(第9段本文)。

 後述しますが,これもまた,異常とも思えるしゃしゃり出方です。何となく天照大神が皇祖神だと思いこんでいる人たちは,この文章を読んで怒り出すと思います。なぜこんな,単なる外戚が皇統に口を出すだけでなく,皇太子を奪うようにして「崇て養したまふ」のかと。

 これが,異伝ではなく,本文となっているのです。


日本書紀の根幹をなすねじれ構造・体系的理解からすれば天照大神こそが支配者である

 なぜ,これほど異常な編纂をしたのか。

 日本書紀編纂者の当初の編纂意思から考えてみましょう。前述したとおり,日本書紀編纂者は,当初から高皇産霊尊を無視していました。その編纂意思は,第1段第4の一書の扱いに,端的に表れていました。

 その後国生みと神生みが続きます。ここで,日本書紀の体系的理解を思い出してください。
 第5段でいわゆる3貴神(天照大神,月読尊,素戔鳴尊)が生まれます,よく読むと,天の下を支配する者は決まっていませんでした。天の下を支配する者は,第9段の天孫降臨により決まるのです。その間の,天の下を支配する者の不在の時代は,素戔鳴尊の物語なのでした。第6段から第8段の本文は,すべて素戔鳴尊の動静から始まっています。素戔鳴尊が主語で始まっています。

 第6段では,天照大神と素戔鳴尊の誓約により,正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊が生まれます。すなわち,天孫降臨の父親が用意されるのです。こうして,出雲を中心とした葦原中国に降臨する神の祖父は,素戔鳴尊なのであり,素戔鳴尊の別系統の孫が新支配者になるのだからいいでしょ,という正当性の契機が用意されます。
 第7段では,五穀と養蚕の創始者でありそれを作っている天照大神を冒涜する素戔鳴尊を描きます。これにより,葦原中国侵略の理由が語られます。弥生文化を冒涜する,祓われてしかるべき奴らだ,というわけです。
 第8段は,素戔鳴尊による出雲国作りだ。その子大己貴命により,葦原中国が作られました。こうして,侵略の対象が用意されます。

 こうして,いよいよ侵略が始まります。それが第9段なのです。

 この体系的理解からすれば,高皇産霊尊は,無視されてしかるべき存在です。3貴神として生まれたのは高皇産霊尊ではなく天照大神なのですから,(第5段本文),そのまま天照大神が高天原に居座って(第6段本文で高天原にいることが明らかにされる),第9段の命令者になるべきでした。第7段の天石窟の話も,高皇産霊尊はまったく関係がありません。あくまでも,天照大神中心の物語です。

 要するに,第9段で高皇産霊尊が命令者となる必要性も必然性もないのです。神話を語り出すときに高皇産霊尊を無視し,3貴神の1神として天照大神を登場させたのだから,そのまま天照大神が命令者となるべきでした。やはり,造作にしては異常すぎる。あまりにも異常すぎて,造作とは言えません。

 何らかの理由と必要があったと考えなければなりません。

 ひとつは,先に述べました。高天原と高皇産霊尊を支配者とする伝承は,元来,国土生成を何も語っていなかったのではないでしょうか。この,支配的,権力的,権威的な伝承は,権力の正当性を語るのに急で,国土生成と国生みという,本来の意味での神話的な神話をもっていなかったのではないでしょうか。端的に言えば,国譲りという名の侵略と天孫降臨の神話しかもっていなかったのではないでしょうか。

 もうひとつは,高皇産霊尊という立場の問題です。外戚にすぎない父親が,なぜこれほど大きな顔をするのか。そこには,日本書紀編纂時の人間関係が隠れていないか。はっきり言えば,藤原不比等です。
 ただこれは,論証しようがありません。叙述と文言という,この原稿の守備範囲を大きく超えてしまいます。

 もうひとつ言いたいことがあります。
 それは,第10段を経て,神武天皇につながるからです。海幸彦山幸彦のところでも述べますが,朝鮮からやって来た弥生の神,高皇産霊尊こそが,皇室につながる太い血筋でした。それが,南九州に天降って,何もない膂宍の空国をさまよった末,吾田に到着し,そこにいた海人と混交していく。そこにいた日の神とも混交していく。この日の神は,後に天照大神と呼ばれました。

 これについては,再度検討しましょう。


日本書紀の根幹をなすねじれ構造・天照大神の扱いも曖昧だ

 さて,次に天照大神の扱いを検討してみましょう。じつは,天照大神自身も,結構曖昧な存在なのです。

 そもそも,出生した初めから,天照大神と呼んでもらえません。第5段本文によれば,生まれた日の神の名は「大日霎貴(おおひるめのむち)」でした。ただ,本文にある注に,ある伝承では「天照大神」といい,ある伝承では「天照大日霎尊」というとあるのです。神武天皇即位前紀には,「昔我が天神(あまつかみ),高皇産霊尊・大日霎尊,……」とあります。神武天皇に関する伝承が成立した時代にさえ,天照大神とは呼ばれていません。また,世界観としても,権威的権力的支配命令体系の頂点としての高天原とは,無縁でした。

 ところが第6段以降の本文には,天照大神として登場します。誓約により神々を生成する第6段では,天照大神が高天原にいることになっています。それに続く天岩窟で有名な第7段も同じです。ここでは,高天原にいるのはむしろ天照大神であり,高皇産霊尊ではありません。そして,天照大神こそが,産霊の思想の体現者,すなわち五穀と養蚕の体現者として登場してくるのです。

 この神が,日本書紀の神話の根底をなすもの,すなわち五穀と養蚕を体現した神話の主人公のような顔をして登場してくるのです。天照大神が主宰する五穀と養蚕を冒涜した素戔鳴尊は,高天原を追放されます。しかし,国譲りという名の侵略を語る第9段では,なぜか,主役が高皇産霊尊に代わってしまうのです。


日本書紀の根幹をなすねじれ構造・天照大神と高皇産霊尊の結びつき(ねじれた接ぎ木構造)

 日本書紀の神話には,天照大神と高皇産霊尊の出会いと結びつきが,はっきりと残されています。天照大神と高皇産霊尊は,第9段において初めて結びつきます。天照大神は,降臨する天孫の父方の祖母。高皇産霊尊は,降臨する天孫の母方の祖父という関係を,切り結ぶのです。
 そこに至るまでは,天照大神中心の叙述がなされていました。
 2神は,たったこれだけの関係なのです。極めて危うい関係と申せましょう。

 私は,日本書紀における天照大神と高皇産霊尊の関係を,「ねじれた接ぎ木構造」と呼びます。その原因は,何でしょうか。

 それはやはり,2神の出会いがあったからでしょう。それ以外には考えられません。
 どんな出会いでしょうか。私はそれを,すでに述べました。
 この2神の出会いは,それぞれの神をいつき祭る氏族の出会いです。その出会いの場所は,南九州にある日向の吾田です。海洋神天照大神(当時は日の神)は,神武天皇の先祖と共に,南九州にある日向の吾田にいました。日向の吾田地方にいた海人がいつき祭る海洋神でした。これが海幸彦です。
 そこに,天羽羽矢(あめのははや)と真床追衾(まとこおうふすま)をシンボルとする高皇産霊尊がやってきました。これが山幸彦です。山幸彦は矢を持っていました。2神は,ここで融合します。

 だからこそ日本書紀は,海幸彦と山幸彦に関する第10段を挿入したのです。それは,神武天皇以降の血筋を語るうえで,なくてはならない伝承でした。吾田の地で山幸彦の血が海神の血に混じっていく物語が第10段なのです。これがなければ,神武天皇以降の皇統の歴史を語ることができなかったのです。
 そして,この2神をいつき祭る神武天皇が「東征」する。はるばる大和までやってきた氏族は,やがて天の下を平定する。そこにはすでに,大己貴神がいました(第8段第6の一書)。饒速日命もいました。


第10段の位置づけと天孫がやってきた道

 第10段がなぜ挿入されたかについても,ここでもう少し述べておきましょう。

 第10段とは,結局,狩猟して獣肉を食う山幸彦が勝利し,海神の娘豊玉姫と玉依姫と婚姻を繰り返し,海神の血が濃くなるような展開になっています。ですから,一見,弥生文化とは関係ない話のようです。農耕,五穀や養蚕は,ここには登場しません。これをどう考えるか。天孫降臨は,五穀と養蚕をもつ弥生文化の神が,縄文世界である葦原中国を侵略する話でした。そのあとに,かえって五穀と養蚕から遠ざかるような血縁を結んでいるように見えることを,どう考えるのか。

 日本書紀の神話では,天つ神の子孫であることを示すアイテムが2系統あります。天照大神神話につながるものとしての玉,剣,鏡。これらは,後述するとおり,天照大神と素戔鳴尊の象徴です。玉は天照大神が所持していた八坂瓊の五百箇の御統(やさかにのいおつのみすまる)。剣は素戔鳴尊が八岐大蛇から取り出した草薙剣。鏡は天照大神そのもの。
 一方,高皇産霊尊を象徴するものとして,天羽羽矢(あめのははや)があります。高皇産霊尊が,天降ろうとした天稚彦に授けた矢です(第9段本文)。しかしそれは,神武天皇が天つ神の子であることを証明するアイテムでもありました(神武即位前紀戊午12月)。

 天羽羽矢,すなわち弓矢は,神武天皇につながっていく山幸彦,すなわち彦火火出見尊が持っているアイテムです。そしてそれは,高皇産霊尊につながるアイテムです。これに対し海幸彦は,古来から吾田にいた海洋神天照大神につながる伝承であり,系譜です。


宗像三神が天孫の露払い役を務める理由

 この2つの伝承が吾田で出会います。出会ったという根拠は以下のとおりです。

 日本書紀第6段第1の一書には,天照大神(じつは単なる日の神)が,宗像三神を,「筑紫洲」に天下らせて,「道の中に降り居して(くだりまして),天孫を助け奉りて,天孫のために祭られよ。」と命令したとあります。
 日の神,すなわち天照大神は,すでに九州のどこかにいて,朝鮮からやって来る天孫を迎えるというのです。そのために,宗像三神を鎮座させたというのです。驚くべき異伝です。

 第6段第3の一書は,天降らせた場所を,はっきりと述べています。この短い異伝は,そのために残されたのです。「葦原中国の宇佐嶋(うさのしま)」に天下らせ,それは「今(日本書紀編纂当時をいう),海の北の道」の中にあるといいます。これを名付けて「道主貴(ちぬしのむち)」といいます。道中の神という意味です。
 宗像三神は,もとは,宇佐にあって,朝鮮からやって来る天孫を迎えたというのです。

 朝鮮から日本にやってくるには,対馬,壱岐を伝って北九州へ来て,そこから敦賀,能登半島,新潟に至るルートがありました。当時は,北九州に至ってから沿岸沿いに航海したか,あるいは出雲あたりに直行して,そこから本州を北上しました。いずれにせよ,出雲は,朝鮮からやってくる要地なのです。
 出雲創建の神である素戔鳴尊の愛娘たちが,宗像3神として玄界灘に祭られていたのは,当然と言えば当然でしょう。

 この宗像3女神は,言ってみれば,朝鮮から海路でやってくる天孫の露払い役です。海路に脅威があれば,天孫もやってこないでしょう。

 素戔鳴尊は,第8段本文で明らかになるとおり,出雲国の建国者です。その子孫が大己貴神ないし大国主神です。出雲は,朝鮮から筑紫洲(つくしのしま)への海路をにらむ位置にあります。素戔鳴尊に邪心がないことを確認できたからこそ,天孫の進出もできたのでしょうし,宗像三女神を天降らせることができたのです。

 宇佐を南に下っていくと,日向です。南九州の東海岸です。天孫降臨の地は,南九州の「日向の襲の高千穂」でした。彼らは,不毛の地を国まぎして,「吾田の長屋の笠狭碕」に到着します。これは,南九州の西海岸です。そこで事勝国勝長狭から国を献上され,その地を支配します。

 南九州に天孫降臨した高皇産霊尊の子孫は,そこにとどまり定住します。その期間は,天孫降臨後「179万2470年余り」でした(神武天皇即位前紀)。
 これが海幸彦,山幸彦の物語です。こうして神武天皇は,のちに「東征」に旅立つのです。


古事記ライターは日本書紀編纂者の苦労などどこ吹く風で書き流している

 さて,ここまで日本書紀の神話の体系を論じたうえで,古事記に戻りましょう。

 私は,日本書紀の神話の根幹をなす,「ねじれた接ぎ木構造」を論じました。天照大神と高皇産霊尊がどのような関係を切り結んでいるのかを検討しました。その結果,第9段本文冒頭の系図でやっと関係を結んでいるだけの,極めて危うい関係にすぎませんでした。

 さて,古事記はどうなっているか。もはやご承知のとおりです。日本書紀編纂者のこうした苦労など,どこ吹く風。いけしゃあしゃあと,次のように始まります。

 「天地(あめつち)初めて發けし時(ひらけしとき)」,「高天原(たかまのはら)」に成れる神の名は,「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」,「高御座巣日神(たかみむすひのかみ)」,「神産巣日神(かみむすひのかみ)」。高御産巣日神を含めた3神が,すでに高天原にいるという前提です。
 この「高天原」が,「天」とどういった関係にあるのか。そんなことには目もくれません。

 ところが,国生みの命令,いわゆる修理固成の命令をする神は,はっきりしないのでした。「天つ神諸(もろもろ)の命(みこと)もちて」,伊邪那岐命と伊邪那美命に国土の修理固成を命令するのですが,この「天つ神諸(もろもろ)の命」とは,高御産巣日神ら3神だけでなく,それまでに生成された宇摩志阿斯訶備比古遲神や天之常立神らを含む総体をいうのでしょうか。

 そして,国生み,神生みの果てに,天照大御神ら3神が,禊ぎによって登場します。すでに高御産巣日神がいるから,以後はこの2神が命令者となります。
 その後誓約や天石窟などのお決まりの話があって,国譲りという名の侵略と天孫降臨につながっていきます。この,日本書紀の第9段に相当する部分で命令者となるのは,高御産巣日神と天照大御神です。

 神々の総体という観念さえも,あっという間に忘れ去られ,高天原の支配者天照大御神が生まれます。
 古事記によっても,天照大御神1神が命令者となる方が筋が通っているのではないでしょうか。しかしさすがに,日本書紀のような「ねじれた接ぎ木構造」は避けたかったのでしょう。
 古事記ライターは,高御産巣日神を,何の根拠もない無前提の大前提として登場させてしまうことにより,問題を解決しました。

 この2神は,並立的立場になっています。何をするにも,この2神の「命(みこと)もちて」,すなわち2神の命令をもって,となります。

 神話の実相としては,高皇産霊尊と天照大神の2神に関する,別々の神話体系があったはずです。日本書紀編纂者は,「ねじれた接ぎ木構造」をそのままにしておくしかありませんでした。この2つの神話体系を,きちんとした整合性あるものとしてつぎはぎすることは,不可能でした。
 ところが古事記は,それを洗練させています。

 洗練された神話体系と,ほころびのある神話体系と,どちらがより新しいのか。私は,ほころびのある神話体系を元に,それをソフィスティケイトしたのだと考えます。それが古事記です。


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