第16 速須佐之男命の乱暴

 

労働する最高神などあるのか

 さて,古事記の話に戻りましょう。

 天照大御神は,高天原で田を作っていました。誓約に勝った速須佐之男命は,田んぼの畦を壊し,溝を埋め,大嘗の殿にうんちをまき散らしました。しかし天照大御神は,さすがに心が広い。これを許します。ところが速須佐之男命の乱暴は止まりません。天照大御神が「忌服屋(いみはたや)」で「~御衣(かむみそ)織らしめたまひし時」,「天の斑馬(ぶちこま)を逆剥ぎに剥ぎて」放り込み,「天の服織女(はたおりめ)見驚きて,梭(ひ)に陰上(ほと)を衝きて死にき。」となってしまいます。これに驚いた天照大御神は,天の石屋にこもってしまいました。
 このように天照大神は,田んぼを作り,機を織るのです。

 全能の神ゼウスが,こんなみじめったらしい労働をしたでしょうか。イエスを人間社会に送った全能の神は,食うために労働をしなければならなかったでしょうか。労働という罰を与える立場にあるのが神だったのではないでしょうか。

 天照大神が最高神だなんて,変じゃないでしょうか。ただしこれは日本書紀も同じですから,古事記ライターの責任ではありません。


五穀と養蚕の文化に対する反逆が描かれている

 それはともかく,ここに描かれているのは,朝鮮から伝来した(日本書紀で言えば第5段第11の一書,第6段第1及び第3の一書),五穀と養蚕を基本とする古代農耕社会です。

 前述したとおり,日本書紀第5段第11の一書に,はっきりと書いてあります。それが第7段本文につながっているのです。天照大御神は,五穀と養蚕の創始者だったのです。これは,古事記だけを読んでいてはわかりません。
 速須佐之男命の乱暴は,五穀と養蚕の文化の破壊であり,反逆行為です。古代の農耕は,神と直接つながっていました。ですからそれは,農耕社会の破壊というだけでなく,神に対する冒涜となるのです。だからこそ,高天原から祓われて,追放されるのです。

 古代社会では,農業を営むことが文化があるか否かと同等に論じられた時代がありました。
 日本書紀を読んでみましょう。斉明天皇の時,遣唐使は,苦難の末に唐の洛陽で時の皇帝高祖に拝謁しました。遣唐使は,蝦夷(えみし,東北地方の住人。)が毎年大和の朝廷に朝貢していると説明します。高祖は問います。「其の国に五穀有りや」と。遣唐使は答えます。「無し。肉を食いて」生活していると。さらに高祖は,その国に家屋はあるのかと問います。遣唐使は,家屋はない,深山の中で樹の下に住んでいると答えるのです(斉明天皇5年7月,伊吉連博徳の書)。

 農業を営んで定住生活をすれば,当然,家や倉が必要です。こうして余剰の産物が生まれ,交易が生まれ,富が蓄積されていきます。ここでの蝦夷は,未開人扱いです。家屋という上等な居住施設があるかという質問と並んで,五穀があるかという質問が,未開か否かを図る1つの尺度だったのです。

 そうすると,弥生文化に反逆する速須佐之男命は,いかなる神なのか。縄文の神なのか。それは,後ほど検討する機会があるでしょう。


五穀の話がめちゃくちゃになっている

 さて,古事記における五穀と養蚕は,どこに描かれているでしょうか。

 日本書紀の保食神(うけもちのかみ)の話(第5段第11の一書)に相当する話は,大気都比売神(おおげつひめのかみ)の話になります。ところがこれは,速須佐之男命が高天原を追放されて出雲に降る直前に置かれています。ここで初めて,蚕や稲,粟,小豆,麦,大豆ができたとしているのです。さらにそれを取り上げて種としたのは,「神産巣日の御祖命(みおやのみこと)」だとしているのです。

 これは,多くの人々が指摘しているとおり,いかにも唐突です。なぜ速須佐之男命の出雲降りの途中で,五穀が生まれなければならないのでしょうか。物語としての必然性がありません。
 出雲に降ってその種を播いたというのであれば,筋が通ります。しかし,神産巣日(ここでは神ではなく命となっていますが,もう,無視しましょう。)が取り上げてしまったのですから,出雲とは関係がないのです。物語の流れが途切れています。唐突と言うほかありません。

 しかし,唐突の内容は,それだけではないのです。天照大御神は五穀の神でした。ですから,速須佐之男命の高天原での乱暴の前に五穀が生まれていないと,話の筋が通らないはずなのです。

 古事記ライターは,日本書紀編纂者がきちんと整理してくれた伝承さえも,わかっちゃいないのです。2書は同時代の書物ですから,日本書紀が引用する第5段第11の一書等の異伝を把握していたはずです。日本書紀編纂者は,第5段第11の一書で五穀と養蚕を用意し,第7段本文につなげました。ところが古事記ライターは,とんでもなくトンチンカンな配置をしています。

 私には,わけがわかりません。配置の理由を考えても,時間の無駄だという気がいたします。


逆剥ぎに格別な意味があるのか

 速須佐之男命は,「天の斑馬(ぶちこま)を逆剥ぎに剥ぎて」,投げ込みました。逆剥ぎに,格別な意味があるのでしょうか。

 日本書紀第7段本文には,「剥」としかありません。それを,「さかはぎにはぎて」と読むのは,古事記を無視すれば,格別根拠がありません。
第1の一書は「逆剥(さかはぎ)」とし,第2の一書は「生剥(いきはぎ)」としています。すなわち日本書紀は,「剥」(本文),「逆剥(さかはぎ)」(第1の一書),「生剥(いきはぎ)」(第2の一書)を区別しています。そして,公定解釈としては,単なる「剥」を採用したのです。

 ですから,「剥」を「さかはぎにはぎて」と読むべき理由はありませんし,「逆剥」だけに格別な意味があるとも言えません。「生剥」とも言っているのですから,「逆剥」に格別呪術的な意味があるとも思えません。呪術的意味を日本書紀編纂者が認めていたのであれば,本文では「逆剥」を採用したことでしょう。ここでは,五穀と養蚕の文化に対する反逆,素戔鳴尊が祓われねばならない根拠を描こうとするのですから。

 古事記は,なぜ「逆剥ぎに剥ぎて」としたのでしょうか。

 じつは,「逆剥」とする第1の一書では,稚日女尊(わかひるめのみこと)という神が機を織っていて,やはり梭で身を突いて死ぬのです。古事記も,これと同じ伝承なのです。機織り女が死ぬという点では同じです。そして古事記は,「逆剥」というたんたんとした言葉に飽きたらず,例によって,「逆剥ぎに剥ぎて」という,祝詞のような言い回しをしたのです。これだけのことであり,古事記ライターはこれ以上のことを考えていません。

 私は,第1の一書を基にしたリライトにすぎないと考えます。そして,「逆剥ぎに剥ぎて」とくると,何か呪術的な雰囲気が出ちゃいますが,祝詞的言い回しを多用する古事記ライターの,癖のある表現のひとつにすぎません。


天照大御神は誰のために神御衣(かんみそ)を織っていたのか

 それよりも問題は,天照大御神が忌服屋で神御衣を織っていたという点です。これを根拠に,天照大御神は,本来,神に仕える巫女であり,「祭る神が祭られる神になった」という「観念」が広まりました。そうした神話伝承が研究されました。この問題にかけた学者さんたちの人生や労力を考えると,気が遠くなってしまいます。

 しかし本当でしょうか。

 一度頭を真っ白にして,原理原則から考えてみましょう。天照大御神は,五穀と養蚕の創始者です。だからこそ,高天原で田を作り機を織る神として描かれています。私は,労働する神が本当に最高神なの?という疑問をもっていますが,日本書紀も古事記も,天照大御神を労働する神として描いているのですから,しかたがありません。

 その,労働する神,天照大御神が機を織っていて,何が悪い。人民(ひとくさ)が着る衣類は「衣」でしょうが,神さんが着る衣類だから「神御衣」になる。それだけのことだ。私は,声を大にして,憤然として抗弁したくなります。

 この問題には,これ以上答えようがないのです。


愛情細やかな母天照大神だから神衣を織っていても何の不思議もない

 たくさんたくさんお勉強している人に限って,そんなに単純な問題じゃないと言うでしょう。
 私は無知ですから,日本書紀の叙述と文言しか知りません。しかしそこには,イメージ豊かな天照大神像が残されています。そこから考えてみましょう。

 天照大神は,愛情細やかな母なのです。
 天孫降臨の章にある第9段第2の一書を読んでみてください。一般には,天照大神が命令者のように言われていますが,まったく違います。その役割は,降臨しようとする天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)を心配し,こまごまと世話をやく母親です。

 まず第1に,「宝鏡」を天忍穂耳尊に授けて,天照大神を見るがごとくこの鏡を見て,あなたがいる同じ床,同じ大殿に置きなさいと指示します。第2に,一緒に降ることになった天児屋命(あめのこやねのみこと)と太玉命(ふとだまのみこと)に対し,大殿に仕えて,天忍穂耳尊をきちんと護りなさいと命令します。第3に,食事の心配をして,高天原で育てていた「斎庭の穂」を天忍穂耳尊に与えます。第4に,男1人ではなにかと心配だから,ついに高皇産霊尊の娘万幡姫(よろずはたひめ)を妃にして,結婚させてしまいました。

 これは,侵略の命令者ではなく,子供を送り出す母親の姿そのものです。私は愛情細やかと言いましたが,ここまでくると,子を溺愛して母子一体型になってしまった親子です。天忍穂耳尊がきちんと精神的に自立できるのか,人ごとながら心配するくらいです。

 これだけ細やかで家庭的な天照大神が,機を織っていて何が悪い。家族のために機を織っていて何が悪い。

 古代から機織りは女性の仕事でした。そして天照大神には,母のイメージがあります。しかも労働する神です。五穀と養蚕の創始者です。母として機を織る。神々の世界のお話だから,その着物は,当然「神御衣」と呼ぶことになります。ただそれだけのことではないでしょうか。
 日本書紀編纂者も古事記ライターも,「祭る神が祭られる神になった」などという,こむずかしいことなど,何も考えていません。


学者さんの説の馬鹿馬鹿しさ

 学者さんたちは,神御衣を織ることは神に仕える巫女のする仕事であるから,天照大御神の原像は巫女であったといいます。

 冗談じゃない。

 それは,人間社会の現実じゃありませんか。神の世界も人間社会と同じだったと考えるなんて,おかしくありませんか。祝詞のような言い回しを多用している古事記の世界では許されるのですか。神の世界には,神を祭る巫女などいません。神の世界は神の世界であって,絶対的な世界ですから,神をあがめ奉る神などいません。神をあがめ奉るのは,愚かな人間です。頼るものがないから,最後には神を頼るのです。人間の世界と神の世界との間には,厳然たる一線があるはずです。その一線を曖昧にして踏み越えてはいけない。そうすると,神が神でなくなってしまう。神に仕えて機を織る巫女的な神が神の世界にいるなんて,私は,馬鹿馬鹿しい幻想だと思う。

 要するに,人間世界の習俗を神々の世界に投影して解釈しようとする,方法論自体が間違っているのです。

 駄説に付き合わされた日にゃ,たまったもんじゃない。無駄な人生を送ってしまう。神話を志した人間にとっては,よく考えると,本当に恐ろしい話なのです。


神衣に叙述上の焦点はない

 第2の一書を読んでみましょう。この異伝は,日の神が機殿(はたどの)にいたときに,生剥ぎにした斑駒(ぶちこま)を投げ入れたとし,日の神が神衣を織っていたのかどうか,じつははっきりしていません。機殿にいたのだから機を織っていたのでしょうが,そんなことはもはやどうでもよいのです。ここでの問題は,機殿を汚しあるいは妨害する,農耕文化に対する反逆が問題なのです。伝承自体が,神衣を織っていたかどうかに興味を示していないのです。

 機を織っていたという描写は,いわば,行きがかりじょう入った叙述にすぎません。


誰のために機を織っているのかわからない

 祭る神だとしたら,天照大御神が祭っていたのはいかなる神なのでしょうか。

 日本書紀を読む限り,決して高皇産霊尊ではありません。
 日本書紀における高皇産霊尊は,第9段までまったく無視されています。第1段第4の一書のさらに異伝で,ほんのちょっと紹介されるだけで,その後まったく登場しません。天照大神が機を織る第7段はもちろん,第8段まで,まったく無視です。神話上の神としての位置づけさえされていません。

 確かに,第7段第1の一書で,天照大神を誘い出す方策を考える思兼神の父として言及されます。しかし名前が出てくるだけです。また,第8段第6の一書では,大己貴神とともに葦原中国を作った,少彦名命の父として登場します。たったこれだけです。しかも,ここが大切なところですが,すべて異伝です。公定解釈である本文ではありません。本文だけを通読すると,第9段でいきなり登場すろという仕掛けになっています。

 詳しく言えば,皇祖神の2元性をどうとらえるかという問題になります。ここでは言及しませんが,皇祖神の2元性を,その内容を検証することなく信じ込み,天照大神の上にあるのは高皇産霊尊だろうと考える人もいます。しかし,日本書紀編纂者は,そこまで高尚な神話体系を考えていません。

 古事記はどうでしょうか。

 古事記は,その冒頭から,神の差別化をしていました。別天つ神と神世七代です。これらの神でしょうか。しかし天照大御神は,高天原の最高神であり支配者なのですから,それはありえません。古事記ライターの叙述からすれば,高天原と高御産巣日神ら3神さえも支配するはずなのです。そして,特に高御産巣日神ら3神は,獨神(ひとりがみ)となって身を隠したのでした。神話の表舞台から姿を消したはずなのでした。

 古事記ライターは,「祭る神が祭られる神になった」などという「観念」など,これっぱかしも考えちゃいないのです。だから,それ自体が矛盾だらけではあるけれども,こうした叙述をしているのです。
 それでもこだわるならば,至高神,宇宙神盧舎那大御神(うちゅうしんるしゃなおおみかみ)みたいな神を,勝手に考えるしかありません。

 「祭る神が祭られる神になった」という「観念」が,いかにとんでもない妄説であるかがおわかりかと思います。日本書紀と古事記の叙述と文言をきちんと理解しないと,勝手な妄想があたかもリアクターのように増殖し,勝手な神話を作ってしまうという悪例です。


天照大神は男か女か

 さて,ついでに,日本書紀に従って,天照大神は男か女かという点を考えておきましょう。

 素戔鳴尊は,高天原に上る理由として,「姉(なねのみこと)と相見(あいまみ)えて,後に永(ひたぶる)に退りなむと欲ふ」と述べています。天照大神を「姉」と呼んでいます。天照大神は女のようです。

 「姉(なねのみこと)」という文言はあてになるのでしょうか。
 「なね」は,広辞苑第4版によれば,「ナノエの約。ナは一人称代名詞。人を尊み親しんでいった称。兄・姉など,男女共に用いる」とあります。通説は,我の長という意味だとします。だとしたら,兄かもしれないし姉かもしれない。決め手にはなりません。

 しかし,「なねのみこと」というのは,しょせん,後世における訓です。「姉」こそに意味があるはずです。だとすれば,やはり女なのでしょう。

 しかし,原理原則からすればどうでしょうか。
 すでに述べたとおり,日本書紀第1段本文冒頭は,陰陽2元論で始まっていました。途中矛盾もありましたが,伊奘諾尊と伊奘再尊による国生みや神々の生成は,まさに陰陽2元論に従っています。日本書紀本文も,第4段の国中の柱(くになかのみはしら)を回る場面で,伊奘諾尊を「陽神」とし,伊奘再尊を「陰神」と呼んでいます。
 男は陽であり女は陰です。陽は太陽であり陰は月です。ですから,天照大神は陽神であり,本来男でなければならず,月読尊は陰神であり,本来女でなければならないはずです。

 叙述も男らしい。
 天照大神は,素戔鳴尊が海を轟かせ,山が吼えるような大音響を鳴り響かせながら高天原に上ってくるのを見て,弓矢や剣で重武装し,庭の堅い土を踏み抜くほどに踏み,淡雪が舞うように蹴散らかし,雄叫びをあげて素戔鳴尊をなじり問いました。この部分は,単にド迫力があるだけでなく,読み下し文で読むと,流麗で気品もあります。場面描写として,よくできた部分です。古事記ライターは,ここまで文学的な文章は書けませんでした。

 とにかく,ここでの天照大神はまさに男です。しかし古代の女性は,積極的に戦闘に参加したという説もあります。だとすれば,女を否定することになりません。

 第6段本文には,高天原に上ってくる素戔鳴尊を見た天照大神が,「髪を結げて(あげて)髻(みづら)に為し」とあります。髻(みづら)は,17,8歳以上の男子の髪型です。すなわち,戦いに備えて男装したのではないかという推測が成り立ちます。「裳を縛き(ひき)まつひて袴に為して」というところも,同様に考えられます。

 広辞苑第4版には,「【裳】・@上代,女子が腰から下にまとった衣。万五「立たせる妹が―の裾ぬれぬ」A律令制の男子の礼服(ライフク)で,表袴(ウエノハカマ)の上に着用したもの。B平安時代以来の女房の装束で,最上衣の唐衣(カラギヌ)の腰から下の後方にまとった服。」とあります。上代は女性の服だったのです。女性でしたが,戦闘に備えて,動きやすい男の格好にしたのです。

 天照大神が,「神衣を織りつつ,斎服殿に居(ま)します」(第7段本文)という部分もあります。機を織るのは,やはり女でしょう。

 また,第6段第1の一書は,天照大神が,「大夫(ますらを)の武(たけ)き備(そなえ)を設けたまふ」と書いています。これは,天照大神は女だったが,特にこの時男装したということでしょう。

 そこで,「姉(なねのみこと)」に戻ります。日本書紀編纂者ないし天照大神は,素戔鳴尊を,一貫して「弟(なせのみこと)」(本文及び第1の一書),「弟(いろせのみこと)」(第2の一書)と呼んでいます。すなわち,年下の兄弟を,男か女かを区別して呼んでいるのです。だとしたら,「姉」というのも,年長者をも,男女を区別して呼んだものでしょう。

 第7段第3の一書では,天照大神自ら,「吾,婦女(たおやめ)なりと雖も何ぞ避らむ。」と述べています。

 日本書紀編纂者は,天照大神を女神と考えているようです。


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